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【2020/05 暗転】⑥

《第3週 木曜日 朝》 気怠さの残る冷えた体を引き摺って風呂場に行き、熱めのシャワーを浴びて暖まってから頭を洗って全身を軽く洗って出た。 居室に戻るとベッド脇のテーブルの上でスマートフォンの通知が点滅している。先生からだった。 「菓子折り見たよ、そんな気遣わなくていいよ。持っていくから南とふたりで食べな」 ああ、もう受け取ってももらえないか、そうだよな。 「わかりました。でも、学校ついたら一旦先生とお話したいです」 おれの返信に、先生からも「おれもそのつもりでいるよ」と返ってくる。スタンプは押されなかった。 着替えていつもどおり品川まで歩いて出て、田町で三田線に乗り換えて御成門駅で降りて学校に向かう。書庫には寄らずまっすぐ先生の部屋に向かい、ノックすると中から「はい」と先生の声がした。 扉を開けると、先生はワークチェアの座面に片足を折って上げて、片方だけ胡座をかいたような姿勢のまま何やらゲームをしていた。 「おはようございます…今、いいですか」 「うん、どうぞ」 ゲームのミッションが終わってからアプリを閉じて、スマートフォンを机の上に伏せて置いてから先生は言った。 「長谷さ、ハルくんから聞いたよ。会ってたんだってね。なんで嘘ついたの?」 「それは…大石先生に内密にって感じで言われてたので、すみませんでした」 立ったまま話し始めると、先生はソファに座るようにおれを促した。そしてワークチェアに座ったまま、キャスターを転がしておれが座っている横に移動してくる。 そして、徐にネクタイを外し、襟元からボタンを外し、胸の辺りまでも外していく。やがて首周りから胸の辺りまでシャツの見頃を大きく開き、新たにつけられた痛々しい痕が白日に晒された。 「先生?」 「初日にお前、じっと見てただろ、同じものをさ」 もう、先生のことはそういう目で見てはいけない。そうは思っても、目が離せない。思わず息を呑んだ。 「これはさ、ハルくんがおれの浮気にマジギレしたときつける痕なんだよ。あいつ言っただろ?渡さないって」 「言いました、でも、先生に言ったらきっと、モノじゃないって怒るってことも言ってました」 「そうだよ。色々聞いて、わかったでしょ、おれとハルくんの付き合いの長さとか深さとかさ。そして言う通り、おれはモノじゃない。只、ハルくんをおれのエゴで勝手に助けた、だからおれはハルくんから離れることは絶対にできない」 先生はシャツのボタンを元通りに留め直していく。ネクタイを締め直すと一応は痕は見えなくなった。 「そもそも、ハルくんもおれがフラフラして痛い目見てるの楽しんでるし、そうやって愉しんでるハルくんをおれは利用している。だからおれはハルくんから離れることができない。依存してるんだ、互いに。だからおれのことは諦めなよ」 「…前も言ったと思いますけど、いやです…」 おれは否定した。もう手が届かないとわかっても、今更、そんなに簡単に切り離せない。 「どうして。わかっただろ、そもそもおれなんか好きになったっていいことないよ。トラブルが増えるだけだよ」 先生は少し困った表情で、おれに微笑みかける。 「それに、おれなんか15も上で、もう年齢的には初老だ。絶対にお前置いて先に逝く。健康状態も悪いからじきに死ぬよ?嫌だろ、置いてかれるの」 「嫌じゃないとまでは言えないです、でも、それでも、おれは」 泣くのを堪えているせいか声が詰まる。 先生はワークチェアから立ち上がって、おれの頭を抱えるように抱き寄せて撫でた。そんな事されたら、一層諦めることなんかできなくなる。先生は狡い。残酷だ。 「だいたいさ、誘惑に負けないようにもっといろんな楽しみ持ったほうがいいよ。そんで誠実で優しくて、お前をちゃんと好きになって愛してくれる人を好きになりなよ。コレ以上悪い大人にホイホイついてって利用されちゃダメだよ」

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