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【第2部 ハウス・デュマー】13.幻日の犬(前編)

 目覚める瞬間は、水中から浮き上がっていくような感覚があった。  薄いカーテンごしの光がまぶしい。起き上がろうとすると左胸の下のあたりが痛む。絆創膏やサポーターで体が固まっているが、昨日よりはずいぶんましだった。勝手に転んだ怪我とはいえ、この程度で済んでよかったとあらためて思う。  緩和剤はまだ効いているのだろうか。体の奥から侵食されるようなヒートの気配は薄いが、皮膚の下にまだ何か潜んでいるようだ。  俺は昨日の服の隣に並べられていたウエストポーチをあけて持ち歩いている薬を眺め、抑制剤の休薬日数を数えた。ふいに、中和剤のパッチはもう無意味だと悟った。頭の中で昨夜の出来事を反芻していると、柔らかいチャイム音が響いた。  淡色のユニフォームを着た看護師が現れ、その向こうに渡来がいる。看護師は慣れた動作で衝立を立てると、俺のパジャマを脱がせて絆創膏やシップを貼りかえ、サポーターを巻きなおした。折れた肋骨は外からはまったく異常がわからないが、しくしくした痛みはあいかわらずだ。捻挫した足首もまだ腫れている。 「着替えなさい。天藍が家まで送るそうだ」  渡来がブランドロゴの入った紙袋をふたつ、テーブルに置いた。平静すぎる声は何を考えているのかさっぱりわからないが、こちらを不安にもさせない安定した雰囲気をまとっている。  俺は礼をいって受け取った。紙袋のロゴはふだん俺が着る服より値段の桁が確実にひとつ多いブランドだが、渡来の声にはこちらからどうこういわせない貫禄があった。外見はまったく似ていないのに俺は祖父の銀星を連想した。彼は小柄なのに見かけによらない迫力があるのだ。  ロードバイクはどうなっているかとたずねると、行きつけのショップを教えてもらえれば修理に出しておく、という。丁寧で至れり尽くせりだが、下手に出ているわけでもない。かといって慇懃無礼でもない。  藤野谷を名前で呼び捨てにしているのも考えあわせれば、単なるアドバイザー、ただの使用人とは思えなかった。すこし会話しただけでも、藤野谷家にとって重要な人物のように感じた。  バスルームで紙袋の中身に着替える。ジャケットから下着まで一揃い入って、シャツの肩も袖の長さもぴったりだ。どうすれば昨日の今日でこれを用意できるのだろう。ぱりっとした布の香りが俺を包み、絆創膏やシップの匂いがまぎれた。ブランド服のラインのせいか、鏡にうつる自分もリニューアルしたような錯覚をおぼえる。  部屋に戻ると藤野谷が待っていた。彼の香りとあの色が視界にまとわりつき、足が自然とそちらに向こうとするのを俺は意識してこらえる。藤野谷は俺をちらっとみて、はっとしたように顔をそらした。俺は顔が熱くなるのを感じた。上から下まで新しい服を着ているのに、裸で晒されているようだった。 「サエ、行こう」  気まずい時間を言葉で破られてほっとする。  捻挫した足首を俺はひきずっていて、ゆっくり歩いて藤野谷についていった。 「サエの家でいいか?」と聞かれてうなずく。藤野谷はFMラジオをつけた。天気予報とニュースの後に音楽が流れる。ふたりともしばらく無言だった。 「こんな形になるとは思わなかった」  信号待ちで藤野谷がぼそりという。 「何が」 「サエとのドライブ。昔何度か誘ったけど、全部断られた」 「そうだな」  俺は無意識に信号の間隔を数えていた。赤が青に変わり、前にならぶ車のテールランプが消える。日曜の道路は空いていた。青のSUVはなめらかに加速して、隣りあうセダンを追い抜く。 「嫌だった?」と藤野谷が聞く。 「嫌とか、そんなのじゃなかった」  車の振動とスピーカーから流れる音楽と車内を占領する藤野谷の匂いに、俺の頭はまたすこし、ぼうっと霞みはじめていた。 「怖かった。おまえといると何が起きるかわからなかったから……大学のあいだは、ずっと」  ひとたび口に出すとほっとした。長年の重石を外したせいだろうか。一方で自分はずいぶん勝手なことをしていると思う。どんな事情があっても騙していたのは俺の方だ。 「そうか」  藤野谷はそれ以上何もいわなかった。俺の家の門前に車が止まるまで、俺たちはずっとラジオから流れる音楽を聞いていた。 「あがっていくか? コーヒーと簡単な朝食なら作れる」  藤野谷はうなずいてエンジンを切った。外に出ると服を入れた紙袋を自然に俺から奪い、ついてくる。俺はガレージの鍵をあける。ロードバイクがないとがらんとして寂しい。 「玄関じゃないのか」 「いつもは使わないんだ」  リビングに藤野谷を通してから洗面所へ行き、時間をかけて手を洗った。左手首の擦り傷に貼った絆創膏に水がかからないようにと思うと自然に慎重になる。鏡の中に見える顔はいつもより白く、違和感があった。服のせいだろうか。  コーヒーメーカーをセットし、パンをトースターに放りこんでリビングをのぞくと、藤野谷は流木のツリーのそばにいた。 「またそれ、見てるのか」 「ああ」  金曜に三波と来たときのように、藤野谷は木彫りのトナカイを指でつつく。 「俺はたぶん、これと同じものを持ってた」 「わかるのか?」 「足や顔がそっくりだ。拾ったんだ、子供のとき、本家の離れでひとりで遊んでいて、倉庫みたいな部屋に落ちていたのを勝手に持って帰った。二頭いたからジンジャーとブレッドって名前をつけていたよ。他のフィギュアと戦わせる空想をして遊ぶんだが、こいつらは三番目に強いという設定だった。足で蹴れるからな。この二頭と腕力があるヘビイってのが組むと最強になる」 「たまたま似てるんだろう。これは俺の母……育ての親が作ったやつだ。毎年クリスマスにこんなオーナメントをひとつくれるから、三十個くらいある。このトナカイは俺が生まれた年に作ったらしいし……」  そこまで話して俺はふと思い至った。佐枝の母は葉月と仲が良かった。俺のトナカイと同じものを葉月が持っていてもおかしくない。だいたいトナカイを一頭だけ作るなんて母らしくなかった。サンタのトナカイといえば歌にもあるように九頭だし、もともと何でもセットで作って人にばらまくのが好きな人だ。  藤野谷の指先で枝に吊るしたトナカイがくるくる回る。俺はこの思いつきを話すべきかどうか迷ったが、タイミングよくキッチンでトースターの音が鳴った。  リビングのテーブルに炒り卵とトースト、コーヒーをならべる。ふたりとも無言だった。藤野谷と向かいあって今日この家で朝食を食べているのはほんとうに奇妙な感じがする。金曜の昼は三波もここで一緒にカレーを食べているから、毎日藤野谷に会っていることになる。  毎日なんて、大学のころのようだ。  食べ終えると俺はリビングのモニターでメールを確認した。藤野谷もモバイルを取り出して弄っている。ダイレクトメールを選りわけ、峡からの連絡を読む。祖父の銀星が来週都内で行われる会合に出席するので、その付き添いをやってくれという話だった。峡は送り迎えしか都合がつかず、佐枝の両親も都合が悪いらしい。  了解と返事をしようとしたとき、ビデオ通話が鳴った。  俺はてっきり峡だと思いこんで取った。だが画面にあらわれたのは加賀美だった。 『零』  俺を一瞥するなり顔をしかめる。 『怪我をしたのか?』  加賀美の声に藤野谷が顔をあげた。俺はモニターと藤野谷をみくらべ、作業部屋で取るべきだったと後悔した。早口で答えた。 「ロードバイクで犬を避けようとして、転んだんだ」  加賀美の眼がぎょっとしたように見開かれたので、いそいで付け加える。 「たいしたことはないよ。車に轢かれたわけでもないし。絆創膏は目立つけど擦り傷止まりだし、せいぜい肋骨を折ったくらいで」 『零。頼むから無茶をするな』  そういえば彼は昔パートナーを車の事故で亡くしたのだ。不用意だったと俺はまた後悔した。 「大丈夫だから。安心して。しばらくロードには乗れないけど」 『そうか。旅行に誘いたかったのに――治るまでお預けだな。でも、また会いたい』  急に俺を映すカメラの映像が真っ暗になった。 『零?』 「待って」  俺はあわてていう。藤野谷がモニターのカメラを手で塞いでいる。 「藤野谷、やめてくれ」 『零、誰かそこにいるのか?』 「加賀美さん、今帰ったばかりなんだ。また連絡――」  ぷつっと通話が切れた。藤野谷が切ったのだ。俺は思わず叫んだ。 「勝手なことするなよ!」  藤野谷はゆらりと体を揺するようにして俺を見下ろした。ソファに座る俺の肩に手をかける。俺の視界が藤野谷の色と匂いで覆われる。 「サエ、あれは誰だ?」  俺は唾を飲みこんだ。 「おまえには関係ない」  藤野谷はまっすぐ俺をみつめて首を振る。 「サエのことは何もかも俺に関係がある」 「何おまえ、勝手なことをいってる――」 「あの男なら、サエと一緒にいるのをハウスで見た」  何と返したらいいのかわからなかった。俺は唇をなめる。 「それで?」 「あいつとつきあってるのか?」  俺は肩にかかった藤野谷の手を剥がそうとした。うまくいかなかった。 「あいつと……どこまで……」 「藤野谷、離せ」 「サエ」  押さえられているのは傷のない右側の方だ。左側は動かそうとするとあちこち痛み、思うようにいかない。  だんだん腹が立ってきた。「だったらどうなんだ」と俺はいう。 「おまえだって三波とつきあってるだろう。あの日だって俺は……おまえを見た」 「サエ」 「ハウスでおまえは三波と踊っていたし、」  俺のヒートがはじまったときも……と先を続けようとした口を俺はあわてて閉じる。 「藤野谷、三波は……いいやつだ。何があったか知らないが、あいつにおかしな真似をするなよ。もし俺が……」  藤野谷がさえぎって何かいおうとするのを俺は無視した。 「俺が三波のようだったら、きっといろいろなことが違った」  藤野谷の手が俺の肩から腕に降りる。あいかわらず離せといっても離れてくれない。匂いも色も近すぎて、抵抗する気力が薄れる。 「俺にとってサエは、サエだ」  声が降ってくる。俺はこの声に弱い自分を知っている。昔からずっと弱いのだ。皮膚の下でむずむずと動くものを感じた。さっきまでどうにかせきとめられていた流れが溢れる寸前になったような、そんな気配だった。  俺の中に焦りが生まれるが、藤野谷は気づいているのかいないのか、顔をぬっと近づけてくる。言葉にならない言葉で、まっすぐ自分の眸を見ろと命令されているようだ。 「昨日サエは、ほんとうにベータなら応えていた、といった」 「……だからなんだよ」 「どうしてオメガならだめなんだ? サエがサエなら俺は――」  藤野谷は俺の右腕をぎゅっと握りしめた。  とたんに俺の全身の皮膚の奥で、熱い花びらがひらいた。  ふるえが背筋を駆けおり、体じゅうの血管をめぐって、どくどくと音を立てる。藤野谷の指が触れたところが甘くしびれ、体のあちこちの痛みもかき消される。色と匂いが俺を圧倒する。 「あ……」  何かいおうとしたはずなのに、まともに言葉にならなかった。痛もうがなんだろうが、俺は藤野谷をふりはらった。何ひとつ考える余裕もなく、両腕が自分の胸を抱くように動く。  頭の一部が、緩和剤の効き目が一瞬でなくなるなど詐欺だとわめいていた。俺の中の熱くなった部分はそんなことは無視して、ただ眼のまえの体に向かっている。  俺は唇を噛んで意識をそらそうとするが、無意味だった。産毛がたち、自分の匂いが拡がったのがわかった。ぎゅっと腕を体に巻きつける。折れた肋骨の周囲が痛んでもかまってなどいられない。 「サエ」  藤野谷が呼んだ。  たった二音なのに、細胞にしみこむような気がした。 「天」  俺は唾を飲みこんだ。 「俺はオメガなんだよ」  声がうわずってかすれる。何をいおうとしているのか自分でもわからないまま、口走った。 「昔ずっと――おまえが嫌がってたみたいな……アルファにまとわりつくオメガなんだ。ヒートがはじまったら……」  さっきまでとはくらべものにならないくらい、藤野谷の匂いが甘美に俺にまとわりつく。きらきらと光のかけらがみえる。あの中に飛びこんでしまいたいと思う。そうすれば堕ちるだけなのはわかっているのに。 「俺がオメガだと知っていたら、おまえはアートキャンプで俺に近づいたり、絶対にしなかった」  俺の口はそんなことをいっているのに、欲望に頭がくらくらした。眼のまえの体が欲しくてたまらない。触れたい。触れてほしい。もう濡れはじめている俺の中心をもっとぐちゃぐちゃにしてほしい。  いつのまにか俺は唇を半開きにしていた。きっと物欲しそうな眼つきをしているのだろう。ただの発情したオメガの顔をしているのだ。こんな顔を藤野谷に見られるなんて耐えがたい。  ここを出なければ。  そう俺の一部がささやく。下半身に集まってくる熱にふらふらしながら俺は藤野谷から顔をそむけ、廊下へ駆け出そうとした。捻挫した足首がグキっと痛む。倒れると思った瞬間に腰をつかまえられ、引き戻された。  ぺたんと床にへたりこんだ俺の視界で藤野谷の腕がぐるりと回り、廊下の壁に押しつけられた。俺の髪を藤野谷の指がまさぐり、眸がまっすぐに俺に向かってくる。 「サエ、逃げるな」 「や…あ……天……」 「サエの全部が好きだ。おまえの絵も、才能も、顔も、息も、光も……」  くちゃりと音が鳴った。藤野谷の舌が俺の舌にからみついていた。口腔をあばれまわり、水音を立てて、唾液をあふれさせる。 「あ……あん…」  藤野谷の腰の中心が俺の腰にぴったりあわせられる。熱い猛りが俺のそれに重なる。 「俺の…光」  藤野谷がつぶやく。  俺の脳みそはすでに馬鹿になっている。藤野谷の言葉の意味がさっぱりわからなかった。鼻を抜ける香りに全身がしびれて溶けそうだ。藤野谷の鼻先が右耳をなぞり、耳たぶを舐められる。俺の手はふるえながら藤野谷のシャツをつかんだ。 「ひかり……って……」 「サエのまわりはいつも光ってる」  熱い舌が俺の耳にねっとりとからみついた。なぞったあとに藤野谷は息を吹きかけ、ささやく。 「きらきらして……」  背中が跳ねあがりそうだ。息があがり、サポーターを締めた胸のあたりが苦しい。なのにそれすら快感に変えるように、腰の甘い疼きがもっと大きくなる。 「はじめてここに来たとき、サエはいつもよりもっと輝いてて――いい匂いがして、たまらなかった」 「あ――天…! 天!」  耐えられずに俺は口走っていた。 「触って……もっと――」  渇望で涙がこぼれた。それが指先でぬぐわれ、皮膚をなぞる指の感覚が俺をさらに駆り立てる。藤野谷の息は俺の顔と首筋を行ったり来たりする。シャツの間から指が入りこみ、へその周囲を弄った。 「ああん……あんっ……」 「いつも冷静に立っているサエも、今みたいな顔をしているサエも……好きだ」  藤野谷の唇が俺のうなじに触れる。電撃が走ったような快感に俺は眼をみひらく。 「サエ」  藤野谷の声は命令するかのように重く響いた。 「誰にも渡さない」

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