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4:そういうとこだぞ、お前

 冬の乾いた空気に喉が痛む。寒風が校庭から砂塵を巻き上げた。火照った体に冷えた汗、その落差に不快感を覚える。上がった息に激しく波打つ心臓が、体の疲労を訴える。  コートの中央にいるコーチ役の体育教師がホイッスルを鳴らした。 「スローイング、いくぞ!」  ミニサッカーの後半十九分、つまり残りあと一分だ。白線の外から高牧が腕を振り上げた。その視線は間違いなく俺を見ていた。  ……が、ボールは俺の頭上を大きく通り越した。 『え?』  多分、コート上にいた全員がそう思っただろう。たまたまボールの落下地点にいたバレー部の設楽(したら)が、その身長を生かしてヘディングする。設楽がつけているのは赤いゼッケン、つまり俺たち白組の対戦相手である。高牧の投げたボールは敵の手に渡り、設楽のアシストを受けたフォワードが呆気なくネットにボールを押し込んだ。  ピィィィ、とホイッスルがけたたましく鳴り響く。タイムアップ。スコアは二対一。赤組がハイタッチをして喜んでいる中、高牧は俺に駆け寄ってきた。片目をぱちんと瞑りながら。 「ごっめ〜ん、失敗しちゃった☆」 「手で投げれんのにミスるとか、お前、どうなってんの?」  穏やかに呆れていたのは俺だけで、他の仲間は高牧を囲んでボコり始めた。人の輪から「ぎゃーっ!」と響く悲鳴に背を向けて、俺は校庭の隅に引き下がる。ミニサッカーとはいえ帰宅部の俺には結構な運動だったので、疲れ果てていた。 「お疲れさん」  コートから少し離れたところに立っていたのは御子柴だった。  群青の学校指定ジャージを着て、両手は冷えないようポケットに突っ込んで、首には黒いネックウォーマーをしている。俺や他の奴らと同じ格好なのに、こいつだけスポーツブランドのモデルか何かに見えるから不思議だ。汗だくの俺とは対照的に涼しい表情を浮かべている。足元のスニーカーもまったく汚れていない。  御子柴は体育の授業のほとんどを見学する。もちろん、怪我をしたらピアニスト業に影響するからだ。学校に届け出を出して、特別に許可されているというわけである。  俺は汗で体が冷えないようジャージの上を羽織った。コートでは別の組の対 戦が行われている。御子柴は頭を左右に倒して、首の筋を伸ばしていた。 「体動かしてーなー。サッカーくらいしてもいいと思わね?」 「いや、怪我したらどーすんだよ」  高牧が失敗したスローイングのように手も使うし、スライディングタックルやショルダーチャージといった体を張るプレーだってある。バレーやバスケよりマシとはいえ、やらないに越したことはない。 「てか、ピアノって足も使うだろ。ペダル踏んだり」 「そうなんだけどさ。あー、早く夏になんねーかな」  水泳は御子柴が参加する数少ない授業の一つだ。ちなみにこのハイスペック男は百メートル自由形のテストで、弱小水泳部の高牧を圧倒した。もちろんクラスで一位のタイムである。 「持久走はどうすんの?」  来週には近所の河原を五キロ走る、地獄の持久走テストがある。 「スケジュールが合わない。毎日ランニングしてるからそこそこいけると思うんだけど」 「お前、そんなことしてんだ」 「言っとくけど、ピアノはスポ根」  御子柴はぐっと力こぶを作ってみせる。ジャージの上からじゃよくわからないけど、どうやら筋トレもしているらしい。優雅なピアノと体を鍛えることがどうしても結び付かず、首を捻っていると、コートの方から声が上がった。 「——危ねぇ!!」  え、と思った時には、放物線を描いたサッカーボールが頭上から迫ってきていた。高速回転するボールを何もできずに、ただ見つめる。まるで俺に吸い込まれていくような動き。あ、これ、顔面直撃するな、と他人事のように思った。  刹那、強く右肩を引かれる。後ろによろけた俺とボールの間に割って入ったのは御子柴だった。それまで妙に冷静だった俺は、途端、さっと血の気が引いていくのを感じた。  御子柴が、怪我してしまうかもしれない。  それだけは、 「だっ……」  ——駄目だ。  震える手を伸ばそうとするが、腕が硬直して動かない。御子柴の背中の向こうから、どっ、と軽い衝撃音がして、ボールがぶつかったのだと知り、自責の念が津波のように押し寄せた。  しかし、 「よっ、と——」  御子柴は小さく飛び跳ねると、ボールを胸でトラップしていた。一度膝でリフティングし、右足の内側でボールを蹴る。 「返すぞー」  ぽん、と飛び出したボールは、寸分の違いなくミスキックした選手の足元に落ちた。彼は御子柴の軽やかな動きに目を丸くしていたが、「悪い」と一言謝ってから、試合を続行した。  俺は、コートに軽く手を上げる御子柴の横顔を呆然と見つめる。 「え……うま」 「先に礼を言え、礼を」 「あ、ありがと」 「どういたしまして」  御子柴の視線が、俺の頭のてっぺんから足の爪先までを念入りに行き来する。そうして俺に何の異変もないことを確認すると、満足げに笑った。その間、俺の脳裏に巡ったのは、肩を引いた御子柴の力強さ、ボールを捌いた華麗な動作、そして空気を孕んで膨らんだジャージの背中だった。  うまく視界を定めることができない。赤く染まった眦を自覚しながら、地面に目を落とすと、御子柴がそっと屈んで、俺の耳元に声と吐息を吹き込んだ。 「——かっこよかった?」 「っ……」  我知らず膝が折れ、ずるずるとしゃがみ込む。いったい何を食ったらこんな人間が出来上がるんだか。俺は頭を抱えながら、苦し紛れに呟いた。 「そういうとこだぞ、お前……」

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