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第1話
幸せなんて、人によって形は違うのだろう。
家具の少ない自宅のリビング。
亘理依月 は、横長のソファの中央に座った。
少し前に屈んで、背の低いテーブルを見る。
白いテーブルの上には、少し不似合いな、大きなモニターがあった。傍らにはマイクが置かれていて、タッチパネル式のコンソールが並んでいる。モニターの起動ボタンを押しながら、緊張を鎮めるように大きなマグカップに触れた。茶色いカップは温かく、中にはインスタントの珈琲が入っている。
何かを堪えるような苦々しい表情だった彼は、起動音を耳にしながらきつく目を伏せた。
眉間には皺が刻まれている。
けれど画面が明るくなった時には、それまでの表情などまるで嘘だったかのように、亘理は柔和な笑みを浮かべた。いつもは鋭い眼光を浮かべている切れ長の瞳に優しい色を宿し、まっすぐに正面を見ている。
そこには――画面に向かって走ってくる少女の姿がある。
カメラの起動に気づいた様子で、彼女は駆け寄ってきたらしい。
現在亘理がいる場所は夜更けだが、少女は日溜まりに守られた庭にいた。
「お兄様、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
両頬を持ち上げて、優しい顔で亘理が笑う。
走ってきたからか、頬を赤く染めて息を切らしている少女は、亘理の妹の沙月だ。
柔らかそうな色素の薄い茶色の髪、同色の瞳。白いリボンが、ゆるやかに巻いてある長い髪を飾っている。今日は、水色のワンピースを着ている。ドレスと呼ぶ方がしっくり来るかも知れない。お伽噺に出てくる西洋中世の令嬢のような服装なのだ。
沙月は、庭にあるオープンテラスのテーブルに身を乗り出している。
そこに、あちら側のカメラがあるようだ。
広い庭には緑が溢れている。
平和で穏やかで、時には野兎が顔を出すような、穏やかな田舎の街。
そこが沙月の世界だ。
「今日はお仕事が遅かったのね。いつもなら、お茶の時間には連絡をくださるのに」
「少し立て込んでいたんだ」
亘理の暮らす場所とは、時差がある。沙月はそう理解していた。
彼女は、遠い場所で働いている兄と、ずっと直接会いたいと望んでいる。
しかしそれは出来ないのだと、亘理はいつも答える。兄のその声は苦笑混じりであることが多いが、とても悲しそうに思えるから、今では沙月はあまりしつこく頼まないようにしている。代わりに、お仕事終わりには必ず連絡をくれるようにと、そう念押ししていた。
「沙月は、今日は何をして過ごしたんだ?」
「ええと、今日はねぇ、まずはお部屋の模様替えをしたの。カーテンを春物に替えたのよ。折角生地屋さんに来てもらったから、ついでにドレスも新調することにしたの。お兄様が好きな、桃色のドレスにしたのよ」
「別に俺はピンクが好きなわけじゃないぞ。沙月に似合うと思ってるだけだ」
「まぁ、そうだったの。うーん、私が桃色のドレスを着たら、喜んで下さる?」
「それは勿論だ」
「嬉しい。良かった。そうだ、後はね、ブルーベリーのタルトを焼いたの。それを持って、お友達みんなで、森の先にある湖までハイキングに出かけたのよ。白い水鳥がいたんだけれど、名前は分からなかったのが残念だったの。あ、でもね、タルトは本当に美味しかったのよ。それからみんなでおいかけっこをしていたら、水でドレスが少し濡れてしまったの」
沙月が楽しそうに語る本日の出来事を、亘理は終始笑顔で聞いていた。
――沢山の友達がいる、駆け回ることが出来る。
きっとそれは、妹にとってはかけがえのない日々のはずだ。
それから三時間ほど話した後、名残惜しく思いながらも、亘理は告げた。
「そろそろ明日の仕事の準備をしなければならない。そろそろ通話を切るぞ」
「あら、もうそんな時間? まぁ、気づかなかった。おやすみなさい、お兄様。明日も帰ってきたら、ちゃんと連絡をしてね」
「分かってる。おやすみ」
亘理は最後に満面の笑みを浮かべてから、同じく笑顔の妹と視線を合わせ、そしてモニターの電源を切った。それから壁に掛けてある丸時計を一瞥する。帰宅したのが十時過ぎだったのだが、現在は深夜の一時半をまわっていた。
既に彼の表情は、いつもの通りの無愛想なものに戻っていた。
けれど内心では、彼だって、もっと長い間、妹と話しがしたかったと感じている。
本心を言うのであれば――それが叶うのならば、妹一緒に暮らすことが出来たならば良かった。だが、それは到底無理な、出来ない相談なのだ。だから目を伏せ、そんな思考を振り払う。
亘理と沙月は、たった二人の兄妹だ。
しかし、両親も含めて、四人で暮らしてはいない。
亘理は現在、『国防軍』に所属する軍人だ。
階級は、大尉である。
大尉以上の階級であれば、軍の寮以外で生活することを許されている。勿論、軍が認可した住居に限られるのだが。
それでも、寮以外で一人暮らしをする方がずっとマシだと亘理は思っていたから、大尉になるとすぐに、この家に引っ越した。外観は煉瓦造りで、三階建てのマンションだ。その三階の一室、2LDKのそこが、亘理の自宅である。
妹との通話前に、モニターに入らない位置の、壁に掛けた軍服とネクタイを見る。生々しい戦禍の気配を妹には感じさせたくなかった。下衣は画面に映らないことを知っていたからそのままだが。軍服の横には、黒い厚手のコートと、マフラーがかけてある。
沙月の側のカメラが映しだした風景は、長閑な初夏だった。
だが現在亘理がいる場所は、大雪で、今夜は一際寒い。
嘆息しながら立ち上がり、亘理はシャワーに向かった。
ゆっくりと浴槽に浸かりたい気分ではあるが、時間が惜しい。
明日も早朝から勤務だ。やらなければならない仕事も山積みなのだ。
妹の外見とは全く異なる黒い髪を無造作に洗い、シャワーで流しながら鏡を見る。
そこに映る彼の黒い瞳は、特別何の感情も宿していない。
しかし彼の胸中には、どうしようもない悔恨の念と焦燥感が渦巻いている。無理矢理一言にするならば、亘理は、どうしようもなく悲しかった。だがそんな心情を吐露できるような相手が、彼には存在しない。無論それは、妹にも決して出来ない。
寝間着に着替えて浴室から出た亘理は、冷蔵庫を開けて缶麦酒を取り出した。
プルタブを捻り、一気に煽る。別段彼は、酒が好きというわけではなかったが、飲まずにはいられないというような気分だったのだ。
モニター正面とは離れたソファの位置に座り、煙草を取り出して一本銜える。
深々と吸い、肺を満たしてから、溜息混じりに煙を吐いた。
麦酒の炭酸で喉を癒しながら、窓の外に降りしきる綿雪を、ぼんやりと見据える。しばらくそうしていて、缶をからにしてから、亘理は寝室へと向かい、静かに眠った。
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