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【2020/05 暗転】①
《第3週 水曜日 午前》
おれが到着した時、まだ先生の部屋は開いていなくて書庫の前で小曽川さんが来るのを待った。小曽川さんから「なんか今日、2限の看護の方の授業ギリで来るみたいですよ」とメッセージが来たとき、少し嫌な予感がしていた。
昨夜はあんな、急におれを気遣ってかスタンプ押したり、通話に出てくれたり、メッセージくれたりして、親しくなれた気がしていたのに、小曽川さんにしか連絡しないなんて。もしかして、大石先生と飲み行ってたのバレちゃったのかな。
書庫で待機してしていると、隣の先生の部屋の方から扉の施錠を解除して普段より強めに、いや、乱暴に扉を閉める音がして、再び鍵がかけられるのを聞いた。こんなこと初めてだった。
そして、先生はおれたちに顔を見せることもなく部屋を出て、ひとりで看護学校の建物に向かっていった。小曽川さんが書庫の窓、ブラインドの間を引いて隙間からそれを覗き見ていた。
「長谷くぅん、先生となんかあったんです?」
振り返って尋ねる小曽川さんにおれはおそるおそる口を開いた。
「小曽川さん、おれ、先生説得するお手伝い、もうできないかも…」
「どうしちゃったんですか?ケンカでもしたんです?」
おれは、大石先生と飲みに行ったこと、その際に口止めされて先生に嘘をついたこと、大石先生のバックグラウンド、ふたりの馴れ初めなど、全てではないものの聞かされたこと、そして先生は渡さないと言われたことを告白した。
「あぁ~、そういう…」
腕組みをして小曽川さんは深く溜息をついてから「そいつぁやっちまいましたなぁ~」と言った。
「小曽川さん、おれ、どうしたらいいんでしょう」
情けなく教えを請うと、小曽川さんは「まずは戻ってきたら部屋行って正直に謝るしかないんじゃないですかね~、あの人と大石先生の関係も、あの人の感情も、支離滅裂でめんどくさいですよ、かなり」
それは痛いほどわかっている。友達で、恋人で、きょうだいで、先輩後輩で、同僚で、でも、そんな簡単な有り体な言葉じゃ表しきれない関係。
寧ろおれだって訊きたい。
そんな相手がいるのに、なんでおれを誘惑したんですか。なんで一緒に住んでもいいなんて承諾したんですか。なんで。
「長谷くん、顔色悪いよ。どっか気晴らしに散歩でもしてきます?」
「いえ、どっちかというと、寝逃げしてしまいたいです」
項垂れていると、小曽川さんがそっと自分の腰のベルトループにカラビナでくくっていたキーケースから、小さな鈴がついた一本の鍵を出しておれの目の前に垂らした。
「何かあったときのための合鍵、こっそり作ってあるんです。先生の部屋でカーテン閉めて寝て、戻ってきたらそのまま話をしたらいいんじゃないですか?」
おれは戦いて両手を振りながら首も左右に振って後ろに仰け反った。
「そんな、だめですよ!余計怒っちゃうじゃないですかそんなの、いいんですよ小曽川さん静かだし、ここで」
「先生だって凹んで眠ってる人間を叩き起こしていきなり叱りつけるような鬼では…」
そこまで言っておいて小曽川さんは「いや、うーん、ちょっとあるな…」と言い直した。
「ほらぁ!いいです、いいんですここで!」
小曽川さんはしょうがないなあなどとぼやきながら寝袋とクッションマットとブランケット、小さい筒型のパウダービーズクッションを出してくれた。
おれは書棚と並んだ椅子の間に寝床を作って横になった。小曽川さんはブラインドを閉じて照明を消して、USBライトで手元の灯りを用意して淡々と仕事している。キーボードを優しく軽快に叩く音を聞きながら、おれは眠りについた。
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