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寝ているあいだは地獄行き

 その朝会社へ行くと、毎日俺より三十分早く出社していたパワハラ部長が来ていなかった。俺は例によって遅刻ギリギリに駆けこんだので、また嫌味のひとつもいわれるかと身構えていたのだが、俺の席の正面にある部長のデスクは空だった。変だった。妙にきれいに片付いていたからだ。いつも手で転がしているダルマの文鎮もなくなっていたし、決済待ちの書類も消えている。 「部長は?」  俺はコピー機に向かおうとしている島崎に声をかけた。 「ああ、唯井さん。おはようございます。刈谷部長ならもう来ないらしいですよ」 「来ない? 何それ。忌引き? 急病?」 「いや、左遷されたって」 「は?」 「俺もよくわからないんすけど、上の方で急な命令が出て今日から名古屋だそうです」 「何それ。いやあの人いないと楽だけど――待てよ、それまずいだろ。決済待ってる件は?」 「中西さんが引き継ぐって書類持って行きましたよ。あ、机はあとで移すって」 「中西さんって隣の戦略担当だろ? じゃあ彼が部長に?」 「そうみたいですね。よかったっすよ。あの人の方が刈谷部長よりぜんぜん――」  島崎は俺の後ろに視線を投げ、いいかけた言葉を急に止めた。 「まあいいや。それで唯井さん、取締役会にすごいイケメンが来たらしいですよ」 「イケメン? 何、その話の飛躍」 「ほんとよくわからないんですけど、超エリートの超絶イケメンが来たって向井さんが興奮していました」  向井さんは島崎と同期の女性である。 「それで刈谷部長左遷されたんじゃないかって」 「いや、そんな急にないだろ。だいたい俺昨日っていうか今日の1時まで会社にいたけどそんな気配かけらもなかったぞ。無茶苦茶だろ。それになんで今の時期に異動なんだよ」 「知りませんよ。あとで通達くるんじゃないですか。でも良かったじゃないですか」 「なんで」 「中西さんが部長だと唯井さん楽になりますよ。刈谷さんアレだったから、唯井さんの仕事が増えるばかりじゃないですか。ここだけの話、向井さんまで心配してて……あ、そうそう、さっき役員室の人が唯井さん探しに来てましたよ」 「なんで俺? 俺も左遷?」  島崎にそういったとたん電話が鳴った。俺のデスクだ。  取締役室の前で俺はイライラしていた。左遷だかなんだか知らないが、刈谷部長が急にいなくなったとしても俺の仕事がすぐに減るわけではないのだ。もちろん俺の仕事がここ数か月馬鹿馬鹿しいくらい増えていたのはパワハラと新人圧迫と無茶ぶりが得意な刈谷部長のせいではある。俺がばくち同然の海外拠点立ち上げ担当になったのも刈谷部長のごり押しのせいだし、若手に回すはずだった企画のほとんどをいまだに俺がやっているのも刈谷部長と給料の安さに耐えられず退職者が続出しているせいだ。さらに俺はいま睡眠時間を削って語学の勉強までやっている。  たしかに島崎がいったように俺は疲れていた。寝たかった。疲れすぎて最近はよく眠れないし、眠るどころか横になる時間がそもそも短すぎるのだ。左遷でも海鮮でもなんでもいい、たしかに刈谷部長がいなくなったのはありがたい。ありがたいが俺はアレとかコレとかを早く片付けて――  そんなことを考えながらドアを開けたときだった。 「タダイマキーーー!」  俺の名前を呼ぶ声とともに何者かが突進して、俺を部屋にひきずりこみ、ぎゅうううっと絞めつけたのだ。 「く、苦しい! 離せ!」 「何をいう、マキ! 離すものか! 俺だ!」 「は?」  俺を絞めつけているのは高級なスーツを着た腕だ。スーツはそのまま俺の首と肩をひきずるようにして壁に押しつけ、やっと首を解放した。俺は眼をばしばしさせ、叫んだ。 「あーーーーー!!! おまえ!」 「俺だ」 「なんでここにいるんだ! おまえ――魔王!!」  あわてて口をつぐんだがもう遅い。俺の前に立っているのは偉そうな雰囲気を全身からかもしだしているぎょっとするようなイケメンである。見た感じ俺と同じくらいの年齢なのだが、偉さに年季が入っている。ふんっと俺に見せびらかした名刺には「|持碁隈央《じごくまおう》」と書いてある。 「今日からここを地獄の現世拠点とすることにした。まだ若いがCEOには不足ないと承認も得たぞ」 「若い? 若いって……」 「おまえと同じだ。三十七歳」  俺は思わず叫んだ。 「何万歳サバ読んでるんだ。ていうかそんなことあるかよ? 今は昼間だぞ? 俺は夢をみてる……夢を見てるんだな、だっておまえは地獄の魔王で……」  俺は手をつねった。痛かった。変だ。自分で自分の頭をなぐろうとしたとたん、その手を魔王につかまれた。温かい。しかもこの手の感触に俺は覚えがある。覚えどころじゃない。 「マキ、そんなことをしてはいけない。大丈夫か? 自分で自分を殴るなんて」  それ自体はもっともないいぶんではあるが、俺はまだ納得がいかなかった。 「おまえは地獄の魔王だ。俺の会社にいるわけがない」  魔王はふふんと鼻で笑った。 「簡単だったぞ。資金は潤沢だし俺は優秀だし人間は騙されやすい。地獄ファンドも順調だ」 「そんな問題じゃない! っていうかなんで? どうして?」  俺の声は裏返っていたが、魔王は平然といいはなった。 「おまえが地獄に来ないからだ。俺の嫁のくせに」  話は少しさかのぼる。  俺は|唯井真木《ただいまき》、中堅どころのマーケティング会社、要するに広告代理店だが、そこへ新卒入社してはや十五年が経過した、ただのサラリーマンだ。  この業界は人間の入れ替わりが激しく、新卒はだいたい五年で転職し、中途採用で渡り歩く人間が多いものだ。しかし俺は相性がよかったのか要領がよかったのか、同期のなかでは評価も高く、やめようとも思わずにここまで働いてきた。マーケティング部の企画担当としてそれなりに経験も積んだし、この業界にありがちな忙しい生活にもそこそこ慣れていたと思う。もっとも三十を過ぎてからは、自分はともかく下のサポートに時間をとられて仕事は増えるばかりだった。  仕事が嫌いなわけではないし、達成感を得られることもたまにはある。とはいえつきあっている相手もおらず(大学時代の彼女とは話が合わなくなって自然消滅した)帰宅は遅いから飯も適当、休日はテレビと布団とスマホゲームが恋人という、この先の未来はあまり明るくなさそうな毎日を送っていたある日のこと、寝ているあいだに俺は地獄に落ちた。  なんと地獄には、生きている人間がけっこういるのだ。  地獄説明会の鬼がいうには、寝ているあいだに地獄に落ちるのはちょっとした事故のようなものらしい。だが一度落ちると落ちグセがつくらしく、その後はまとまった睡眠をとるたびに地獄に落ちてしまうのだという。とはいえ「地獄落ち」(鬼は俺たちのことをそう呼んだ)は死んでいないので亡者ではない。おまけに地獄は人手不足で、亡者の要求に応じるための仕事がたくさんあり、鬼だけではとても手が足りない。  というわけで鬼は地獄落ちになった人間を説明会に呼び、地獄で就職を斡旋しているのだった。なんでも就職しなければ単に悪夢を見て地上に戻る(つまり眼が覚める)だけらしい。働くと給料がもらえるというのだが、手渡しで渡されたそれは地獄銀行の兌換紙幣で、表には「深い眠りを」と書いてあった。  なんでもいい。どうせ夢の話だ――と思った俺は地獄でも広告代理店に就職した。地獄の住人がスーパーやコンビニで買い物をするときの販促を企画して、鬼印の懸賞品を作ったり、飲食店のブランディング提案をするのである。もっとも地獄の会社はホワイトだった。休み時間はきっちり決まっていて、クライアントは鬼も亡者も筋がよく、残業もなく、亡者は生きている人間に会えてうれしいと話してくれるし、鬼は地上の広告業界専門家として俺を扱い、尊重してくれる。  正直にいうと寝ているあいだの地獄暮らしは楽しかった。なにしろ地獄では我ながら冴えているというか、昼間よりもいい企画を思いつくのだ。上司の鬼は俺を評価してくれるし、クライアントも喜んでくれる。まあこれはしょせん寝ているあいだの夢なのだ。楽しくて都合がよくても別にいいじゃないか。そう俺は思った。  そんなある日、俺は上司と魔王城へプレゼンに行ったのである。魔王城内にいくつかある定食屋のブランディング企画だったのだが、たまたま城の中を歩いていた魔王に会ったのだ。上司がぺこぺこしてあれが魔王だと教えてくれたのだが、俺はただの「地獄落ち」なので魔王と他の鬼の区別がよくわからなかった。ちなみに鬼は俺たちと外見はほぼ変わらず、小さい角が頭に生えているだけだ。亡者は三角布をつけているので一目でわかる。  魔王の角は金色に光ってきれいだったが、俺はちょっと偉いクライアントだろう程度にしか思わず、「きれいですねその角」などといっていつもと同じ調子でプレゼンをしたのである。そんな俺を魔王はなぜかいたく気に入ったのだ。おかげで次に地獄に落ちた時、俺は魔王にヘッドハントされて魔王城へ転職することになってしまった。で、魔王城での俺の仕事というのが―― 「俺の嫁。嫁が来ないとはどういうことだ」  鼻がくっつくほどの距離に顔を近づけて魔王がいう。 「いやだからそれは寝ているあいだっていうか、夢で……全部夢のはずだ」 「あんなに毎日毎日、俺のベッドで喘いでいたのが夢だと? ここはもちろん――」魔王の手が俺の尻を撫でた。背広の下に入った指がへその上をなぞり、ワイシャツの上の方へとたどる。「こことか、ここ――」  ぞわっとした、いやぞくぞくっとした。  うわぁぁぁ…と俺は思った。これはまぎれもなく、まぎれもなく―― 「気持ちいんだろう? 今はこんなものを着ているが、俺のベッドじゃすぐに我慢できないと――」 「わわわわわわやめろって! やめて! わかった。おまえは魔王だ、魔王でいい! いいから離れろ! ここは会社で、今は昼間!」  俺はめちゃくちゃ混乱しながら魔王の手を払った。やばい。こいつが触るとやばい。いやもちろんそんなことはよくわかっている。魔王城へ転職した俺の仕事は「魔王の身の回りの世話」と契約書に書いてあった。秘書みたいなものだろうと俺はたかをくくっていたのだが、実態は|魔王《こいつ》が俺の秘所を――いやこれ以上はいうまい。 「大丈夫だ。人払いはしてある。俺は魔王だが気遣いはある」 「いいから! ていうかなんで俺の会社乗っ取ってるんだよ?」 「そんなの当たり前だろうが。ただでさえマキの地獄滞在時間は短かったのに、ここ三か月の地獄落ちは」魔王はポケットからスマホを取り出した。「六回しかない。連続睡眠時間が四時間を切ると地獄落ちが止まると説明会で聞いたはずだ。おまけに地獄落ちしなくなった人間はじきに亡者になってしまう可能性が高い」  そうか。最近魔王に会っていない気がしたが、睡眠時間が短すぎたせいか。たしかに刈谷部長のごり押しと下の連中のフォローのために連日三時間睡眠が続いていたし、休日も海外の駐在から電話が入ったりして、のんびり寝ていられなかったのだ。  魔王は秀でたひたいに嫌悪をこめた皺を三本寄せた。 「マキ、おまえはもっと地獄にいなければならん。俺の相手ができないだろう」 「でもな魔王」俺はいいわけじみた口調になった。「そうはいっても仕事が」 「だから来た。調べたぞ。なんでも地上では働き方改革とやらがブームらしいな」 「あ、あ……そうね……」 「しかし」魔王の皺が二本増えた。「何が働き方改革だ! この会社はまったくけしからん。マキの睡眠時間が地獄落ちするまで俺はここを改革するからな! 今日はまず直接の原因を取り除いた。あとは全社的な改革しかない」 「え、でもおまえ、魔王だろ? 地獄にいなかったらまずいんじゃないの?」 「すぐれた地獄経営者はちょっとした不在にも耐えられるよう組織と人材をそろえているんだ!」  ぐうの音も出ない俺に魔王はなれなれしく腕を回す。 「心配するな。それはそうとおまえはどこに住んでいる」 「え」思わずとがらせた唇が魔王の顔に触れそうになる。俺は焦った。 「おい、来るなようちに! 現世にくるなら住所くらい用意しろ!」 「わかった。人事に聞く」 「ひとの話を聞け!」  魔王はまったく聞いていなかった。それどころか俺の口を口でふさいできた。  その日、俺の退社時間は七時だった。残業禁止令が出たのである。マンションに戻ってもまだ八時前だ。  会社での出来事に動揺はしたが、こんな時間に家に帰れたのはたしかに嬉しかった。時間がたくさんあるのだ。すごい。魔王さまさまだと思いながら俺は冷蔵庫をみた。玉子と冷や飯とベーコンくらいしかない。チャーハンでも作るかと思ったときピンポンが鳴った。フライパン片手にインターホンをとると魔王の声が『ただいまき』といった。  俺は思わず怒鳴った。 「魔王、日本語学習しろ! 人の家をたずねるときは『ごめんください』だ」 「『ただいま、マキ』を縮めたんだが」 「ただいまじゃない!」 「お帰りっていうんじゃないのか? ただいまき」 「ああもうっ」  流れで俺はチャーハンを二人前作った。魔王は嬉しそうに食べて「美味い」という。皿とフライパンを洗わせてもまだ動く気配がない。 「いつ帰るんだ?」と俺が聞くと、ワイシャツ姿の魔王は「どこに?」という。 「地獄だよ」 「いいのか?」  え? と思ったときは遅かった。気がつくと俺は地獄にいた。地獄の魔王のベッドの中に。 「うわ……」 「どうした? マキ」 「気持ちいい……布団が……」魔王の眉間で皺が寄った。俺はあわてて口走った。「おまえも」  それからしばらくして、俺の会社はスーパーホワイト企業になった。残業させるようなクライアントは不要だと魔王はよけいな業務を切って捨て、社員を重要な案件に集中させることで業績を急上昇させるというミラクルをなしとげたのである。現在、魔王は地獄に戻っている。いま俺の会社にCEOとして居座っているのは魔王の姿をとった部下の鬼だ。あいにく俺以外は誰も気づいていない。  俺は見込みの薄かった海外拠点担当からはずれ、中西部長の指揮のもとで平和な毎日を送っている。マンションには毎日八時に帰り、十一時には寝るという生活だ。  そして気がつくと地獄にいる。  結局のところ寝ているあいだは地獄行きなのだ。最近はそれも悪くない気がしている。魔王も時々地上にくるから、その時はふたりでスーパーへ買い物に行く。もちろん高い肉を買わせるためだ。今日の晩飯はすき焼きである。

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