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15.砂の山を壊す

 誰かを待つというのは、とても感情的な行為だと思う。  僕は待つのが苦手だ。待っている時のそわそわする感じがもどかしく、落ち着かない。考えてみると僕はこれまで誰かを真剣に待ったことがないのかもしれない。人恋しくなったときはハウスに行けばいつも誰かと出会えたし、その前は秀哉や昌行がいた。  水曜日、定時を間近にして僕は落ちつかない気分で峡さんを待っていた。峡さんから「もうすぐつく」とモバイルに連絡がくると、交差点を渡ってすぐの脇道で待つと返事を送った。彼の車をTEN-ZEROの前に停めてもらうのは気が引けたからだ。  急ぎ足で会社を出て、佐枝さんに缶ビールのひとつも買っていくべきだろうかと思った。引越見舞いってふつうはどういうものだろう? 鷹尾なら洒落たお菓子を選ぶのかもしれないが、僕はそれほど甘いものに執着がない。そんなことを考えながら交差点に向かったとき、うしろから誰かが近づいて僕に並んだ。  今度は誰なのかすぐにわかった。高揚していた気分が急激に沈む。 「昌行」  思わずつぶやいたものの、僕は歩調をそのままに保とうとした。前のように交差点でまた信号を待つことになるのは嫌だ。なのに雑踏の中で肩に触れそうなくらい他人がそばに詰めてくると、振り切るのが難しい。苛々しながら思わず「何だよ、いったい」と口に出した。 「今日はひとりなんだな」  昌行の応答はとても返事とはいえない。つい「ひとりって?」と聞き返した。 「トモは誰かといることが多いだろう」  そういえばたしかに、最近の僕は意図したわけでもないのに、退社時は社内の人間と一緒のことが多い。同じ方向に帰る新人にOJTをしていたり、営業チームのプレゼンに同行して直帰になったり、理由はさまざまだ。特に定時にひとりで会社を出ることはしばらくなかった気がする。だが…… 「トモは人気者だよな。昔はぜんぜん目立たなかったのに」  昌行はなんということもない世間話のようにそういった。前回同じように交差点で僕を追いかけて来た時もそうだった。数年会っていないことも、以前僕が一度だけ返したメール以外はちっともやりとりがなかったことも、まったく念頭にない様子だった。  ふと背筋が寒くなる。今日の昌行はスーツ姿で、前に会った時とは違う。いったい彼は何をしているんだ? 毎日僕の退社時間に合わせてここへ出没しているとでも?  急に疑惑がよみがえった。サプライズパーティや峡さんのおかげですっかり忘れていたのだった。それに最近僕のパソコンにはメールが来ない。  いまの彼の眼つきは一見しごくふつうだ。前に会った時と同じように、怒っているのでも笑っているのでもない、無表情でもない、奇妙に静かな眼つき。  それが妙に怖い。  交差点はすぐそこだ。歩行者信号が点滅している。走ればぎりぎり渡れるかもしれない。僕は鞄を持った腕を大きく振って駆けだした。靴の踵に何かが当たった感触を無視した。昌行を蹴ったとしてもかまうものか。  そのまま点滅する信号の前を走り抜けるが、昌行は僕のあとをついてくる。僕は脇道へ駆けこんだ。パールグレーの車体がすぐそこに停まっていた。ワイシャツをまくった人影の視線が僕をみる。全力疾走したわけでもないのに僕は息を切らしている。昌行がすぐ後ろにいる。 「峡さん――」  笑顔で口をひらきかけた峡さんの眼がわずかに細められ、表情が一瞬で険しくなった。 「早く乗りなさい」  峡さんの腕が助手席の方向を指す。僕は肩を押され、自然に彼の背後に押しやられていた。峡さんは昌行の正面に立つ。 「また会ったね。覚えている? どうしたのかな」  いつもの峡さんの穏やかな声で、一件和やかな言葉づかいだった。それなのに一本芯が通ったような厳しさがある。昌行が堅苦しく答えた。 「彼に話があるので来ただけです」 「きみはタイミングが悪いらしいね。今日も私と約束があるんだ」 「俺と彼のことですから。関係ないでしょう」  僕は助手席の方へまわったが、振り向かずにはいられなかった。脇道の一方は中規模のオフィスビルの裏口に面し、もう一方は飲食店と小さな弁当屋の横にコピーセンターが並んでいる。人影は少し先の出口にちらほら見えるだけだ。 「関係ない? まさか。まともな話があるならもっと穏便なやり方を取るだろうに」  峡さんの口調はあいかわらず柔らかいが、眼はすこしも笑っていなかった。昌行が苛立ったように肩をいからせる。 「そういうのが関係ないという話です」 「朋晴はきみと話したいようには見えないが」 「俺はトモとは古い知り合いなんですよ。あんたこそなんで邪魔するんだ」 「彼は嫌がってる。それで十分だろう。昔の友達とは聞いたが往生際が悪すぎる。これ以上彼につきまとうな。それとも名族に眼をつけられたいか?」 「いったい何なんです?」  昌行は顔を歪めた。多少高いところから――昌行は峡さんより背が高くて大柄だ――見下ろす様子が一瞬ひどく醜くうつる。 「あんただってただのベータじゃないですか。どこかのアルファのためにトモを守ってるとでも?」  突然、峡さんの手からモバイルのカメラのシャッター音が響いた。  昌行は驚いたように眼をみひらき、足が一歩さがった。僕は助手席に転がりこんでドアを閉めた。エンジンをかけたままの車内はエアコンが効いている。峡さんも運転席にすばやく乗りこみ、パールグレーの車体はびっくりするほど即座に発進した。  あわてた昌行が道の脇へ寄るのを無視して車は脇道から大通りへと抜ける。僕はうしろをふりむいた。オフィスビルの壁際に昌行が立ち尽くしているのが小さくみえた。まだ僕を――僕と峡さんを見ているような気がする。 「大丈夫だ」峡さんの冷静な声が響いた。 「このまま行く。シートベルトは?」  僕はあわててサイドのベルトを引っ張った。車の動きのなめらかさとは対照的に金具が堅く、嵌めるのにすこし手こずる。 「会社まで来たのはこれで何度目?」  二度目の信号で止まったとき、峡さんは道路から眼を離さずにたずねた。 「話しかけて来たのは今日で二回目です。前に峡さんと待ち合わせた時と今日」 「それ以外にもこのあたりをうろついている感じだったか? 以前きいた話だと、例のマスコミ騒動――週刊誌のインタビューの後からということだったね」  僕はためらった。ただの疑惑を言葉にするのが怖かったのだ。 「そんな気はします」  いつのまにか車はオフィス街を抜けている。雑居ビルとマンションが交互に並ぶ国道を走っていく。僕は神経が高ぶったまま何も言葉を思いつけず、峡さんはしばらく黙っていた。でも先に口を開いたのは彼の方だった。 「わかった。そういうことなら俺の方で手を打ってもかまわないか?」  僕は眼を瞬いた。 「え?」 「彼が藤野谷君と零の一件をきっかけに出てきたのなら、これはうちの――名族の責任のようなものだ。警察が直接動くかどうかはわからないが、藤野谷家のアドバイザーは聞くだろう。こちらの本家も動く」 「そんな大袈裟な話じゃ。それに僕は名族なんて関係ない一般人ですよ。昌行だって――」 「いや」峡さんは前を見つめたまま首を振った。 「ああいうのは甘くみるとまずい。ベータの彼の動機はわからないが……俺は零や葉月で学んだから」  そういわれると一言もなかった。佐枝さんの実家(養子に行った佐枝姓ではなく、彼の実親の方の)がすこし特殊な「名族」だと僕はマスコミを通して知っていた。オメガ系と呼ばれるその家系は、例外的な高確率でオメガが生まれてくるために、当主は強引にオメガを求めるアルファから子供を守るのに苦労してきたという、どこまで真実なのかわからない逸話もこみで。 「昌行――北斗昌行とは昔はほんとうに仲が良かったんです」  思いがけず僕はいうつもりのなかったことを口に出していた。 「もうひとり、桜本秀哉というアルファと三人でいつもつるんでいて。それが高校くらいからちょっとずつ変わって……僕にとっては昌行ではなくて、むしろ秀哉との間で」 「それは彼がアルファだから?」  峡さんがいった。僕は苦笑いした。 「ええ。たぶん。秀哉は僕に――僕にかまいすぎて、それで僕は時々昌行に愚痴っていました。昌行が僕を……どう思っていたかなんて考えたこともなかった。僕にとってはしばらく何も変わらなかったので、その……」  そう、最初のヒートが来るまでは。あれは高校三年の冬だった。 「大学に入る前に三人で大喧嘩して、僕はそれからハウス通いをはじめて、しばらくふたりと会いませんでした。そのあと秀哉とは一応仲直りして、まあふつうの友達づきあいに戻りましたけど、昌行とは――ずっとあとで一度話したきりで。だから彼が藤野谷さんがらみの報道で僕のことをリークしたのは、正直意外だった」 「そういうことか」  峡さんはぽつりといった。 「オメガ性の成熟に周囲がついていけないのは――時々あることだよ」 「でも僕は……変わったつもりはなかったんです。僕にとっては変わったのはむしろ彼らの方だった。それで僕も変わるべきだと思った時もあって……彼らと別れた。それが今になって……」  急に顔が熱くなった。昌行のリークから食いついたマスコミが僕について書き散らした虚実入り混じりの事柄(僕がとあるハウスで女王然として君臨していたとか、乱交パーティに頻繁に繰り出していたとか、めぼしいアルファを食っては捨て食っては捨てしていたとか)が頭に浮かんだ。  あの時僕はそれを全部笑い飛ばしたが、そこからネットの掲示板やSNSで流れた憶測、不文律で外には出ないことになっているはずのハウス内部で撮られた写真(特段いかがわしいものではないが、ベータの品行方正な人々が想像するよりは弾けているかもしれない)、これらを峡さんも見たに違いないと、ふいに悟ったのだ。  人の噂など七十五日、つまり二ヶ月半。僕に無関係な人はもう忘れただろうし、以前から僕を知っている家族や鷹尾のような友人は見て見ぬふりをしただろう。でも峡さんはどうだろう。マスコミ報道は盛り放題とはいえ、まったくの嘘ではない部分もある。  ああ、どうしよう。唐突に昌行よりもこっちの方が僕の頭を占領した。峡さんはもしかしたら僕を救いがたく軽薄で尻軽と思っているのかもしれない。だからこの前の週末も何も……手をつなぐことすらなかったのかも。 「峡さん、僕は」 「俺が気にしているのは」  声がかぶった。僕は運転席の峡さんをみつめ、峡さんはちらりと僕に視線を投げて、またハンドルに注意を戻す。なんとなく気まずくて僕は黙り、峡さんも黙った。それでも先に口を開いたのは彼の方だった。 「朋晴。たとえ古い友達だとしても、この件で何もしないのは俺の神経がもたない」  僕は頬から頭にまで血がのぼるのを感じ、顔をそらす。 「すみません」 「余計かもしれないが――何かあってからでは遅い。少なくとも藤野谷家の渡来さんには話す。彼がマスコミ対策の中心だったからね」 「ええ」  僕らはまたしばらく黙っていた。車は私鉄の駅前を通り、住宅街にさしかかった。峡さんは思い出したようにラジオを鳴らし、僕はといえばぼんやり、彼が僕のことをどうみているにしても、とりあえず今の瞬間は大事だと思いをめぐらせていた。道の先に見慣れたコンビニのマークがみえる。僕はふと思い出した。 「峡さん」 「ん?」 「コンビニに寄ってもいいですか? 手土産を買っていきたくて」  駐車場に峡さんを待たせたまま僕はビールのシックスパックをふたつ買った。一応プレミアムとついてはいるが、昨今はなんでもプレミアムと冠されているから、何の芸も感じられない。  車に戻ると峡さんはカーナビをいじっている。コンビニの袋を足元に置いてシートベルトをひっぱりながら、僕は顔をしかめた。さっきのように金具がなかなか入ろうとしない。 「ああ、堅いんだ。そっちにはあまり人を乗せないからすぐに忘れる」  峡さんは僕の方へ体を乗り出すと覆いかぶさるようにしてベルトを引き、とたんに僕はこの狭い空間にこもる彼の息と車の匂いを意識した。まくったワイシャツの腕が僕の顔のすぐ前にきて、渋みのまじったシダーの爽やかさと一緒に別のものが香る。思わずそこへ鼻を寄せそうになったのは職業病だと思いたい(僕が勤めるTEN-ZEROは香水のメーカーなのだ)。  シートベルトの金具が嵌る音が響いた。  峡さんの腕はまだ僕に触れていた。  もう一方の手のひらが僕の肩にまわる。ひたいを撫でられる指の感触と前髪に触れる息を感じた。僕は思わず眼を閉じた。エアコンの冷気の中で両肩をふわりと温もりがかすめ、離れていく。  僕は眼をあけた。峡さんはハンドルをにぎり、正面をみていた。 「行こう。遅くなる」  佐枝さんとボスの新しい住所は、みんなちがう形の家(中にはお屋敷といえそうなたたずまいのものもある)が並ぶ緑の多い一角だった。家は坂道の先にあった。石垣で覆われた小高い場所に建っている。カーポートの前に大きなトラックが横付けになっていた。ユニフォームを着た引越業者が忙しそうに出入りして、玄関に現れた佐枝さんを呼びとめている。凝ったデザインの門扉の奥に樹木が茂っていた。敷地はかなり広そうだ。  峡さんは一度車をおりたが、業者のトラックをみるとすぐに運転席に戻った。あわてた僕は外から車の窓をノックした。 「どうしたんです?」  峡さんは窓を下げ、腕時計を指さして首をふった。 「あまり時間がないんだ。この調子だとあっちも時間がかかりそうだし」  業者となにやら話している佐枝さんを顎でさす。 「でも……」  ためらった僕のうしろで佐枝さんの声が響いた。 「峡? なんで三波までいるんだ? いいや、とにかく二人とも上がって」 「峡さん、ああいってますよ」  峡さんは微笑んでまた腕時計を叩く。シンプルな黒い文字盤のクロノメーターだ。 「あまり過保護にならないようにしないと。俺はもう行くから」 「でもこれじゃ僕が送ってもらっただけみたいですよ。送り損というか……」 「まさか。役得だよ」 「そうですか?」  僕は曖昧に笑いながら聞き返した。どういう意味だろう。峡さんは答えず「帰りは電車?」とさらにたずねる。僕はうなずいた。 「ええ」 「今日のこともある。気をつけて」  車が走り去ると、家の中で佐枝さんが不思議そうな顔で待っていた。 「峡は?」 「時間がないそうです」 「なんで峡が三波を送ってるんだ?」 「なんでもいいでしょう。引越見舞いです」  佐枝さんは僕が渡したビールのシックスパックを片手に下げて、まだ不審そうな表情だった。階下は引越業者の邪魔になるからと僕らは屋上にあがった。小高い場所なので眺めがいいし、付近には広い公園もある。よく都心にこんな場所をみつけられたものだ。 「いい家じゃないですか」僕はビールのプルタブを引いた。 「眺めも悪くないし、趣もあって。庭はホラー映画みたいですけど」  アトリエ以外の荷ほどきは引越業者にまかせているといって、佐枝さんは柵に肘をひっかけて呑気にビールを飲んでいる。僕もそのつもりで持ってきたのではあるが。  パールグレーの車はとっくにいってしまった。昼間の熱気も夕暮れの屋上では和らいでいる。風がひたいをかすめると、車の中で同じ場所を撫でた指の感触を思い出した。 「佐枝さん、ちょっと聞きたいんですけど」 「ん?」 「峡さんって……これまで結婚していたりなんてこと、あります?」 「え、おい、三波?」  佐枝さんは驚いた顔で足を組み替え、はずみで足元の空き缶を蹴っ飛ばした。

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