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終章 第35話
朝もやの山並みの中に、時折なにかが飛び上がる影が見える。近づくとそれは炎のような尾をはためかせ、山奥を駆け巡る獅子と狛犬だった。
いくつもの山を駆けては登り、やがて獅子が飽きて姿を消しても、狛犬はなにかを振り切るようにいつまでも走り続けている。
最後に見晴らしのいい崖の上に立ち、悲しげに遠吠えしたあとは、口元を硬く引き結び、いつまでも微動だにしなかった。何日も何日も同じ様子で、それは再び獅子がやってきて狛犬に帰りを促すまで終わらない。
数えられなくなる程繰り返された、人間は誰も見ることのない光景。
獅子と狛犬はとある神社の眷属だ。
関東地方にありながらも相当な山深さで、県道から秘密の山道へ入り、半日歩かないとたどり着けない場所。時代が変わっても不便さは変わらない。
ネットには載らず、口頭だけで脈々と受け継がれ、ひっそりと、だが途切れることなく人々はこの神社を訪れる。
花は少し前からこの神社の祭神となった。
少しといっても、人間の時間に換算するとそれはだいぶ昔からということになる。
この神社への出向が決まったとき、さすがの花も動揺したらしい。通常なら祭神の入れ替えが行われるような神社ではなく、かなりのレアケースだったようだ。
以前は宮司がいたが、世代交代での跡取り問題がうまく行われず不在となった。だが今でも熱心な氏子たちが管理しているため、神社が荒れることはない。
鳥居の手前、向かって右側にいるのが獅子となった涅で、左側にいるのが狛犬の白だ。二匹は花の助けとなるために、この神社に遣わされた。
「いやー最高の気分ですね、やっぱり」
「退屈だったんじゃないのか、一所に収まるの。それで喫茶店の仕事を放り出して、人間界を散策していたんだろう?」
「もう……僕の場合白さんと違って、自由に動きすぎたペナルティなんだから、触れないでくださいよ」
「祭神様によれば、とっくに刑期は終えていると聞いているが」
「だって僕が獅子で白さんが狛犬ですよ。僕の方が位が上じゃないですか。それだけでずーっと楽しんでいられます」
「それも聞き飽きたよ。お前ってほんとしつこいな」
「そうです、しつこいんですよ僕。何度でも噛みしめる度に口に出して言いますから。でも白さんだって、なんだかんだ、いつもつきあってくれるじゃないですか」
「まあな」
「結構僕のこと好きですよね」
「まあ嫌いじゃねーな。なんだか大きな恩があった気もするし」
祭神である花は大忙しで、ほぼ台座に座ることがないので、神社の平和は眷属である白と涅が任されている。
忙しさが続く時期もあるが、大抵は自由に山を駆け巡り、神社を守って暮らしている。涅と無駄話をしながら。
もうどのくらいの期間そうしていたかは、忘れてしまった。
いつものように喧嘩寸前のような会話をしていると、白装束の男性ふたりがやってきた。
神社の参拝客は平服の者と、今のように白装束の者が半々だ。後者はやはり熱心な者が多い。普段通り参拝客を検分しようとすると、微妙な表情の涅と目が合った。
「どうした? 涅」
基本的に神社は来る者拒まずだが、とんでもなく邪悪な存在や、危害を加えそうな者は排除することもあるから大切な作業だ。涅もそれは十分わかっているはずなのに、動きが鈍い。
「白さん、もしかして気づいていないですか?」
「だからなんだ。特に問題ない参拝客だよな」
「…………そうですね。白さんがそれでいいなら、もう僕に言うことはないです」
その時、ふたり連れのうち若い方の男性が、立ち止まった。白たちがいる、本殿の屋根上あたりに視線を這わせている。
「あいつ、俺たちが見えているのか?」
一瞬驚いたが、涅はなぜか無言で首を振るだけだ。
「幸福に押しつぶされて死にそうだ」
「なんだって?」
若い男性がつぶやくと、連れである年上の男性が、不思議そうに聞き返した。
「なんだろ? 急に頭に浮かんできて……変だな、ちょっと泣きそう」
「大丈夫か?」
「……はい」
「そうか……じゃあ、お参りしにいこうか」
「ねえ、人生でそんなふうに思える瞬間って、あるのでしょうか」
「わからないけれど、知りたいことをとことん考え抜くために、この旅をしているんだろ」
「そうですね」
丁寧にお参りを終えたふたりは鳥居をくぐり、一礼して去っていった。
「白さん」
「なんだ?」
「僕たちがここの眷属外されるのも、そろそろかもですね」
「次はどうなるんだ? 死神はもうごめんだ」
「白さんも僕も、ここで結構点数稼いだはずですけど、また戻ったりして」
残り少ないと知ったら、この山が少しだけ惜しくなる。長い間自分に向き合い、崖の上で苦しんだ日々も遠くなった。
人間だったときに大切なものがあったはずだが、もう思い出すことができない。
だが、最後の人間の人生を終えたあとにできあがった幸福の玉が、心の奥深くに存在しているから、白はもう寂しくない。
この先どんなことが起きても、それだけは消えることがないからだ。
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