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【2020/05 葬列】⑳

「おとうさん、ぼく、わかんない」 無意識のうちにそう呟いていた。 自分の中の、辛うじて藤川玲という人物の人格で在れる状態を保っている条件が崩れる条件は実はとても明確だ。 「人はどんな時にどのような反応をするのか」「その出来事をどう感じて、何故そういう事を言うのか」「どういう事を伝えるためにそのような表情や仕草をするのか」 そういった非言語の、明文化されない情報がいくらフィクションや文献からも学び取れることができるとは言っても限界はある。結局は、そういったものもステレオタイプな価値観や、大衆にとって正解とされている価値観を基に、或いは前提として構成されているものだ。 だから、自分のような、健常であれば味わうことのないどうしようもない違和感を持ち、到底通常経験し得ないようなことに巻き込まれ、道に外れたことに身を預けてきたような人間に起こる厄介な事象の対応についてのヒントや回答は一切ない。 結局は困ったときほど何もわからないのだ。 そういう状況に陥ると、足元が崩れ去ってしまったような、ゆっくりと底のない谷へと落下しているような気分になって、胸の奥で冷たい水のようなもので満たされてしまったような冷えの感覚に襲われる。不安とか怖れが身体感覚として表れる。 するともう、その感覚がわからなくなるまで行為に没頭してしまいたくなる。 ハルくんとの戯れをやめ、大学に入ってそれを向けられる代替対象が明確になるまで、行きずりやそういう店で様々な相手と関係したし、その所為で危険な目にも遭った。未だその頃の記録物が出回っている関係でも直人さんは随分と手を打ってくれていた。 その欲求が満たされると、今度はそうした結果、とんでもないことをしてしまったという子供の自分が混乱しはじめ、やがて今度は自分の中に絶対の存在があるのにそれを裏切った自分に対する憤怒で暴れだし、自分を罰してほしいという欲望が生じてくる。 自分を物理的に傷つけることと、寝食を疎かにし自分の身を酷使することで紛らわせてはいたが到底満足できなかった。直人さんと契約するまでも、契約してからさえもそういったことを完全にやめることが出来なかったほど大きな、御し難い感情なのだ。 幾重にも自分の欲求に応えられる安全な人材を集めても、どんなに物語や文献を漁っても、自分の身にしか起きない個別のわからない事象に対する明確な答えはなくて、おれは誰かに甘えられる安心の中で、蘇ってくる記憶とともにそういったものに追いつめられていった。 そしてそれが今も変わりなく自分の問題としてずっと眼前に横たわっている。 今、先輩にも何か起きない限り頼らない関係になって何年も経って、直人さんが死んでしまって、まだ事態解決とはいえず全容も不明確で聴取のため拘束されているであろうふみとは接触が不可能、ハルくんも週末で連絡が取れなくて、おれには長谷しかいない。 でも遠い場所に出向いていて、公共交通も絶たれた被災地にいるのに、週末2日休みになったなら今から来いとも言えない。長谷だって急ぎの引っ越しがある。 「現地調達しかないかなあ」等と思っていると小林さんが帰ってきて、部屋のドアをノックした。ドアを開けて迎え入れると、小林さんが不思議そうな顔でおれを見た。 「なんかあったんですか、こう言うとあれなんですけど、変な顔してますよ」 自分たちのような特性がある人間はこういうときあまりに忌憚なく率直に見たまま思ったままを言ってしまう、その感覚がわかるからおれはつい笑ってしまう。 「失礼だなあ、もともとこんな顔だよ」 おれが半笑いで言うと、小林さんは「せっかくきれいな顔なのに、変な髪形で変な顔してなくたっていいじゃないですか」と困り顔で言ちた。

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