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【2020/05 狂濤Ⅱ】③
《第三週 月曜日 午後》
早めに昼食を済ませ、人が居ない昼休みのうちに教室に入って前回の授業の際にとっていたノートや貰った資料を取り出して内容を振り返る。先生の寄稿した内容も気にはなっていたが読むのはやめた。またそれでボロボロ泣いてしまったら、その後それこそどんな顔して会っていいかわからなくなりそうだし、授業に集中できなくなるのも必至だ。先週入念に授業準備していたことを考えると、ギリギリまで剖検に追われた今日のような日はどう対応するんだろう。
授業時間の20分ほど前、学生がちらほら入り始めた辺りで、突然先生が現れた。機材準備は前回小曽川さんがしていたが、小曽川さんはついておらず先生は必要機材を籠にひとまとめにして抱えて自分でひとりで来た。パソコン、カメラとスタンド、プロジェクター、マイク、レコーダー、プロンプター、書画カメラなどなど。その量の機械類をひとりで持ってきたことにも驚いた。
でも朝からずっと剖検したり、硬直したご遺体を運んだり解剖したりするのだから十分そのくらいの体力はあるか。それでも、あの薄い華奢な姿を見ていると、そんな体でそんな力仕事ができることが不思議に思えてしまう。でもおれはその体を組み敷いて、腕を拉いで抱いた。薄い膚の感触や独特な甘い匂い、しがみつく腕の力も、体内の温もりも覚えている。でも今思い出してはだめだ。席を立って、黙々と準備する先生に近づいて声をかけた。
「お疲れ様です、よかったら手伝いますよ、指示してください」
「あぁ、うん、じゃあ録画用のカメラセットしてほしい。スタンドは高さ固定してあるからこのまま最後列の窓側の席に置いて、見え方チェックして。空き容量と電池心配だから新しいの出して使って。あと人が揃ったらプリント配って、今の子自分で取って回すのできないことあるから」
割と人使いが荒いな…小曽川さんよく先生の帳簿つけたり調べ物請け負ってるし、めちゃくちゃ働いてる。今日は教室には来ないんだろうか。カメラの設置を終えて戻り、改めて話しかけた。
「先生?今日は小曽川さん授業来ないんですか?」
「ああ、結果次第でちょっと手続きが変わるから誰か残ってもらわなきゃいけなくて、頼んできちゃったからそれ終わらないと来ないよ。こっちにわざわざ来てる3年のやつに2件目見学させたからそいつと残らせた。今回手続き踏ませて南のチェックがOKならあとレポート提出でそいつに単位出すことにしたから他の奴らに遅れとってた分はこれで巻き返したことになるし、多摩戻れるでしょ」
先生は持ってきたマイクの電源を入れて、狂卓下のアンプやスピーカーのスイッチを入れて、音声チェックをしている。
前回先生に厳しく言われてた学生さんは、私用でレポート提出をすっぽかし、それに対し特に事前に相談もせず、後日の再提出を請願するでもなく、確認問題の小テストの際に解答欄にこないだのレポートこういう事情で出せませんでしたこれから出すので単位くださいと書いてきたので、先生の不興を買い、それをなんとかしたくてわざわざ直接こちらでの授業に顔を出してたらしく、先生はそれを「鬱陶しくてしょうがない」と思っていたとハッキリ言い切った。
「まあ、おれが単位出したところでこういう事する奴はおれのやったことが救済措置だと気づかず他の先生にも同じことやるだろうし留年するなり辞めるなりすればいいさ、危機感を持てないやつも最悪を想定できないやつもこの仕事には向かないよ」
先生はノートパソコンにプロジェクターやプロンプターのケーブルを繋ぎ、映写して接続を確認しながら話す。そしておれが手に何も持ってないのを見ると「次、ウェブカメラもやって。プリントは始まってからでもいいから」と顎をしゃくって指示した。本当に人使い荒いし、なんか、授業のときの先生って、やっぱりそれ以外のときとは全然違う。
週末のことなんて先生は微塵も気にしてないんだろうか、先生にとってはその程度のことだったのだろうか。社会人としては仕事にプライベート持ち込まないのは当たり前だし、先生は15も歳上だから交際経験もそれなりにあって慣れっこなんだろうけど、押しかけてあんなことして、勝手に先生の過去を調べて知って、どんな顔して会えばいいのか悩んでただなんて、やっぱりおれはまだ全然浅はかな子供のままなんだなって否応なく思い知らされてしまう。
「先生、繋ぎましたがカメラの写りどうですか」
「大丈夫、もうちょっと角度上げて。あと音出てるか確認するからマイク部分ちょっと叩いてみて」
ウェブカメラとマイクに問題ないことを確認して、書画カメラをセッティングしながら先生はおれに指示する。付箋がいくつもついた本を積み、表示させる箇所を確認しながら教室内に目を配り「多分今日これで全員だな、長谷、プリント配って」と茶封筒を指し示す。時刻は丁度開始時刻で、茶封筒を手にとった瞬間チャイムが鳴った。
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