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第14話

 亘理は、これまでの人生において、誰かと協力したことなど無かった。  朝――ネクタイを右手で直しながら、姿見の前に立つ。  森永が帰っていったのは、夜明け頃の事だった。それを見送ってから、亘理は眠っていない。実際、自意識が肥大しているわけではなく、森永少佐が有能である事を、亘理は感じていた。それはこれまでの職務においてもそうであるし、昨日話をしていて状況からの推測が巧みだと判断したからでもある。  軍内部の敵を探るには、階級が上の協力者がいる事が望ましい。  ひとえにそれが、亘理の胸の内にある理由だった。珈琲を出した動機である。  撤去されていない監視カメラをそれとなく一瞥し、それからソファへと戻った。  外に出る前の、最後の一服だ。  煙を吐き出しながら、おかしなほどの脱力感を覚えた。  あるいは、妹、家族、脳だけになった彼らについて、第三者に話してみたいと、かねてから自分は考えていたのかもしれないと、亘理は一人目を細めた。だから気が楽になったのかもしれない。話をしたから。目を閉じると、森永の笑顔が思い浮かんだ。  その後、エントランスの扉を閉めて、施錠した。鈍い鍵の音が響いた。  雪の中を歩いていく。傘をさすほどではない。ただ、歩道の新雪には、亘理の靴の跡が並んでいく。亘理は、こんな冬の朝が嫌いではなかった。雪は全ての嫌なものをを覆い隠してくれる気がするからだ。あくまでも気がするだけであると、彼はよく知っていたが。 「おはよう」  軍の本部についてエレベーターに乗った時、そう声をかけられた。  視線を向けると、中には森永の姿があった。地下の駐車場から乗り込んだ様子だが、偶然自分達が乗り合わせたとは、亘理は考えなかった。軽く頭を下げて、朝の挨拶を返す。 「今日も一日頑張ろうね」 「何をですか?」 「僕ら、それぞれの仕事を。じゃあ、また」  三階で開いたエレベーターの扉から、森永が降りていった。それを見送り、亘理は扉を閉じた。そのまま六階まで上がり、靴の音を響かせて外へと出る。足音を消す術にも長けてはいたが、仕事中は意図して靴音を立てるようにしていた。そうしないと、突然現れた亘理の姿に部下達が驚くからだ。  並んだ陸曹達が、敬礼後に、亘理に歩み寄ってきては指示を仰ぐ。本来これは、大貫中佐の仕事であるが、この区画では日常的な風景だった。歩きながら答えた亘理は、突き当たりの、大貫中佐の専用執務室前で立ち止まる。一度咳払いをし、再度ネクタイを直してから、扉を二度ノックした。 「入れ」 「失礼します」  大貫中佐の声を聞いてから、亘理は室内に入った。青灰色の絨毯を進み、執務机の前に座っている上司を見る。豪奢な回転椅子が黒く光っていた。その椅子からはみ出しそうな巨体の大貫中佐は、でっぷりとした唇の両端を持ち上げると、舐めるように亘理を見る。絡みつくようなこの視線が、亘理はあまり好きではない。だが、仕事に私情を挟もうとも思わない。だから、自分自身に向けられるこの視線の意味を考えた事が無かった。 「昨日は、遇津が用意してくれた女を抱いた。羨ましかろう?」  続いた声に、朝の挨拶を口にしようとしていた亘理は、言葉を止めた。まじまじと大貫中佐を見る。表情はいつもの通りの無表情だ。 「中佐殿が充実したひと時をお過ごしになられた事、非常に部下として嬉しく思います」  亘理は淡々とそう返してから、頭を下げて改めて挨拶をした。その後、本日の日程を告げる。大貫中佐は、そんな亘理をじっと見ている。この上司は、亘理の言葉など、聞いてはいない。何せ、時刻になれば亘理が再度促してくれる。だから聞く必要が無いのだ。よって毎朝のこの時間は、大貫中佐にとっては、亘理を鑑賞する時間である。  ――無表情の亘理の、違う顔を見てみたい。  これがここの所、一貫している大貫中佐の欲望である。男ばかりの職場であるから、男色はさして珍しくはない。少なくとも大貫はそう考えていた。そしていつもであれば、大貫はとうに手を出している。それを踏みとどまらせているのは、亘理がいなくなれば窮地に負い立たされる事を、誰よりもよく自覚していたからだ。亘理の手腕を大貫はかっている。それだけではなく、周囲も遇津も煩いだろうと考えていた。それらをどうにかする事は至難の業であるが――亘理のみを懐柔する事は可能なのではないかと、大貫は考えている。何か、弱みを握ってしまえばいいのだ。  奇しくもそれは、森永と同じ発想だった。 「中佐殿?」  連絡を終えた亘理は、いつもよりも生々しい目で自分を見ている大貫中佐に気がついた。見る者の嫌悪を誘う欲情した眼差しに、亘理が首を傾げる。何か言いたげである事は亘理にもよく分かったのだが、その視線の意図が分からない。 「いや、なに――そろそろ君にも、もう少し大きな仕事を任せてやろうかと思ってねぇ……今宵の遇津コーポレーションの代表との食事、一緒にどうだね?」 「ありがとうございます」  亘理には、断る理由が無かった。  ただ、遅くならなければ良いなと考える。遅くなれば、今日も妹と通話が出来ないかもしれないからだ。画面の中の脳ではない妹は、白磁の頬を涙で濡らすだろう。風邪で寝ていたのだと、言い訳するしかない。そんな事を考えている内に、一日は流れていった。

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