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12.犬のように優雅な生き物
TEN-ZEROの正面から出て左に直進、つきあたりの交差点はぎりぎりで赤に変わった。残念なことにここの信号待ちは長い。周囲のオフィスビルから現れた人たちが同じように信号を待っている。渡ったところに地下鉄の入り口があり、その先には電車の駅がある。
夜のオフィス街は信号と街灯とビルの明かりに照らされている。車が通りを切れ目なく走り、信号はなかなか変わらない。ここまで走ったせいか顔に汗がにじむ。僕は片手で鞄を持ったまま片手でシャツの襟を直した。今日の服は昨日にくらべれば適当なセレクトだ。おかしな服ではないが、もう少し考えて選べばよかったな、と思う。
待ち合わせのカフェはすぐそこだ。通りに面した角はガラス張りで、窓に沿ったカウンター席にちらほらと人が座っている。そばに誰かが並んだが、信号待ちでここに人がたまるのはいつものことなので僕は気にしなかった。峡さんから連絡がないかモバイルを取り出そうとポケットに右手をつっこむ。左腕を掴まれたのはその時だった。
「トモ」
僕は反射的に体をひいたが、相手は腕をつかんだままだ。声の主を見上げて息を飲む。
「昌行?」
「久しぶり」
北斗昌行はあっさりそういった。
内容とは裏腹に昨日会ったばかりのような口調だった。Tシャツにチノパンという、オフィス街にはそぐわない学生のようなスタイルだ。ベータの彼は僕よりずっと背が高いし、スポーツで鍛えていて体格もいい。高校時代はずっとバスケ部で、アルファのエースのサブとして活躍していたはずだ。日焼けした顔が微笑む。やたらと歯が白く光った。
何の理由もなく僕はぞっとした。
「どうしてこんなところにいるんだよ?」
何気ない口調を保とうと努力する。ここ数か月のあいだ、昌行の話はいくつかの場所で話題にのぼったが、顔を見たのは何年振りだろう。
「ご挨拶だな。メールを送っただろう? 返事がないから」
「メール?」
「会って話したいって。誤解されていると思ってさ」
「悪い。見てない」
「ひどいな、小学生からのつきあいなのに。古い友を大切に、だぜ」
古い友か。中学の修学旅行の時、僕が割ったフォーチュンクッキーに入っていた言葉だった。
「だからってわざわざこんなところまで?」
僕の声はあきれた調子になっていたと思う。だが昌行は気にした様子もない。とてもふつうだった。学生時代の頃と同じ口調だ。ごくふつうの友達づきあいをしていた頃のような、何ひとつ変わらないかのような口調で、久しぶりの再会に驚いた様子もない。
「トモの会社の前にいたんだ。気づかずに走っていっただろう?」
「前って……こんな時間に?」
「残業するとこのくらいになるのはわかってる」
「なんでさ」
「知ってるから」
僕はまたぞっとした。知ってるって――どういうことだ?
「信号、変わったぜ」
昌行が僕の腕をまた引いた。僕を自分の腕で囲い込もうとするかのように近くに体を寄せてくる。まるでアルファのような仕草だ。僕はあとずさった。周囲の人の動きは反対で、いっせいに横断歩道を渡っていく。
「トモ、渡るんだろう。そこの地下鉄から帰るなら一緒に行こう。話したい」
「いや――離せよ」
僕は昌行の腕を振りほどこうとした。半袖のTシャツから出ている腕は記憶にあるより太く、胸も厚く見える。昌行は僕の言葉を無視して腕を掴んだまま横断歩道を歩きはじめた。大股に進む足どりに僕は自然とついていかざるを得なくなる。
「離せって」
まわりは人目もある上に会社はすぐ近くだ。顔見知りの誰かに気づかれるのもいやで、僕は小声でいらいらと続けた。
「今日はまだ約束があるんだ。おまえに付き合っていられない」
「約束? 誰と」
何をいってるんだ、こいつは? 僕の声はかなりきつい調子になったはずだ。
「昌行に関係ないだろう。なんだよ、いきなりこんなとこまで来て? 何年も会ってなかったのにこんな――」
昌行の足が止まった。ちょうど歩道にたどりついたところで、背後でまた車が動き出す。彼は僕を見下ろした。奇妙に静かな眼つきだった。
「メールを送った。何十回も」
「一度返したじゃないか」
「一度だけだ。他は読んでもいない。ちがうか?」
「そんなの当たり前だ」
「どうして。古い友達の連絡を無視して――」
古い友達。そこに含まれたニュアンスに、僕の中で唐突に怒りが湧きあがった。僕は昌行をにらみつける。
「僕とおまえがまだ友達だとは知らなかったね。いくら雑誌に旧友Aと書かれたって」
「だからその話をきちんと――」
「きちんともへったくれもあるもんか! 僕はおまえと話をする気なんかないね」
「はは、嘘だろ。そんなわけない」
その時だった。僕の背後から肩に腕が回された。僕は飛び上がりそうになるくらい驚いて、次に聞こえてきた声に安堵した。心の底から安堵した。
「失礼。私の連れに何か?」
ふわりとシダーの香りが漂う。峡さんの声が僕のひたいのすぐ上で響く。
「彼と何かありましたか? 私と待ち合わせをしていたんだが。もしかして、同じ会社の人かな」
昌行はみるからにとまどい、毒気を抜かれたような表情になった。
「あ、いえ……古い友人です。久しぶりに会ったので」
峡さんはさりげなく僕の腕をひいて昌行の手を払った。そのまま腕を絡ませ、僕の指をそっと握りながら昌行をみつめる。表情は穏やかだが、視線は昌行の上から下まで、精査するように鋭く通り過ぎた。車のライトが峡さんのネクタイピンに反射しては消える。
「そうか。朋晴の同級生?」
唐突に名前を呼ばれ、僕はドキッとする。
「ええ、まあ」
昌行は口をすこしあけ、まだ途惑っている様子だ。
「そうか」峡さんは僕の腕にさらに深く腕をからめた。
「申し訳ないが今日は急ぐんだ。朋晴と話があるなら今度にしてもらえませんか。いくら久しぶりといっても、恋人より友達を優先されるのは困る」
沈黙が落ちた。昌行は我にかえったようにまばたきをした。
「その……あなたはトモの」
「悪いね、久しぶりに会ったのに」
峡さんの声は妙に明るく響いた。穏やかなのに断固とした調子が、もう話は終わりだと告げている。
「朋晴、行くぞ」
「峡さん」
「こっちだ」
腕を絡ませたまま峡さんは僕を導きながら「振り向かないで」とささやいた。
「彼は本当に友人?」
「ええ、まあ、幼馴染というか、昔からの……ただ最近はその――」
「そうでもない? 雰囲気が変だったから引き離そうと思った。勝手に恋人扱いして悪かった」
「いえ、そんな――」
それこそ願ったりかなったりです、と口走りそうになるのを僕はこらえる。同時に少しがっかりしていた。
「いいタイミングで来てくれて嬉しかったです。ありがとうございます。どこまで行きます?」
「タクシーでもいいかな?」
僕がうなずくと峡さんは流しのタクシーに手をあげた。車は湾岸の埋め立て地の方向へ走ったが、ほんの数分で峡さんは運転手に声をかけ、二本の大通りに挟まれた明るい通りで停めた。再開発で建てられた大きなシティホテルやオフィスビルのあいだに、昔からの飲食店街が埋もれるように残っているあたりだった。客引きのあいだを峡さんは慣れた足どりで通り抜け、古い小さなビルのエレベーターへ進んでいく。
「どうもありがとう」
エレベーターの中で峡さんはぼそりといった。「昨日があんな始末だったのに、急に付き合ってくれて」
「いえ!」僕はあわてて首を振る。「そんなことないです。ほんとに!」
「その……俺の都合で三波君を振り回しているんじゃないか?」
全然、と答えようとしたとき扉がひらいた。降りたところも狭い廊下で、峡さんはさらに奥の階段を上る。
「ここはエレベーターがないらしいんだ」
「かまいませんよ」
階段の先は蛍光灯に照らされた狭い通路で、脇にビールケースが積まれているが、店舗があるようには見えない。突き当りのクリーム色の扉には「ご自由にお開けください」と貼り紙があった。ただの事務所のドアのようにもみえたが、峡さんは無造作にノブを回した。
中から黄色みがかったオレンジ色の光があふれ、いい匂いがした。タイルの上に靴が並んでいる。
「いらっしゃいませ」
明るい声が響いた。タイル敷きの三和土をあがったところでエプロンをかけた女性が微笑んでいる。
「あ、佐枝さん。早かったですね」
「シェフは?」
「今日は閑古鳥なので電話があって喜んでます。お連れの方も――うわっ」
何があったのかと僕は思わずふりむいたが、うしろには閉まった扉があるだけだ。何がおかしいのか峡さんが吹き出し、さらに「どこに座ったらいい?」と女性に問いかける。
「見ての通りの閑古鳥ですから、お好きなところで。お任せでいいんですよね?」
「三波君、食べられないものがある?」
「あ、いえ、特には……」
答えながら僕は店の中をきょろきょろと見回していた。靴を脱いで上がったところは寄木の床で、アラブ風のじゅうたんが何枚か敷いてある。屋根裏のような斜めの下り天井からシャンデリアが下がり、エスニックな壁掛けの前にシンプルな濃色のテーブルと椅子が三セット。壁掛けのすき間には小さな風景画が飾られていた。寄せ集めのようなインテリアなのにほっこりと落ちつく雰囲気だ。
「プリンセスの屋根裏っていうんですよ」
好奇心丸出しの僕にエプロンの女性がいった。「知りません? お金持ちのお嬢さんだったのに、お父さんが死んでみなしごになった女の子のお話。召使として屋根裏に追いやられていたら、隣の家の大富豪がこっそり素敵な飾り物や、おいしい料理を運んでくるの」
「知ってます――」
僕は答えながら無作法に匂いを嗅いでいた。すごくいい匂いがする。ハーブと肉が焼ける匂いと、何かソースらしいこくのある何か。それが全部混ざった、すごくいい匂い。
「サルが出てきますよね。富豪のペットで」
「ごめんなさい、サルはいません」
女性はまじめな顔で答えた。
「でもシェフはサルみたいな顔をしています。お飲み物は?」
峡さんはワインにするといい、僕もそれにならって同じものを頼んだ。「突き出しです」といって運ばれた皿に僕は眼をみはった。白い皿の上でソースが模様を描いている完璧なフレンチオードブルだ。新鮮な野菜のボートにテリーヌがのせられ、添えられたフルーツがアクセントをつけている。
「これが突き出し?」
「ここのシェフはもともと居酒屋をやっていた人でね。これはあくまでも『突き出し』なんだそうだ。値段も居酒屋感覚だから、ちょっとズレてる」
なるほど――なんて納得はしなかったが、僕はそれ以上突っ込まなかった。なんにせよ、峡さんが勧める店にはハズレがないらしい。
「そういえば、今日のあの……三波君の友達だが」
オードブルのあとスープと魚と肉が来て、口直しにとレモン味のシャーベットが登場したあと、思い出したように峡さんがいった。
「差し支えない範囲でいいが……大丈夫なのかな? 俺はその――あんなことをいってしまったが」
「あんなことって?『恋人より友達を優先されるのは困る』っていうのですか?」
気のせいか、ワインのせいか、峡さんの耳が赤くなった。僕はというとかなり口が軽くなっていた。鱸のアクアパッツァや鴨肉のローストでお腹がいっぱいだし、いつもとすこし酔い方がちがう。心地よくぼうっとした気分で聞く峡さんの声は威力抜群だ。
「あれは――あれはすごくカッコよかったです。嬉しかった。あれでいいんです。どうせ昌行とはもう――友達でもなんでもないから」
「それが彼の名前?」
「ええ。小学生からのつきあいで。大学の頃にちょっと……行き違いがあって、それから連絡もとらなかったのに、零さんとボスのことがマスコミに書かれてからまた……」
僕は無防備にしゃべり、マズかっただろうかと思った。峡さんが眉をひそめたからだ。
「ちょっと待って。見当違いならすまないが、例の週刊誌のインタビュー、たしか三波君の友人が」
「いえ、大丈夫ですから」
僕はあわててかぶせるように早口でいった。
「いやその、あの記事に出てくるのは実際彼なんですが、もう済んだことだし」
「しかし――じゃあどうしてわざわざ三波君のところへ? あの記事はどうみても……」
「あ、いや、彼はその……行き違いとか誤解とかいってるんですが、僕は相手をしたくないのでメールもほぼ無視していて、それで会社までやってきたらしくて」
「いいや、十分ストーカーだ」峡さんの口調が厳しくなる。
「返事がないからといって会社まで来るなんて――もっと用心しないと。いくら相手を昔から知っているといっても、三波君みたいな」
峡さんは急に言葉を切った。僕は話を変えたかった。せっかくのデートを昌行の話題で台無しにしたくない。
「でも藤野谷さんと零さんも子供の頃に知り合ったんですよね」
「そうだな。合宿で……」
「正直いって、僕はそんな子供の頃の友達とどうにかなるって感覚、ぜんぜんわからないんですよ。どろんこになって遊んでいた相手にときめきも何もないじゃないですか」
「そう?」
「零さんは中学の頃だからまだ違うのかもしれませんけど、小学生なんてサルみたいなもんですよ。それにあの頃は、アルファだベータだといってもたいして違いもないし、僕はチビで頭ボサボサの悪ガキで、きょうだいにはサル以下だといわれていたし」
「三波君が? 今じゃ想像もつかないな」
「当時の写真を見たらきっと驚きますよ」
峡さんは笑ったが、昌行から話をそらす作戦は結局うまくいかなかった。コーヒーが運ばれてきて話はいったん中断したが、そのあとで彼はこういったからだ。
「ともかく、その――友達については、余計な忠告と思うかもしれないが、もっと気をつけなさい。だんだんエスカレートするかもしれないし、今だってあの雰囲気はあまり……ふつうとは思えなかった」
「でも、峡さん」
たぶん僕は自分で考えるよりも酔っていたのだ。隠れ家めいた屋根裏で向かい合って二人で話していて、ふだんは飲まないワインを飲んでいたからか。
「昌行に気をつけるにしたって、どうしたらいいと思います? 毎日峡さんが恋人のふりをしてくれるわけじゃないんですよ?」
峡さんの耳がまた赤くなる。目尻がさがって何だか可愛い。年上なのに。僕の耳には心臓がどくんどくんと鳴る音が聞こえている。だんだん速くなる。
「ねえ――恋人のふりじゃなくて、ほんとに僕と付き合うのはどうですか?」
口に出したあとに、これでよかったのかわからなくなった。ここで断られたら僕はかなり再起不能かもしれない。たとえ鷹尾大明神の威力があっても復活できるかどうか。
「ダメですか、その――すみません」
僕は下を向いた。ほとんど口をつけていないコーヒーをみつめる。
「興味がなかったら……あの、いや、忘れて」
「いや」峡さんがさえぎった。
僕は顔をあげる。峡さんは僕をじっとみつめている。
「いいの? 俺で。俺はその……ただのベータだし、もう歳――」
「そんなことありませんよ! 峡さんこそ……いいんですか?」
「いいも何も……」
ふっとため息が吐き出された。
「三波君ほどきれいな人に俺はこれまで会ったことがないよ。だから……」
僕の心臓は速く動きすぎていた。このままだと僕は完全におかしくなってしまうんじゃないだろうか。これはワインの効果なのか、それとも別の興奮のせいか。
「峡さん」
「ん?」
「お願いがあるんですけど」
「何?」
「朋晴って……呼んでくれませんか」
直後、僕はもう自分の言葉を後悔していた。うつむいた頭の中で、なんて恥ずかしいやつだ三波朋晴! と分身がわめいた。僕は意味もなくコーヒーをかきまぜた。まったくこの――
ふいにひたいに暖かいものが触れた。指だ。峡さんの指が僕の前髪を撫でている。続いてかすれたテノールが響く。
「朋晴。デザートはそれで足りた?」
僕はまた顔をあげ、峡さんの眼がすぐ近くで優しく笑うのをみつめた。
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