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銀紙の星と金貨の月
かつてバレンタインデーといえば「告白の日」だった。
それも女子から男子への一方通行とされていたような気がする。俺にもかすかに記憶はある。思春期の男子にとってバレンタインデーの前夜は、クリスマスイブよりドキドキワクワクの日だったかもしれない。机の引き出しや靴箱に四角いものが忍ばせてあるのではないか、なんて淡い期待をもつのだが、それはけっしてかなわない。家に帰れば親きょうだいから義理チョコもしくは義理チョコのおすそ分けをもらい、翌日の学校ではその数を競うのだ。なんとむなしい競争か。
しかしそれも今や昔。現在のバレンタインデーは単なるチョコレートの祭典となった――いやいや「単なる」は大きな間違い。正しくは「至高の」である。そう、バレンタインデーとはいまや〈至高のチョコレート祭り〉である。たいへんけっこうなことだと思う。思うのだが――
「あれはいったい何なんだ?」
俺はガバッと体を起こしていった。すぐ隣で美声が答えた。
「今年のチョコレート・アトラクションの特設会場だ、マキ」
うおっ、不意打ちだ。いつもなら眠ったとたん魔王城のでかいベッドで目を覚ますのに、今俺がいるのは揺れる小舟のうえで、しかも隣には魔王がいる。地獄魔王である。詳細ないきさつは省くが、寝ているあいだに地獄落ちするようになったあと、俺は魔王の嫁になっている。
魔王の嫁であることについての詳細ないきさつも省くが、それなりに仲はいいといっておこう。近頃の俺はすっかり地獄に慣れてしまったが、魔王はいまだに間近でみるとビックリするようなイケメンだし、指先からジュッと出す地獄の業火でいいあんばいに肉を焼くのがうまい。
地獄の業火はその気になれば何でも一瞬で燃やせるのだが、資源リサイクルの話をこんこんとするうち、最近の魔王は俺のマンションのゴミを分別することも覚えた。といっても、最近は魔王が現世まで出張って来ることはあまりなく、寝ているあいだだけ会っている。魔王もなかなか忙しいのだ。
地獄にはひたいに三角の布をはりつけた亡者と、角を生やした鬼と、亡者ではないのに不眠が高じて寝ているあいだ地獄へ行くようになった俺のような人間たちがいる。亡者は無数にいて、魔王率いる鬼たちのサービスを受けてのんきに楽しく暮らしている。しかし鬼は亡者を手取り足取りお世話できるほど多くない。そこで寝ているあいだ地獄落ちした人間たちは地獄で就職して鬼の業務の補佐役となり、貯めれば貯めるほど熟睡できる地獄銀行の兌換券をもらうのだ。
地獄の大地はやたらと広くて、俺もこれまでそれなりにあちこちへ行った気がするのだが、こんなところに来るのは初めてだと思う。空にはコインチョコみたいな金色の月が浮かんでいて、小舟は黒い湖にうかんでいる。前方には銀紙で作られたような島がみえる。
「地獄の豆の木が節分に十分なカカオ豆を落とすようになったからな、このあたりの地形をバレンタイン用に改造した」
魔王が不必要なくらいの美声でささやいた。
「そんな話、ぜんぜん聞かなかったぞ」
「マキに喜んでもらうためだ。どうだ?」
「え?」
待てって。そんなこといわれたらガラにもなくドキッとしてしまうだろ!
「う、うんまあ、驚いたけど……すごいよ。しかしこ、公私混同になるんじゃないか。おまえは地獄魔王なんだから」
「マキは俺の嫁だ。バレンタインデーくらい嫁のために何かしてやりたいだろう」
うわ、どうしたんだ魔王、今夜はロマンチックが止まらないぞ! なんだか俺もいつもよりムードに流されている。イケメンすぎる魔王の顔のせいだけでなく、ドキドキが止まらない――とそのとき、小舟のへさきで鬼が「へいっ、もうすぐ着きますので~」といった。
船頭がいたのかよ! 俺は腰のあたりをおさわりしている魔王の手をさりげなくひきはがした。
「た、楽しみだよ。あの島はなんだ?」
「亡者向け新アトラクション、チョコレート・アイランドだ。ショコラ火山が爆発し、流れ出した溶岩チョコが地層となって固まっている。火山の火口はチョコ池地獄で、地層を掘ると化石チョコも出土するし、川下りもできる」
「……」
チョコレート・アイランド……本当にそれでいいのか? チョコ池地獄ってやつはあれか、血の池地獄みたいなやつ? もっとましなネーミングは――などなど、一瞬俺の頭には疑問が渦を巻いたが、まあ俺は今回このアトラクション企画にいっさい関わっていないし、だいたい地獄で細かいことを気にしてもはじまらない。
まもなく小舟は桟橋につき、俺と魔王は桟橋へ降り立った。歩いて行くのかと思ったら、豆の莢みたいな乗り物がしっかり待っていて、運転係の鬼が礼をする。うん、この乗り物には前も乗ったことがある。地獄の豆の木の収穫で亡者と鬼が玉入れをしていたときだ。
何の話をしているかわからなくてもつっこまないでほしい。地獄とはそういうものなのである。
どこからか優雅な響きの音楽が流れてくる。豆の莢の乗り物は垂直上昇し、チョコレート・アイランドをぐるりと回った。どこもかしこもキラキラとライトアップされ、ふわっと甘い香りがして、亡者たちが血の池地獄――じゃない、チョコ池地獄にぷかぷか浮いて遊んでいる。ちらっと見えたピンクはホワイトチョコでコーティングしたイチゴのようだ。暗い空にはホイップクリームみたいな雲の向こうに銀紙の星がきらきらしていた。豆の莢はゆっくり回転し、今度はシンデレラ城みたいな建物へ飛んでいく。
「うわ、あんなのまで作ったのか」
「地獄のチョコレート城でございます。といってもはい、中はショコラ工房でこざいまして。亡者のみなさまはチケットをお買い求めくださればお好きなチョコ菓子を作ることができます。チョコレートの靴からウェディングケーキまで何でも承ります」
運転席の鬼が前をみつめたままいった。魔王は無言のまま俺にぴったりくっついている。運転席の鬼はうしろをふりむけないし、空の上で他には誰もいないせいか、さっきから手があやしい動きをしている。おかげで俺はちょっと焦っていた。というのも、魔王のテクニックは魔王級だからだ。こんなのを続けられたらちょっとその――
「あ、あのな、魔王……そんなとこまでさわっ……んっ」
「どうした?」
やたらと甘ったるい声でささやくイケメンを押しのけようとしたとき、乗り物はお城のバルコニーにさしかかった。すると魔王はなんと、いきなり俺を抱っこして立ち上がったのだ。
おいおいおい、と俺はいおうとした――あやしい手の動きで腰が抜けそうになっていたからといって、こんないきなりはないだろう。しかしそれだけですまなかった。あろうことか魔王は俺を抱っこしたまま膝を曲げ、乗り物からスタッと下へ飛び下りたのである。
えっ! と思ったその一瞬、魔王はパチンと指か何かを鳴らした。とたんに俺の着ていたものが全部、ハラッと脱げた。俺は急に明るいところへつまみ出されたハムスターみたいにびっくりして目を見開いた――が、その次の一瞬のあいだに、魔王は俺を抱っこしたまま、チョコレート色の液体が満たされた巨大な露天風呂におさまっていた。
露天風呂の中心にはチョコファウンテンそっくりの大きな機械が据えられて、とろりとしたチョコレート色の液体が次から次に湧き出している。俺は魔王の膝の上であたたかくて甘い液体にとっぷり浸かっている。乗り物のなかで魔王に弄られていたせいか、この液体の温度のせいか、体の中が熱を帯びて頭がぽうっとしはじめた。
そんな俺をみはからったように魔王はふふっと笑みを浮かべ、手と腰をあやしく動かしはじめる。ちくしょう、これだから魔王ってやつは! 俺の体のいたるところが甘ったるく蕩けていく。ひょっとしたら俺はこれからチョコバナナにされて、魔王に食われてしまうのでは――なんて考えがちらっと頭の中を横切ったが、すぐにチョコレートの匂いに溶けていった。
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