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17. 秘密の夜

宮田圭悟のシークレットライブの日は、日帰り出張が入った。 帰りの新幹線で座る前にスマホを見ると、開演時間の少し前だった。 「これから家に帰ると何時になるの?」 窓際に座った支店長に聞かれる。 「十時少し過ぎます。支店長は品川下車ですか」 「そう。私は十一時ぐらいかな。でももう飯食ったし、風呂入って寝るだけだから」 滑るように列車が走り出した。 俺が手元の書類を整理して、クリアファイルに収めるのを眺めていた支店長が、何気ない様子で口を開いた。 「須藤くん、この先、静岡もやる気ある?」 静岡は、数は少ないものの優良代理店が多くて、支店長の担当地域だ。 「静岡を。支店長はどうされるんですか」 「入札関係もあるし、大窪の教育も兼ねて県内に力を入れてもいいのかな、とね、まだ私の頭の中だけで考えてる段階」 支店長は後ろを気にしながら、座席の背をゆっくり倒した。 「須藤くんは、最終的に何の仕事したいか、前に聞いた時、本社の業務って言ってたっけ」 「一応は」 とうっかり口に出したが、温和な性格の支店長はうんうん、と頷いた。 業界内で転職を繰り返して食っている先輩を何人か見ているうちに、そこそこ困らないだけの金を稼いで一人で生きるためには、あれがいい手だなと思うようになった。当然俺は結婚しない。実家と呼べる場所も既にない。 本社勤務の希望は建前で、条件のいい求人があれば転職するだろう。 ただ、神崎さんにせよ支店長にせよ、この会社に入ってからは周囲に恵まれていた。 「一応は、そのように考えています」 慌てて言い直した俺の言葉を、支店長は頷きながら聞き流した。 「静岡は、任せていただけるなら尽力します」 「やってくれるのはわかってる。ただ、長期的に君がどうしたいか、ね。もしやりたいことがあれば早め早めに手をつけてった方がいい」 「はい」 「今は数字さえ持ってくりゃいい世界だけど、先行くと勉強が必要でしょ。須藤くん覚えがいいから、今ならいくらでも吸収できる」 「ありがとうございます」 俺は手に持った水のペットボトルを、座席の前の物入れに押し込んだ。 支店長が目を閉じたので、ポケットからもう一度スマホを出す。吉村さんからの連絡を期待したのに、今日暇じゃない?と北沢からメッセージが入っていた。 北沢はすぐに電話に出た。 −おー。あれ、新幹線? 「何でわかるんだ」 −俺、鉄だから、ってのは嘘だけど、デッキの所でしょ?音でわかる。 「さっき名古屋出て帰るとこで。元気そうだな」 −元気だったら、元カレにメッセージなんかしないっしょお。 暗い窓に、自分の笑顔が映った。 「どうした」 しばらく北沢の息づかいと街のざわめきだけ聞こえていた。 −相談したかったの、ちょっとね。 「うん」 −俺またフラれそう。 「またって、前聞いた奴じゃないのか」 −前に話した人だよ。南にフラれて、その次もフラれる。悪夢だね。 「おい、俺がフラれたんだろうが」 −あっは、あんた、たまに面白いこと言うけど、それは冗談きつくね。 「わけわかんねえな、相変わらず。あ、トンネル入った」 −ねえ、新横浜行くから、一杯だけ付き合わない? 吉村さんからメッセージが届いた時は、適当に入った居酒屋で北沢と向かい合っていた。 木曜出張です、と俺が週末に書いたのを覚えていたらしく、出張お疲れ様、という一言だけだった。ライブの日程について、別に話はしていない。 北沢に断って、ちょっと考え、 −戻ってきて友達と会ってます。ライブどうでしたか? と送って、スマホをテーブルに伏せた。 北沢は一杯目のビールを飲み干して、店員に向かって手を挙げながら、 「彼氏いつできたん」 と言う。 「今の?」 「うん、違った?すみません、もう一杯同じの。南は?」 「同じで」 北沢は、俺がビールの残りを飲んでしまうのを眺めていた。 「南は全部顔に出るから。簡単」 「単純で申し訳ない」 「全然悪口じゃないよ。そういうとこが良かったって話よ」 「じゃあ、何で別れた」 軽口を叩くと、北沢は笑顔になった。 「さっきの話。確かに俺が別れようって言ったけど、それはあんたのせいだから」 「俺のせいか」 「まあね」 新しいジョッキでもう一度乾杯し、笑顔のままだったが、北沢はテーブルに肘をついて、大きく息を吐いた。 「今の人は、俺のこと好きなの。でもやっぱりフラれる方向が見えてる」 「どうしてそうなる」 「どうしてだろ」 もう一度、深いため息をついた。 「南はね、俺のことそんなに好きじゃなかったからね」 虚を突かれて黙ると、 「返信、来てるよ」 北沢は、俺のスマホを指差す。 三杯で切り上げて店を出て、駅に続く交差点に差し掛かる手前で、ちょっと、と袖を掴まれ、路地に引っ張り込まれた。 「寒い」 北沢はコートの類を着るのが嫌いで、いつも薄着のくせに寒がりだった。さっき駅で顔を合わせた時に、寒くないかと聞こうとしてやめたのだ。 抱きつかれて腕を回すと、細い体から力が抜けて、どちらからともなくキスした。 裸で抱き合うとまるでお菓子みたいに口に頬張りたくなる良い匂いがしたことを思い出し、同時にかすかにその匂いが鼻先をかすめたが、滑らかで湿りっ気のある唇が吸い付く感触もとうに忘れていたし、今こうしてくちづけているのに、全部が遠くに感じられる。 吉村さんが夢中になって俺の口の中を探り、息を継ぐ時に薄い唇が濡れて光って、はあはあと呼吸しながら震える様子を、比べるつもりもないのにリアルに思い浮かべた。 過去のことといえば聞こえはいいけれど、何もなかったみたいに忘れて、愛しいとかかわいいとか大好きだとか、そう思ったことは覚えているのに、今は何も感じない。傷口に風が当たるように、痛みが胸にしみ渡った。 冷えたスーツの背中をぽんぽんと叩いていると、そのうち唇が離れた。 「変わんないね、南」 「何が」 「何が、じゃないよ、ったく」 また腕を引っ張られて、路地を出た。信号を無視して横断歩道を渡り、駅が近づく。 「お前、風邪ひかないようにな」 「南は、その年上に優しくしたげなね」 「してる」 「そうか。好きなんだもんね」 俺の手に自分の手を軽くぶつけて、 「今日ありがと」 と北沢が言った。その手を挙げて、俺は彼の首の後ろを軽く撫でた。 「俺、北沢のことも好きだったけどね」 あはは、と北沢は笑い声だけ立てた。 −ライブは盛況でした。温泉で会った人も来てた。 吉村さんのメッセージを電車の中で読み返し、部屋に帰ってからもう一度読んだが、その夜は返信できなかった。 何か間違ったことをしたように引っかかっているのは、キスではなく、吉村さんに優しくしていると北沢に即答したことだった。 優しくするし、好きだし、会いたい。全部本当だった。でも、例えばあのファンの女性や旦那らしき男に感じたほのかな優越感と嫉妬や、宮田圭悟に向かって、お前はもうお呼びじゃねえんだ、二度と手出すなと言ってやりたい衝動は、俺が自分で思っていたより、心に占める面積がずっと大きいようだ。 吉村さんを自分に繋ぎ止めたいということ、あの人の全てを俺だけが見たいということ、俺は南と付き合ってるから、と吉村さんが誰かに言う場面を想像すること、お前は俺のものだろ、とどさくさに紛れて言ったらどんな反応をするだろうと思いを巡らせること。 自分勝手か。目を閉じても、眠気は一向に訪れなかった。

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