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ヘーグマン邸にて(1)
ヘーグマン伯爵邸は王都の中心よりもやや北側、王宮に近い一等地にあった。上級貴族の邸宅が多い地区だが、広い屋敷に活気はなく、壮麗な門も閉ざされたままだ。
レンナルトの父である故エドヴァルド・ヘーグマン伯爵が前王の側近だったことはよく知られている。しかし、伯爵亡き後、当時十歳だった第一令息の存在はすぐに忘れ去られた。彼が一度も政治の表舞台に立たなかったこともあり、ヘーグマン伯爵家は人々の記憶から消え去り、たまに話題に上ったとしても「没落した貴族の一つ」として、軽く名前が出る程度だ。
伯爵夫人であるフレドリカがステファンの乳母だったことも、今では誰も知らない。富や権力に目を向ける者にとって、乳母など元々どうでもいい存在だ。彼らにとって重要なのは、せいぜい妃や王子や王女まで。使用人は景色の一部としてそこにあるだけなのである。
十二年前に四人の死者を出した事件の後、ステファンは城の人間を全て王都に送り返した。生まれ故郷に帰った者もいたが、大半はフレドリカとともにヘーグマン邸に移り住み、そのまま使用人や護衛として働いている。黒の離宮を去った彼らについても、王宮の人間たちは何も知らない。何人いたのか、いついなくなったのか、そもそも誰を送り込んでいたのかすら、気に留めていないだろう。
地位や身分のない人間は目に入らない。それが、彼らの特徴である。
「だから、ここは安全よ」
ヘーグマン邸の居間で、フレドリカはそう説明した。王宮の目の前にありながら、全く警戒されていないのだと。
アマンダは、ステファンからも同様の説明を受けたと言い、それでも「国の人員を割いていたのなら、どこかに記録があるのでは」と、念を押すように問い返した。
「探せばあるかもしれないけど、わざわざ探すかしら。十八年前の使用人や末端の護衛兵の記録が残っているとも思えないし」
よほどの事情がなければ調べないのではないかとフレドリカは答えた。調べても使用人や護衛のことまではわからないだろうと。だから、彼らが危険な目に遭うことはないと思うと続ける。
当時の状況を知るフレドリカの口から、人選は下部の人間が行っていたからと聞いて、アマンダは納得したように頷いた。
「でも……、伯爵夫人やご令嬢には、危険が及ぶかもしれません」
やや躊躇いがちに言うアマンダに、「そのことについては、ステファンからも聞いています」とフレドリカは微笑んだ。
ステファンは、フランが城から逃げたと知った場合、敵が最初に探すのはマットソンの屋敷だろうと言ったらしい。マットソンのところで、フランに一人も縁者がいないと知れば、おそらく彼らは途方に暮れる。その次に考えるのが、フランは逃げたのではなく、ステファンがどこかに隠したという可能性だ。その時になって、唯一城に残っているレンナルトとその家族に目を向けるだろうと。
「まずフランはまだ城にいると思わせることで、次には逃げたと思わせることで、時間を稼げる。その間に、もう一度クリストフェルの信頼を得る方法を探すと、ステファンは言っていました」
それでも、いずれ敵はここに来る。
「その時には、この屋敷の護衛の皆さんに、私たちの仲間から応援を出しても構いませんか」
アマンダの申し出にフレドリカはもちろんだと頷いた。必要に応じて、アマンダの助けを借りるようにステファンからも言われていると言う。そして「巻き込んですまない、なんて頭を下げてたのよ。こちらはそれを望んでいるのが、あの子にはまだわからないみたい」と困ったように眉を下げてみせた。
誰よりも強大な魔力を持ちながら、それを武器に、力で相手をねじ伏せることをステファンは望まない。そのステファンに、力になれるなら進んで役に立ちたいと思っていること、そんな人間がまわりにいることを知ってほしい。一人で背負う必要はないのだと気づいてほしいと、母のような立場でステファンを育てた人は言った。
ところで、とフレドリカは首を傾げた。
「ステファンには、当てがあるのかしら」
「当て、ですか?」
「クリストフェルの信頼を得る当て。泉の石が何か教えたの?」
アマンダがフランの顔を見る。フランはゆっくりと首を振った。
フランにはわからない。けれど、フランが知る限り、そんな様子はなかったように思う。
むしろ、石は……。
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