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2 自分の責任は自分で
「よ、お待たせ」
珍しく、御子柴がコンビニの袋をぶら下げてきた。
昼休みが始まると同時に教室を出て行ったところまでは見ていたのだが、どうやら購買のラインナップに飽きたらしい。
屋上のフェンスにもたれ、今日は御子柴は来ないんだろうか、それとも待っていた方がいいのか、先に食べてもいいのか——と、考えを巡らせていた俺はようやく解答が得られた。
「遅い」
「ってことは待ってたんだ」
御子柴はとかく、こういう重箱の隅をつつくというか揚げ足をとるというか、そういう無駄な能力に長けている。言ってろ、と胸中で毒づきながら、俺はハムエッグパンにかぶりついた。
隣に座った御子柴の方から、ふわりと蒸気が漂ってきた。カップラーメンのクリームシーフード味。御子柴は箸を割り、まずスープを飲むと、麺を啜って、幸せそうに咀嚼していた。
俺の視線に気づいた御子柴が小首を傾げる。
「いる?」
「いや、いいけど。お前もそういうの食べるんだ……って思って」
「なんでだよ、食べるだろ。冬限定だぞ」
的外れなことを言いながら、御子柴はカップ麺を平らげていく。
限定とかそういうのは知らないけど、まぁ、たまに食べたくなる気持ちは分からないでもない。
それに冬空の下、寒風にさらされながら食べるカップ麺はそれなりに美味そうだった。
「……いる?」
「だからいいって」
「まぁ、待ってな。あとでとっておきやるから」
ハムエッグパンの細かく砕かれたゆで卵が落ちないように舌で拾いながら、とっておきって何だろうと思った。とっておき。……御子柴が言うと何故か不穏だ。
お互い、昼飯を食べ終わったところで、時刻は一二時半を回っていた。
御子柴は空になったカップ麺の容器を置くと、がさごそとコンビニの袋を探り始めた。
「じゃーん、デザートです」
満面の笑みと共に差し出されたのは、シュークリームだった。
生クリームとカスタードクリームがダブルで入っていて、それはもうクリーミーでボリューミーだとパッケージに謳われている。
ぽいっと放られたそれを受け取りながら、俺は眉を顰めた。
「なんで急に?」
「んー、気分」
御子柴は青空を眺めながら、ぱくぱくとシュークリームを食べていく。
俺は手の中にあるふわふわの物体を戸惑いがちに見つめていたが、せっかくもらったものだし、と袋を開けた。
御子柴に倣い、思い切ってかぶりつくと、ぶわっとシュー生地が膨らみ、白と黄色のクリームが一気に溢れ出てきた。
「——んむっ!?」
口の回りはおろか、鼻の頭まで甘い匂いで満たされる。おずおずと一旦シュークリームを降ろす。隣を見やると、案の定、御子柴がにやにやと笑っていた。
「下手くそか」
「う……うるさい」
今、俺の顔面はきっと末代までの恥のような醜態をさらしているのだろう。一刻も早く拭いたかったが、生憎、ティッシュもハンカチも持ち合わせていなかった。水道で洗ってこようにも、これ以上誰かに見られたら生きていけない。
困り果てていると、突然、御子柴に肩を掴まれ、向かい合わせにさせられた。俺はクリームだらけの口端を引きつらせる。
「……笑いたきゃ笑え」
「ちげーよ、ちょっとじっとしてな」
御子柴の手が頬に触れたかと思うと、長い親指が俺の唇を軽く押した。ふにっと唇が潰れる感覚にぎくりと全身が強張った。
御子柴の指は口の左側を、ついで右側をそれぞれ拭っていく。そして仕上げとばかりに人差し指で、俺の鼻の頭を弾くように触れ、わずかについた生クリームごと、自分の指をぱくっとくわえた。
「ん、甘い」
「おまっ、なに……!」
あまりの光景に、俺の言語機能が支障をきたした。混乱する俺を無視して親指をも舐めようとする御子柴の手首を、とっさに掴む。
「食べんな、んなもん!」
「もったいないじゃん」
「そういう問題じゃないっ」
ああ、もう最悪だ。口の周りはまだクリームの名残でべたついてるし、御子柴は奇行に走るし。思わず深い溜息を吐いていると、御子柴がにやりと口端を吊り上げた。
「じゃあ、水無瀬が食べろよ」
「……はい?」
本気で意味が分からず、顔を顰める。
ずいっと差し出されたクリームだらけの親指に、俺は一拍遅れて御子柴の言わんとしているところを知った。
「お。おま、おまえ——」
「はい、どうぞ」
「どうぞじゃねえよ……」
「食べ物を粗末にしちゃいけません。それに俺の指をこのままクリームまみれで放っておくつもりか」
御子柴は不敵な笑みを浮かべ、俺の表情を下から覗き込んだ。
「自分の責任は自分で取れるよな?」
整った鼻梁が、形の良い眉が、何より黒曜石のように輝く瞳が——その暴力的な美しさで俺を強請ってくる。
こんなもの間近で見るもんじゃない。俺はうろうろと左右に視線を彷徨わせ、苦し紛れに抗弁した。
「っていうか……ピアニストの指だろ、歯とか……当たったらどうすんだよ」
「舐めるのはいいんだ」
「だから揚げ足を取るな」
「言質って言って欲しいね」
こんの——俺は本気で心配してるのに! きっ、と精一杯睨み付ける俺に対し、御子柴は綺麗に微笑んでみせた。
「水無瀬ならいいよ、信じてるから」
……全身から、力が抜ける。
あ、駄目だ、と思った。
俺はどうあがいても御子柴を拒むことはできないのだ、と。
「……分かったよ……」
がっくりと項垂れた頭をのろのろと上げて、俺は覚悟を決める。御子柴の手首を両手でそっと引き寄せ、親指に唇を近づける。ごくりと固唾を呑み込み、舌先を出す。
慎重に、少しずつクリームを舐めとる。指に触れないよう、表面から少しずつ。
俺が聞きかじったところによると、甘味は舌の先が一番感じるのだとか。
それにしたって……甘い。
盛大に失敗したあの一口目よりも、よっぽど。
「あのー、水無瀬くん。昼休み終わっちゃいますけどー」
「う、うるさいな、ちょっと黙ってろ」
クリームがいよいよ少なくなってきた。ここから先は舌で御子柴の指に触れなければならない。間違っても、傷つけないように……。
緊張で頬を強張らせる俺を尻目に、御子柴が唐突に言った。
「あ、そうだ。口開けて」
目の前で御子柴が「あーん」と口内を晒すので、俺は反射的にそれに倣った。瞬間、御子柴の指が口の中に押し込められる。
「んん——っ!?」
防衛本能で口を閉じる。とっさに唇を窄めて、歯が当たらないようにしたが。いや、危ねえだろ! 目を白黒させて抗議を訴えるも、御子柴はどこ吹く風といった様子だ。
「一気に舐め取ればいいだろ」
口内で御子柴の指が動く。俺の舌を指の腹が優しく擦る。少しざらついた感触に、背筋をぞくぞくと何かが駆けた。待ってくれ、と懇願したかったが、口を塞がれているのでままならない。
御子柴の指は一見、真っ直ぐで美しい。けれど頬の裏の粘膜に触れるのは、紛れもなく男性らしい節だ。皮膚の下の骨張った感触が通る度、心臓が痛いほど早鐘を打つ。
眉間に深い皺が寄る。いつの間にか俺は御子柴の制服の袖に、強く縋り付いていた。ふ、ふ、と必死に息を繋ぐ。唾液とまざったクリームが喉の奥に溜まっていく。もう、限界だ——
きつく目を閉じた瞬間、ちゅぱっと音を立てて、御子柴の指が引き抜かれた。ごくり、と唾液を呑み込み、俺は荒い呼吸を繰り返す。
頭に酸素が回ると、幸か不幸か自分が今の今までしていたことを、冷静に顧みることができてしまう。
御子柴が苦笑しながら、俺の顔を覗き込んだ。
「だいじょぶ?」
「死ぬ。っていうか、死にたい……」
羞恥で満たされた顔面を両手で覆う。御子柴はぽんぽんと俺の頭を叩いた。
「ごめんごめん、ちょっとやりすぎた」
「ちょっとじゃない、ふざけんな」
「お前、まだ口の周りベタベタじゃん。ほら、これ使えよ」
と言って、御子柴がコンビニ袋から取り出したのは、お手拭きだった。
——時が、一瞬止まる。
イケメン? 天才ピアニスト? 関係あるもんか。
俺は怒りに任せて、御子柴の襟首に掴みかかった。
「……それを先に出せええええッ!!」
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