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お触れ(1)

「フラン! どこにいる!」  裏庭の井戸から水をくみ上げていたフランシス・セーデンは、屋敷の主であるマットソンの呼ぶ声におろおろしながら振り向いた。 「フランシス! どこだ!」 「だ、旦那様……」 「呼んだらすぐに返事をしろと言っているだろう。それから、私と話す時は仕事の手を止めるようにとも……」 「あ、はい!」  フランが慌ててロープを放すと桶がするすると滑り落ちていった。ボチャーンと大きな水音がして、石で囲った井戸の底で水が跳ねる。 「あ……」 「バカ者! 水汲みの途中で手を離す奴があるか!」 「ご、ごめんなさい」  急いでロープを掴み直すが、桶はすでに井戸の底だ。最初からまた引き上げねばならない。 「まったく、これだからオメガは……」  マットソンがため息を吐く。 「まあ、いい。水汲みは後にして、ちょっと来るんだ」 「え、でも……」  躊躇するフランを見て、「もたもたしてないで、さっさと動け!」と厚みのある商い台帳でバシンと尻を叩いた。 「あの……、僕、親方に、夕方までに(かめ)をいっぱいにしておくようにって、言われてて……」 「そんなものは、他の誰かにやらせろ。わしの言うことを聞くのが先だ」  来いともう一度尻を叩かれて、仕方なく後をついてゆく。  誰かにやらせろと言われても、炊事場の下働きの中でも一番下っ端のフランには、頼める相手などいない。水汲みが間に合わなければ、また親方に叱られる。 (どうしよう……)  それに、ふだん、主であるマットソンがフランに声をかけることはほとんどない。とても嫌な予感がした。  知らない間に大きな失敗をしていて、特別なお目玉を食らうのだろうか。フランはひどく心配になった。 (また、晩ごはん抜きかな……。もしかしたら、一日じゃ済まないかも……)  昨日も洗濯物に染みを作って、罰として夕飯を減らされた。朝はいつも|白湯《さゆ》のような|粥《かゆ》が一杯与えられるだけだ。下働きのフランには昼食という概念がないので、夕飯を抜かれると粥一杯で一日の労働に耐えなければならない。  オメガのフランはただでさえ身体が小さく、力も弱かった。あまり食べられない日が続くと、水汲みの仕事が言われたとおりにできなくなる。それでまた叱られるのは、辛い。

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