280 / 440
【2020/05 深度と濃度Ⅱ】⑤
思い出しかけたその時の出来事を、必死に頭から掻き消して先生の様子を見守る。
先生は呼吸が整い目線が定まると、顔を上げておれの肩に手を添え、そっと体を離した。
小さな声で「もういい、大丈夫だから」と呟いてゆっくり立ち上がり、壁に手をつきながら廊下を歩いていくが、足取りが覚束ない。なんとかリビングまで戻るも、そのまま倒れるようにソファに沈み込んだ。
「全然大丈夫じゃないじゃないですか」
ソファの傍で立ち膝をついて先生を上から見下ろすと、先生は背凭れの方に寝返りを打って体ごとおれから顔を逸す。
「いいから、長谷は戻って寝なよ…」
「だめです、着替えないと冷えますよ、起きてください」
寝室に戻り着替えを取り、戻ってソファの肘掛け部分に置いた。そして背凭れにしがみついて離れまいとする先生の脇腹から腕を回して抱きかかえ強引に引き剥がすと、さっきまで息絶え絶えになってたとは思えないふてぶてしい表情でこちらを振り返ったので、思わず笑ってしまった。
「どうせなら汗拭くやつも持ってきて欲しかったんだけど…」
「いっそシャワーでも浴びてきたらいいんじゃないですか」
先生はおれの手を払い除けて立ち上がり、着替えを手にとって振り返る。
「そうする、長谷付き合ってよ」
「え、いや、おれはいいですよ」
言ってる傍からパジャマ代わりに着ていたバスローブの共布のベルトの端が解かれ、はだけた前身頃に先生の右の手が触れた。
「あのさ、」
体を寄せて少し低い声で胸元で囁きながら、その手を脇腹に滑らせ、そのまま背筋をなぞるように撫で上げられ、おれは身を震わせる。先生は反応を楽しむように、更に指先を踊らせ脇下から二の腕を擽ってくる。
「おれがお前に一緒に住まないかって言った目的、わかってる?」
「え、カラダ目当て、ってことですか?やっぱそうなんですか?」
今度は先生が吹き出して笑う。いつもの人を喰ったようなちょっと意地悪な笑顔で、悪戯っぽくニヤニヤ笑って、溜めに溜めてから言う。
「はぁ、まったく、嫌な言い方するねえこの子は、根に持つねえ」
右手を引き抜いておれの左手首を掴んで歩き出し、廊下を抜けてさっき照明をつけてそのままになっていた洗面所に向かっていく。扉を開けておれの背後に回り込んで押し入れてから、入ってきて扉を閉めて、飛びかかるようにして抱きついてきた。
先生とおれの身長差は20cm程度はある。おれの首に回された先生の腕で首が締まって、おまけに身長差で引っ張られておれは仰け反った状態になり、思わず先生の手を叩いた。先生は腕を解くと、今度はおれの前に回り込んで胸元に飛び込んだ。そして、きつく抱きついて顔を埋めて動かない。
「先生、ほんとどうしたんですか、言いたくなかったら言わなくていいですけど、何があったんですか」
密着したまま、無言で向き合ったまま、時間が流れる。
やがて、ややしばらく経って先生が顔を上げ、色気や艶のようなものは一切出さず、極めて真面目な硬い表情で、その表情と一致しない裏腹な願いを口にした。
「長谷、今から朝が来るまで、何も考えなくていいようにしてくれ、何も考えられないくらいの快楽をおれにくれ」
初めての愛だったから
忘れてしまいたい
おまえのことを
忘れてしまいたい
まとめてみんな今すぐ
思い出すために
(引用:寺山修司少女詩集 角川文庫)
ともだちにシェアしよう!