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予兆(1)
城の中には泉の湧く部屋があった。これは魔法ではなく、城の裏にある山から湧き出るものが引かれているのだった。だから、どのみち水汲みの仕事は必要なかった。
泉は二つあって、片方からは冷たい水が、もう片方からは温かいお湯が湧いている。寝室のそばにある浴室にもこのお湯が来ていて、マットソンの屋敷では奥様でも滅多に入れなかったお風呂に、フランは毎日入ることができた。
さらに、泉の近くには綺麗な石が一つ生えていた。置かれているというよりも、生えているという感じの岩のような形の石で、絵本で見た水晶の結晶に似ている。二つの泉の間にある黒御影石の台座の上に載っていて、いつでもきらきらと七色に光っていた。
ステファンは時々その石を眺めて何か考えていた。
その日、泉の部屋から居間に戻ってきたステファンは、難しい顔でレンナルトに言った。
「ネルダールが、何か妙なことを始めたな」
ボリス・ネルダールはカルネウスの部下で、フランを迎えに来た時にカルネウスの後ろに立っていた男だ。フランを蔑むように見下ろして笑っていた。
「妙なこと? カルネウスの指示かな?」
「わからない」
「最近、王宮は忙しいね」
「ああ。何かあるな……」
街に行く用事があれば、少し様子を見てきてほしいとステファンは言った。自分も調べるつもりだが、ごく普通の街の様子がどうなっているか知りたいと言う。
「じゃあ、さっそく午後からフランを連れて、買い物に行ってこようかな」
レンナルトの言葉を聞いて、フランは本から顔を上げた。
馬車で半時ほどのところにあるレムナの街に行くのは、とても楽しい。レムナはラーゲルレーヴ郡の郡都で、とても賑やかなところだった。
ステファンがあまり一緒に行かないのは、少し残念だった。けれど、レンナルトは、以前「ステファンは一人で行くほうが速くていいんだよ」と説明していた。一人で、こっそり、一瞬だけ行くほうがいいのだと。
街に行く時、レンナルトは平民風の質素で目立たない服を着る。髪色の濃いレンナルトは、貴族だとわかると強い魔力があることを疑われるからだ。実際にレンナルトの魔力はかなり強いのだけれど、無駄に怖がられるのはいろいろ都合が悪いらしかった。
街に行くようになった頃、レンナルトに教えられて気づいたのだが、ボーデン王国では、ほとんどの人が茶色い髪をしている。ミルクティーのような淡い茶色や赤みの強い栗色など、色味も濃淡もさまざまだが、「茶色」と呼べる色合いに含まれる髪色がほとんどなのだ。
フランのような金色の髪はあまり見かけない。ステファンのような黒髪はさらに珍しく、明るい時間に街を歩くと、とても目立つのだとレンナルトは言った。
王族や上級貴族にはどういうわけか明るい髪色の者が多く、平民には濃い髪色の者が多いとも言っていた。
「ただでさえ黒い髪は目立つし、ステファンはあの通り、見た目が異様によすぎるからね。アルファだってこともすぐにバレる」
ラーゲルレーヴ領で黒髪のアルファと聞けば、誰でも闇の魔王を思い浮かべる。平民のふりをしていても、怖がる者は怖がる。だから、あまり明るい時間帯に、街には行かないのだと言っていた。
「行く時は、夜になってからか明け方に、こっそり、一瞬だけ」
レンナルトの説明を聞いて、フランはなんだか悲しくなった。そんなふうにステファンが怖がられなければならないことが悲しかった。
たまごと野菜を挟んだ雑穀パン、果物とミルクの食事を済ませると、レンナルトと一緒にレムナの街に出掛ける準備をした。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってきます」
「フラン、迷子になるなよ」
前に一度、珍しいものに気を取られてはぐれてしまったことがある。
「気を付ける」
フランは少し頬を赤くして、真剣な顔で頷いた。
レンナルトに手伝ってもらって御者台に登る。本当は魔法で動かせるのだから、御者は必要ない。けれど、周囲の目があるのでレンナルトは必ず御者台で手綱を握った。
フランこそ、そこに乗る必要は全くなかったが、キャビンに一人で乗っているよりも、御者台に乗っているほうが楽しい。高いところから景色を眺め、風の匂いを嗅いだり空を眺めたりするのは気持ちがよかった。
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