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【2020/05 邂逅】③

《第2週 月曜日 午後》 学食は安くて栄養価が高いセットメニューもあり、充実していた。但、味が濃いものに慣れていると物足りないかもしれないが、健康に配慮し計算されたものなのだろう。 混雑する前に学食で食事を済ませ、書庫に戻った。 与えられた資料の山と演習という言葉に、自衛隊の合同演習的な実際に銃火器をドンドコ撃ち放つ光景を思い浮かべたり、ドラマで観た法医学教室や科捜研を思い出しだりして「初日から、やるのか」と思って変に緊張していたら読まれたのか、小曽川さんは「ふふ、」と笑った。 「ごめんね、でもあくまでも演習だから大丈夫なんで。演習はですね、理論や定理を学んだ後問題に取り組むことでして、行政解剖ないし司法解剖をやるにあたって必要なことを座学でやるやつなんで〜、実習ないですよ」 のんびり語りながら小曽川さんは、丸まったレシートや伝票を開いてはテンキーを叩いていた。 「小曽川さん、なんで助教さんなのに帳簿つけてるんですか」 「いやあ、先生方だいたい事務処理とかまるでダメだからしょうがなく…うち人手少ないしね~」 入力を邪魔するのも気が引けるので大人しく資料を黙読した。 部屋にはキーボードの乾いた音が淡々と響き、藤川先生の部屋からは生活音すら聞こえない。 注意が逸れてきたので用便に立つことを伝えて一旦部屋を出る。 トイレに近づくに連れ、誰かが声を潜めて話すのが漏れ聞こえてきた。何を話しているのかまではわからないが、藤川先生の声だった。 少し苛立った感じが伝わってきたので直ぐ近くの階段室に隠れた。 「じゃあ切るから、着いたら連絡して」と先生が言って、通話は終わった。 階段室に隠れて先生が部屋に戻るのを見送る。 詮索するのはよくない、見なかったことにしようと思いそっと階段室を出たところで、先生が振り返った。 気づいてたのか。 「今の、聞こえてた?」 苛立った様子は、今はない。 「や、なんにも、内容わかんなかったです」 「だったらいいや、気を遣わせてごめんね。 先生が部屋に戻ったのを確認して、トイレに入った。 ポケットからスマートフォンを出して、飯野さんにメールを打つ。 「お疲れ様です。無事藤川先生にお会い出来ました。フレンドリーとは言い難いですが、変な人でもなさそうです。午前中は資料を読みました。午後は授業に出ます、座学です。」 速やかに短く「了解」とだけ返信があった。 書庫に戻ると、入力が一段落ついた小曽川さんに誘われて、資料や借りたテキストや筆記具を持って指定の教室に向かう。 小曽川さんは機材やプリントの準備があって教務課に寄るのでそのまま先に向かうようにとのことだった。 しかし何号棟の何階の何号教室と言われてもまだひとりで行ける自信がない。先生に連れてって貰おうと思い途中で引き返してきたが、先生の部屋は施錠されていた。ノックするまでは壁越しに誰かと話している様子があったのだけれど、反応がない。 とりあえず遅れることだけは回避したかったので再び外に出た。 外から見た先生の部屋は、裏がビニール張りになった遮音性の高い厚いカーテンで覆われていて、中の様子を伺うことはできなかった。 なんとか教室に辿り着くと 先に来ていた小曽川さんが配布物を机に並べていた。思いの外教室は小さく、出席者は少ない。席の間はかなり大きく取られていた。 多くの学生はリモートで授業を受け、先生は質疑はメールで承り、学内ポータルで回答しているという。主に此処でリアルに授業を受けているのは法医学に興味があり指定の年次より早く聴講したい学生で、本来受講する学年の学生ではないという。 自分が大学を出ていないのでそういうのが普通なのか藤川先生独自のものなのかわからないが、意欲を持って入学した学生からすると嬉しい措置なのではないだろうか。 「絶対この2枠寝ないようにカフェイン用意してたほうがいいよ、別に何も言われないから。但、飲みすぎるとトイレ近くなるから適宜でね。多分見学者でも寝たら追い出されると思うし」 「えっ」 小曽川さんは、「先生は物静かだけどその分神経質だし目敏い、でもまあ色々だらしがない部分もあるんだけど」と呟いた。 神経質そうというのはなんとなく予想ができた。線の細い人はどこか不安定で神経質なのはこれまで人生で接した人たちからも思いあたりがあるし、モデルルームのように整った部屋からも厳しいのは想像できた。 しかし、色々だらしがないとは?どこがどうだらしがないのか想像がつかない。 「まあ、今日はおれが隣に付くんで大丈夫だとは思うよ」 最前列の教卓傍に席をとっておいてくれていたので隣り合わせて座った。 「わかんない用語とかあると思うから、なんかあったら声かけて」 小曽川さんは教卓で液晶タブレットやプロジェクター、ICレコーダー、マイク、カメラなどのチェックを始めた。 徐々に教室に学生が集まり、カードリーダーで打刻して席に着き始める。 さすがに中高生の休み時間のような和やかな雰囲気はここにはない。親しい学生同士で前回の内容や今日出そうな内容を話し合っているのが聞こえる。 硬い靴音が響き、先生が教室に入って来ると、室内が一気に静まり返り緊張が部屋に満ちた。 先生は液晶タブレットで出席状況をチェックして、机上に必要なものが揃っていることを指差して確認するとプロジェクターで教卓のやや上に配布物と同じ内容を表示させ、マイクを手に取り、普段話す声より若干大きく高い声で「授業を始めます」と宣言した。同時に、小曽川さんはICレコーダーの録音ボタンを押した。 内容は、まだ前期始まって間もないこともあり関連法規と必要な手続きや書類の話、同意を得られない場合どう対処するか等、一般の人間でも知ってて損はない内容が多かった。 藤川先生の授業は専門用語を無闇に使わず、実例や実際の書面を提示して解説するので非常にわかり易い。 反面、小曽川さんが行ったとおり、集中に欠く学生に指定箇所を読ませるようなことはなかったが、名前を挙げて「教える側のモチベーションが下がる」と退席させるなど授業態度には厳しいものがあった。 次の授業までの休み時間、同じ教室で行われるため藤川先生は用便のためか少しだけ席を外し、間もなく戻ってきた。 「先生、あの」 近づいて声をかけると、部屋や廊下で会ったときの感じだった。機嫌の悪い様子はやはりない。 「授業でなんかわかんないとこでもあった?」 決してフレンドリーではないけど、口調は穏やかで、割と砕けているこの感じ。 「そうじゃないんですけど、先生あまり感情顕わにしない人なのかなと思ってたから、ちょっとびっくりしました」 少しだけ表情が緩んで、目尻にちょっと皺が寄った。 「あぁ、追い出しちゃったからか…前に教務からもそういうの良くないって言われたけど、あいつ3年でね。本来は多摩で実習やってるはずの学生だし、熱心にこっちまで来て授業受けてくれるのは熱心でいいんだけど、3年にもなって現場に出席して教員に印象付けておくことでどうにかしよう、みたいな感覚だと困る。他の奴がどうだか知らんけど、少なくとも、おれは嫌なんだ」 やはり、今見ている限りではどこがどうだらしがないのか全く想像ができない。思ってたとおり、神経質で厳しい。 仕事は完璧、プライベートは滅茶苦茶というタイプの人なんだろうか。 「さっき小曽川さん、先生は仕事最優先だって言ってたんですよ」 「まあ、そりゃ人の尊厳に関わる仕事だからね。あぁ、ほらそろそろ時間だよ、自分の席戻んな」 左の手をこちらに伸ばし、肩をそっと、叩くというよりは幼い子供にするように添えてトントンされた。 この時も左の手の薬指や小指の当たりが弱く、その二指の辺りは動いていなかった。 そして、その時に気づいてしまった。 右側の耳朶と、金ラメの入った黒いリブ生地のタートルネックの襟の間、白い膚に午前中は無かった赤紫色の痕が付いていることと、襟が少し伸びてしまっていることに。 先生に、先生以外の誰かの匂いが纏わりついていることに。

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