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【Ἔρως(Erōs)】⑧
朝方リビングで仕事していた先生が戻ってきたのを迎え入れ、仕事熱心だなあ、やっぱおれ、長居しちゃ迷惑だよなあ、起きたらお暇しようかな、などと思いながらも、ちゃっかりのんびり二度寝していた。
腹の辺りでこそばゆい感じがして眠りを妨げられて、なんとなく意識が戻ってきた。
いや、これ、こそばゆいとかじゃないな?
違和感と抵抗し難い快感を感じてそっと布団を持ち上げて中を覗き見ると、先生が潜んでいた。
「あの、何してらっしゃるんですか?」
朝の生理現象で半勃ちしているおれのものに手を添えて、顔を斜めにして根本からピアスのついた舌に唾液を含ませてずるりと舐め、そのまま先端を口に含んで舌全体で包むように舐め続けた。
「わー、だめですって、待って待って」
強引に引っ剥がして、布団を跳ね除けて起き上がると、先生も「なんだよ~面白かったのに~」と言いながら起き上がって頬を膨らませた。思わずその頬を両手で挟み撃ちにして押しつぶして萎ませた。
「面白いとか面白くないとかじゃないでしょ、準強制わいせつ罪でしょっぴきますよ」
言うほどに先生が面白がって笑うので「そんなことするならもう帰っちゃいますからね」と言うとまた頬を膨らませた。暫く堪えたもののおかしくなって、最終的にはおれも笑ってしまった。
ベッドサイドにとりあえず置いていた服を拾って着直して、昨日出した化粧品や薬箱を持って洗面所やトイレに片付けに行った。ついでに用便を足して、簡単に洗顔してから戻ると先生はまた布団の上でゴロゴロしている。
リビングとの間を仕切るカーテンを開けて、房のついたタッセルで留める。
「先生、朝ごはんってどうします?何か食べるものあります?」
「おれはお粥とかでいいんだけど…多分うちなんもないよ」
いやいや、いくらなんでもそんな…と思いながらキッチンへ行き、冷蔵庫冷凍室、戸棚、キッチンのシンク下シンク上の棚、引き出しを上から順に漁ってみるものの、出てきたのは米が1キロほど、浄水ポットの水、調味料が少々、お茶、プロテイン、サプリメント、以上。
しかもこの部屋、小さめの深めのフライパン、ミルクパン、耐熱ガラスの小さめのキャセロールくらいしかなく、何故か刃物が見当たらない。先生は一応ピーラーやスライサー、キッチンばさみはある、フードプロセッサーやブレンダーやミキサーもあるから必要ないと言った。現況どう頑張っても本当にお粥くらいしか作れない。お粥とかでいいってのは先生流の冗談なのかと思ったが、単に事実だった。
「先生?この近くにもう開いてるスーパーありますかね」
「あるよ?行く?買い物」
先生が脚を振り上げて勢いをつけて起き上がり、クローゼットを開け着替えを用意する。流石にスーツまでは出さないが、グレーの細かいレジメンタルストライプが入ったシャツブラウスに黒のカーディガン、黒のスキニーパンツ、踝丈の紺の靴下に着替える。
「着替えるんですか?近所ならそのままでよくないですか?」
「だって一応外は外じゃん」
部屋着を脱いだ白い華奢な背中が青く薄暗い部屋に浮かぶ。つい数日前までは目で追うばかりだったこの体を、昨日抱いた。じっと見てるとまたよからぬ気になりそうだったので窓側の扉を開けて、リビングの窓側のカーテンも全て開け、陽の光を入れた。
「先生食べたいものあります?」
「ん~、わかんない、見て決める」
着替え終えた先生が、財布やスマートフォンは持たず仕事用の鞄からパスケースだけ持って玄関に向かう。おれも財布だけ持って後を追った。先生はマンションを出て駅前の大きな通りに出てすぐにある小さいスーパーに入り、牛乳と粉砂糖のかかったコーンフレークだけ手にしてさっさとレジに行こうとしたが、おれはもう少しちゃんと食べたかったので呼び止めて買い物カゴに入れさせた。
「先生、何かもうちょっと食べません?」
「別に…サプリメントも飲むし薬もあるし」
それは食事としてカウントできないのでは。
玉ねぎ、カットレタス、スライスチーズ、4個パックの卵とツナ缶、イングリッシュマフィンと順次買い物カゴに入れていくと、先生が「おれもそれがいい」と言って、コーンフレークは棚に戻しに行った。そして戻ってくるときには何故か手に味付け海苔のパックと納豆を持っていた。なんでそうなるの?とは思ったが、寧ろ納豆食べるイメージがなかったのと、このメニューにどう組み合わせてどうやって食べるのか観察したくて敢えてつっこまなかった。
レジの順番が来て、おれが台にカゴを置くと、先生は何も言わず傍にかかっていたレジ袋を一枚抜いてカゴに入れ、おれの後ろの僅かな隙間をスルッと通り抜けて、支払い用のトレイの前のカードリーダーのところでクレジットカードを手にしていた。そして合計金額が出るなり慣れた様子で決済し、カゴを持ってサッカー台に運んで袋詰し、ニコニコしてその袋を差し出した。
「じゃ、あとはよろしく」
人に荷物を任せて、駐車場に集まっている雀を追いかけたり、人様の家の庭木に近づいてついている花や実の匂いを嗅いだり、チョロチョロ私道と思しき路地に入ったり、勝手に寄り道しては戻ってくる。
一人の人物と一緒に過ごす中で、たかだか一週間で、過ごす場所や時間で、印象がこんなにコロコロ変わっていくことが今まであっただろうか。
最初に出会ったときの、研究室でひとり淡々と仕事していたとき、授業をしたりなにか教えてくれているとき、おれを試したり惑わすようなことをするとき、抱かれているとき、今のこの、なんでもない休日の生活のいち場面。
なんだか先生には、きちんとした職業人としての顔と、いたずら好きで甘え上手で横着者な子供の顔と、性悪な大人の顔と、いろんなものが入り混じって同時に存在している感じがする。どれが本当の先生なのか正直よくわからない。
でも、只、おれはそういう先生のことが、欲に塗れた目で、振り回されてムキになって見ていた「抱く前」よりもずっと好きになっている。見学が終わってからももっと一緒に居たいし、あの言葉が本当なら一緒に暮らしたい。
他所のマンションの駐輪場で地べたに膝をついて座って猫の盆の窪を掻いていた先生に話しかける。
「先生、昨日先生の家羨ましくなっちゃったって言ったら、来ればって言ったじゃないですか」
「うん」
「あれ、どこまで本気でした?」
「え?」
きょとんとしてこちらを見上げる。やっぱアレ、さすがに冗談だったんだろうなあ。だよなあ、そんなうまい話ないよなあ。
「どこまでって?どういうこと?」
「十段階だとどのくらい本気でした?」
先生は立ち上がって、真顔で言った、
「おれは別に、十割そう思ったから言ったんだけど」
え、本当に?今度はこちらが目を白黒させていると、俺の肩をポンと叩いて「契約状況知らないし、タイミングは任せるよ」と言って、目の前を通り過ぎた。そのまま自宅マンションのエントランスに入っていくのを追う。
エレベーターホールで内籠が戻ってくるまでの間、先生の横顔をチラチラ見ていたら、気づかれて「まだ疑ってるだろ」と肘で小突いて笑われた。信じていいんだろうか。
おれにはまだ、自分の好意が報われるということ自体を信じることさえ難しい。
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