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【1989/05 Salvation】⑮
食事前に沸かしたはずの浴槽のお湯はしっかり保温されていて、十分に温かかった。存分にかけ湯して、体の汚れやすい箇所を石鹸で洗ってからそっと浴槽に浸かる。全身が溶けそうなくらい気持ちが良かった。
温かいお風呂、それも脚を存分に伸ばせる大きさの浴槽で、ちょっと熱いくらいのお湯に肩まで浸かるなんて、1ヶ月位ぶりだ。ずっと水温もまだ高くないから体は水拭き、頭だけシャワーで洗う状態だったからずっとなんとなく体が冷えていたんだと思う。
「温め直しもお湯足すのも壁のパネルからできるからゆっくり入ってね」と言ってもらえて、ボディタオルやスポンジも新しく下ろしてもらった。お言葉に甘えてゆっくり時間をかけて何度も浸かり直しては体を洗う。
暫くちゃんと洗えていなかったのが目に見えてわかってしまうのが自分でも悲しかった。もしかしたら、洗ってるつもりでも匂いでわかったのかな。その辺りも察してアキくんが一緒に入らないようにお父さんは制してくれたのかもしれない。
アキくんちのシャンプーはそこらへんのお店では見たことがないパッケージで、人工的じゃない、よくあるフローラル系の噎せ返るようなのとは違う、爽やかさのある植物の匂いがして、洗ったあとの手触りも変にギシギシもヌルヌルもしなかった。
お風呂場に泡が残ったり、異物が浮いてないか確認して、用意してもらった下着とパジャマに着替えてリビングに戻ると、アキくんがスポーツドリンクに氷を入れて持ってきて、そして入れ替わりでお父さんと一緒にお風呂場に向かっていった。
アキくんのお母さんは奥の部屋からドライヤーとヘアオイルとブラシを持ってきて「乾かすから座って。うるさいかもしれないけど飲みながらテレビでも見てて」と言ってテレビのリモコンをおれに手渡す。適当にザッピングしながら流し見てみるけど特に面白いものもない。
単純にドライヤーの音よりうるさいなと思って、結局電源を切った。そして、アキくんのお母さんに話しかけてみた。
「あの、アキくんと会話できなくて不便じゃないですか?」
「ん?あ~、まあ、でもちゃんと話せば聴いてくれるし、今は返事もしてくれるから、最初に比べたら全然」
最初はもっと、今よりもコミュニケーションが取れない状態だったのか。
「アキくんはなんで女の人と話せないんですか?」
「世の中には子供のからだを狙う悪い人っているの知ってると思うけど、それが男の人とは限らないの、そういうこと」
アキくんのお母さんは簡潔に言ったけど、とんでもないことだった。まさか、酷い目って、そういうことだなんて。記憶を失くしたのも、退行しているのも、そのせい?言葉が出ない。部屋の中に風力を上げたドライヤーの乾いた音が響いて、細い指先おれの頭を撫でている。
ややしばらくして、アキくんのお母さんが口を開いた。
「これは、お医者さんとしてではなくて、アキくんのお母さんとして質問なんだけど、ハルくんは、どう?いつから困ってるのかな、おうちのこと。」
ああ、やっぱり察してくれてたんだ。
「もうかなり前からです、元々割といいように家のことあれこれやらされてたんですけど、4年生くらいから徐々に帰ってこなくなって、今はもう何処でどうしてるのかわかんないです」
「そっか、よくがんばったね」
さりげない一言だったけど、その一言に涙が止まらなくなった。
アキくんのお母さんは下手な慰めは言わず、そのまま髪の毛を乾かして、ヘアオイルを馴染ませて梳かして、再びロールブラシで整えながらドライヤーを掛けてくれた。気兼ねなく泣かせてくれたおかげか、アキくんがお風呂からあがる頃には自然と気持ちが落ち着いて、涙は止まった。
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