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要らない指輪
学生の時から世話になっている塩谷先輩には、俺に不要品を押し付けてくる悪癖がある。
独身者用1kの狭いアパートにテレビが二台あるのも、魚を飼う予定もないのに水槽があるのも、ダサい富士山型貯金箱も、全部、塩谷先輩のせい。
そのくらいなら、別にどうってことないけれど。
*
会社帰りの金曜日、いつものように家飲みをして、泊まっていくと思っていた先輩が、『明日は用事があるから帰る』と言い出した。
終電まであと10分、家から駅まで徒歩で8分。
ダッシュすればギリギリ間に合うかも知れないが……。
──それなりに飲んだのに大丈夫かな。
呆れと心配と……少し残念な気持ちと。
明日は二人で格ゲー三昧だと思っていたのに。
バタバタと慌てて玄関に向かう背中を追っていく。
革靴に足を突っ込んだ先輩が、玄関ドアに手を掛けて振り向いた。
「あ、忘れるとこだった」
時間がないというのに、先輩はゴソゴソとスーツのポケットに手を入れて、何かを探している。
「あれ?どこいった?」
「先輩、電車、間に合わなくなりますよ」
「うーん、確かここに入れたはずで……あった!ほら、これ、お前にやるよ」
「え?」
ぐいっと突き出された拳に、反射的に手を差し出すと、ポトリと小さな何かが掌に落とされた。
「エンゲージリング。振られて要らなくなったから、お前にやる。じゃあな」
「……は?」
口早に言った先輩がドアを開けると生温い初夏の風が吹き込む。
掌に目を落とし、先輩の言葉を反芻して、やっと理解した。
「ちょっ、まっ……先輩っ!」
目の前でバタンと閉まったドアに慌てて取りつく。
──って、靴、靴はどこだ!
無くさないように、指輪を深さのあるポケットに押し込み、スニーカーを乱暴に履きながらドアを押し開けた。
そりゃ、要らなくなったデジカメとか、木彫りの熊とか、貯金箱とか。
そんなんなら、別にどうってことないけど。
──エンゲージリングって!
冗談じゃねぇよっ。
*
「待てこのっ!」
アパートを飛び出してみれば、先輩は全力ダッシュをかまして約150mの直線を走りきり、左角に背中が消える所だった。
もう十年以上前になる学生時代、400mハードル関東大会入賞の先輩と、短距離県大会入賞を逃した俺と。
──いい年して、深夜の追いかけっこかよっ。
頭が覚えているスピードに体が追い付かず、転びそうになりながら、駅までの700m弱を駆ける。
角を二つ曲がると、先輩の背中が見えた。一つ目の角で休憩してしまった割りに、離されていない。先輩も、最近は大して運動していないらしい。
「先輩!」
チラッと俺を振り向いた先輩は慌てたように腕の振りを早くして、距離はなかなか縮まらない。
あっという間に駅の看板が近付き、後ろ姿が地下鉄へ降りる階段に吸い込まれて行く。
──くそっ、間に合わねぇっ!
後を追う俺の目に、鞄のポケットから薄い定期入れを抜き出す先輩が映った。
Soicaを持ってくることなんて思い付かなかったし、そんな暇もなかった。
時計を見れば、電車が出るまで後、2分。たった170円あれば、切符が買えたのに。構内に入られたら、もう追いかけられない。
──ダメか……っ。
改札口に、先輩が定期入れを押し付ける。
「先輩……っ!」
ビーッと不快な音がして、立ち止まった先輩が振り向いた。
「あー……と。チャージ、忘れてた……」
顔をしかめた先輩の腕をがっちり握って、俺は額から流れ落ちる汗を拭った。
*
急いでチャージして走れば、まだ終電に間に合ったかもしれない。
けど、先輩の腕を掴んでアパートに帰る方向へ足を進めた俺を、先輩は止めなかった。
「あー、久々に全力で走ったら疲れた。しかも間に合わなかったし」
「そっすね」
「すげぇ汗掻いちった。アパート着いたらシャワー貸して」
「どうぞ」
「お前、結構、足早かったなぁ」
「そっすか」
「駅降りた時にさ、『あ、残金ねぇや』って気付いてたのになぁ」
「そっすか」
生返事しかしない俺に、先輩は浮わついた調子で喋り続けていた。
「なぁ、坂口……。なんか怒ってる……?」
けど、変にハイテンションだった先輩は、アパートの玄関ドアを潜ると恐る恐るといった風に俺の顔を覗き込んできた。
「怒るっつうか、呆れてます」
「……っ!」
「とりあえず、上がって」
腕を引っ張るけれど、先輩はたたきに踏み止まり俯く。
「……手ぇ、出して下さい」
俺が言うと、先輩がパッと顔を上げてブンブンと首を振った。
「やだ」
「先輩……。」
俺が大きく溜め息を吐くと、先輩の肩がビクッと揺れる。
「こんなの、貰えるはずないでしょう」
ポケットから取り出した指輪を差し出すけど、先輩はドアに張り付いたまま動かない。
「それはもうお前にやったんだ。捨てるなり売るなり、好きにしろ。ただし返品は不可だ」
手を背中側に回して隠し、そんなことを言う。
「……今まで何でも有り難く貰ってきましたけどね。さすがにこれは要りません」
そう言って先輩のスーツのポケットに勝手に入れようとしたら、先輩が慌てたようにポケットをぐしゃりと握る。
「俺も要らねぇもん!」
「もん、とか言うなボケ」
「な……、え……?ぅわっ」
チッと舌打ちをして、俺はその小さな指輪をワイシャツの襟から中へポトリと落としてやった。
「な、何すんだよっ」
「それはこっちの台詞です。不要品を人に押し付けないでください」
「はぁ?お前、役にたたないのだって、ダサいのだって嬉しそうに受け取ってて、むしろこれなんかちゃんと金になるのに、何でダメなんだよっ」
「……人をゴミ箱がわりにすんな」
「あ……、ち、違……っ」
思ったよりも冷たい声になって、スラックスを半脱ぎにした先輩が泣きそうな顔をする。
「って……、あんた、何で俺んちの玄関でストリップ始めてるんすか」
「ゆ、指輪、どっか行った……。」
「はぁ?ちょ、人ん家であんな高そうなの、無くさんでくださいよ?!」
「お前が変なとこ、入れるから悪いんだっ」
「あー、もう!取り合えず一旦、中に入って」
軽く手を引くと、今度は素直に靴を脱いで部屋に上がってくる。
「こっちにはないみた……、先輩!」
目を皿のようにして玄関を確認し、振り向いた俺は絶句した。
男同士、夏に泊まっていく時なんか、先輩はシャワーからパンいちで出てくることなんてしょっちゅうだ。今更、生足くらいでは動揺しない。
けど、これはダメだ。
うっすら瞳に涙を浮かべて頬を赤く染め、唇を震わせながら服を乱して体の線を自らなぞる先輩……。
落ち着け俺。分かってる。先輩は指輪がどこかに引っ掛かってないか、探っているだけ。
カツン……ッ、と硬い音がした。
「「あ」」
同時に気付いて手を伸ばす。
指先が触れそうになって、俺は慌てて手を引いた。
俺が拾う必要はない。先輩が拾って持って帰ればいい。
しかし、指輪を拾い上げた途端、先輩は何故か部屋の中へと走っていった。
「先輩?何して……」
追いかけて部屋に入ると、パソコン机の辺りに先輩の背中があった。
振り向いた先輩はニヤッと笑い、ゆっくりと両手を上げて左右に振る。
両手?
「は!?指輪は?」
「隠した」
「な……っ。何でそんなこと?!」
偉そうに腕を組んだ先輩が、フン、と鼻で笑ってふんぞり返る。
まだ少し潤んだままの瞳で、ワイシャツからすんなりした足を見せつけながら仁王立ちって、ふざけんな。
「お前がちゃんと受け取らないから」
「当たり前でしょう!何であんなものを俺が……っ」
「……あんなものって」
先輩が不服げに口を尖らすけれど、そんなことに構っていられない。
「どこに隠したんです?」
「言うわけねぇだろ」
「あんた、サイテーだな……っ、クソッ」
苛立つ感状のまま罵ると、先輩の瞳が揺れたように見えた。その揺らぎの元を見極める前に、ヘラリと軽い笑みが先輩の頬に浮かぶ。
「宝探し、なんちゃって。見つけて売っ払えば、そこそこの金になるぜ?」
「なら自分で売って少しでも代金を回収すればいいでしょう。婚約指輪を人にやるなんて、非常識ですよ。振られたのは気の毒ですけど……」
そこまで言ってから、胸焼けしそうな嫉妬と安堵と……悔しさに絶句する。
「先輩が結婚を考えてたなんて、全然知らなかった……」
毎週のように一緒に飲んでいたのに、教えても貰えなかった。
溜め息をついて言葉を呑み込む。先輩の体を押し退けて、ペン立てや小物入れをひっくり返して探すけど、小さな指輪は見つからない。
「隠し場所、いい加減に教えてくださいよ……っ」
振り向くと、俺はどんだけ凶悪な顔をしていたのか、先輩がひゅっと息を呑んでから弱々しく唇の端を持ち上げた。
「どこに隠したか、忘れちゃった」
アンタは小学生のガキか。
詰め寄る俺から目を逸らし、先輩は明後日の方を見やる。
「先輩!」
「もう、アレはお前のだもん」
「あんたが!誰かのために選んだ指輪なんて、見たくもねぇんだよ……っ。人をゴミ箱扱いすんのもたいがいにしろ!」
彼女への想いを込めた指輪なんて、存在すら知りたくなかった。
頭に血が昇っていた俺は、うっかり際どい発言をしてしまってハッと口をつぐむ。
「……違っ、ゴミ箱になんて……っ」
幸いなことに、俺の失言はスルーされたようだ。ふと、先輩がワイシャツの裾をぎゅっと握りしめていることに気付く。
「だ…て、そうでも……なんて…」
「え?何……?」
聞き返すと、先輩がキッと顔を上げて叫んだ。
「そうでも言わなきゃ、お前に指輪やれねぇだろ。ただの自己満でも、坂口にエンゲージリングやりたかったんだよっ」
「は?」
「要らない指輪っつったの、嘘だし!あれ、お前に買ったんだもん。けど、男にそんなん貰ったって困るだけだろ。お前と遊べなくなったりしたらヤだから、プロポーズって気付かれないように考えて、プロポーズしたんだもん!」
「もん、じゃねぇよ!……って……、え?」
反射的に罵ってから、捲し立てる先輩を呆然と見詰める。
「要らないから、っつえば、いつも通り受け取ると思ったのに、めちゃめちゃ嫌な顔しやがってっ。ガラクタでも嬉しそうにしたくせして、肝心の物は拒否るって、なんなんだよ……っ」
「……んなの当たり前でしょうがっ!?」
今、聞いたことが信じられない。先輩は何て言った?
「好きな人が、自分じゃない誰かにあげるはずだったエンゲージリングなんて、受け取れるわけない……」
「す、き……?」
「好きですよ、先輩」
涙目で俺を睨んでいた先輩が、目を真ん丸にして口を開閉させる。
「ど、どういう意味で?」
「アンタと同じ意味で」
「……っ」
花が綻ぶように先輩が笑った……と思ったら、なぜか疑わしげな表情で、また俺を睨み付けてくる。
「お前、それ、指輪の隠し場所を吐かせるための嘘でした……とか言わねぇだろうな」
「んな嘘つくかよ。先輩こそ、俺に不要品を押し付けるための嘘じゃないでしょうね」
「ち、違うもん」
「もん、はヤメロ。まぁ、例え嘘だったとしても、言ったことの責任はとってもらいますけどね」
「……っ!」
フッと笑ってやると、先輩がモジモジとワイシャツの裾を引っ張って首まで赤くなった。
ワイシャツと生足と、照れ。
そのコンボ攻撃に、俺は意味もなく打ちのめされる。
はにかむ先輩が示したのは、富士山型貯金箱だった。
「ここに入れた」
……って、マジかよ。これ、壊さないと中身を出せないタイプなんだけど。
*
先輩に貰ったものを破壊するなんて、有り得ない。
先輩がノリノリで壊そうとするのを阻止して、膨れっ面になった先輩をシャワーに押し込み、お金を入れる所から鳥もち方式で指輪を釣り上げた。
「やっと取れました」
シャワーからとっくに上がって、俺が貯金箱と格闘している横で寝転んでテレビを見ていた先輩が、ガバッと起き上がる。
と思ったら、にじりよってきた先輩に、指輪を奪われた。
「え?俺にくれるんじゃなかったんですか」
そう口を尖らす間に、左手を取られた。
「指、ピンッて伸ばせ」
「あ、はい……」
息を呑んだ俺の薬指に、銀色の輪がゆっくりと嵌められていく。埋め込まれている透明な石は、もしかしてダイヤか。
「ピッタリ」
先輩が得意気に笑った。
「お前んち泊まった時、指輪のサイズ、こっそり測ったんだ」
「……アンタ、どんだけ俺のこと好きなんすか」
囁いて、先輩の左手の薬指にキスを落とした。
「今度は結婚指輪、買いに行きましょうね、お揃いの」
「う、うん……、ン」
初めて味わう先輩の唇は、めちゃくちゃ甘かった。
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