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金糸雀(カナリア)1 side楓
『楓は、上手だね…』
朧気に覚えている、父のしゃがれた声。
『ああ…そこはそうじゃなくてね…』
重なった、氷のように冷たい骨張った手。
薄いカーテンから漏れる、オレンジ色の光。
物なんて殆どない、殺風景な小さな部屋に置かれた、ピアノ。
それに二人で向かう時間だけが、俺のなかに残る父との唯一の幸せの記憶。
『こう…?』
『そう。上手。楓は飲み込みが早いな…』
父が嬉しそうに微笑む。
それが嬉しくて。
いつもぼんやりとどこか遠くを見ているような父が、その時間だけは俺を見て笑ってくれるのが嬉しくて。
俺は時間も忘れて鍵盤を弾いていた。
『あぁ…もうこんな時間か…』
部屋が薄闇に覆われ始めた頃、父は立ち上がる。
『じゃあ、行ってくるね。あまり遅くまで弾いて、ご近所さんの迷惑にならないようにね?』
そう言って。
俺の頭を何度も撫でた父の顔には、暗い影が落ちていて。
いかないで
そう言いたいのを、毎日唇を噛んで堪えていた。
だけど。
『…楓』
いつもは振り向かずに出ていく父は、その日、靴を履いた後に振り向いて。
『明日…少し遠くへ出掛けるから…服、バッグに詰めておきなさい』
唐突に、そう言った。
『え…?』
『それじゃあね』
出ていく瞬間には、俺に向かって笑顔さえ向けてくれた。
なにも知らない俺は
父と旅行に行けるのが嬉しくて
沸き立つ気持ちを抑えきれずに、その日は夜遅くまでずっとピアノを弾いていた。
そして翌日。
父の冷たい手に引かれて訪ねたのは、見たこともないような大きな屋敷。
『ここで待ってるんだよ?すぐに戻ってくるから』
侵入者を阻む鉄格子のような門を潜り、青々とした芝生の敷かれた広い庭の真ん中で。
父は俺の手を離した。
去っていく背中を見つめていると、なぜか目の奥がじんわりと熱くなって。
涙が零れないように顔をあげて見上げた空は、今でも脳裏に深く焼き付いている。
どこまでも飛んでいけそうな
雲ひとつない
抜けるような蒼い空
『…おまえ、誰?』
不意に、声をかけられて。
振り向いたその場所には。
俺と同じ背丈くらいの
背中に真っ白い大きな翼を持った天使が立っていた
それが父との最後の記憶
そして
君との始まりの記憶
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