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*
白い壁が眼の前にそそり立つ。真っ白で、表面がざらざらした石を積んだ壁だ。ここに立っている今になって俺は思い出す。俺は前もここに来た。
壁は俺のすぐ後ろにもある。俺は狭い路地に立っている。壁の隙間に入りこんでいるといった方がいいかもしれない。足元も白く、やはり壁と同じような白い石で出来ている。上をみると壁はずっと遠くまで続いている。首が痛くなるくらい見上げても、壁の行きつく先は見えない。眼を懸命に瞬かせると青い点が見えたような気もするが、すぐにわからなくなる。左右も同じだ。どこまでも白い壁と床が続いている。
憶えている。たしかに以前もここにいた。そう確信して俺は歩きはじめる。左にしばらく進むと、突然分岐があらわれる。気付かないうちに壁が左右に割れたかのように、別の道が生まれているのだ。これも記憶がある。俺は右に曲がる。ブーツの踵が砂利を踏む。あっと思った時には、白い床は赤茶色の煉瓦で舗装された道に変わり、左右の壁も同じような煉瓦が積まれている。それ以外は何も変わらない。
そう思って足元から前方に視線をもどしたとたん、扉が見える。
大きな扉だ。俺の身長の三倍ほどもあり、両開きのアーチ型で、表面に複雑な模様が刻まれている。俺はまっすぐ歩き、扉の中間、俺の肩のあたりに取り付けられた把手のことを思い出す。そうだ、俺は前もここに来た。
「通りたいか」
突然頭上から、低い男の声がいう。
俺は驚いて見上げる。ずらりと並んだボタンが見える。身長は俺よりずっと高い。軍服のような上下にブーツをはいている。
「ああ」俺は答える。「通してくれ」
「それなら開けてみろ」
開けろって? こんなに大きな扉を? と思ったとたん、俺は前も同じように感じたことを思い出す。両開きの扉の把手はどちらも横向きのバーだ。俺は右側の扉の方を右手でつかむ。押すと意外に軽い。そういえば前も、同じことを思わなかっただろうか?
「開けていいのか?」
「ああ。行け」
俺は扉を押し開ける。わずかな隙間から白い光が漏れる。とてもまぶしい。ほとんど眼をあけていられないくらいだ。それでも扉は簡単に開き、俺はその先の白い世界に放り出される。
次の瞬間、生まれてはじめて吸った空気と光に俺はむせて泣きわめき、|そ《・》|う《・》|し《・》|な《・》|が《・》|ら《・》|俺《・》|自《・》|身《・》|を《・》|忘《・》|れ《・》|た《・》。
*
白い壁が俺の前にそびえている。
前もここに来た、と俺は思う。壁と床はどこまでもまっすぐ続くように思えるが、しばらく歩くと唐突に違う道が開ける。俺はそちらに進む。
歩きながらどうしてここにいるんだろう、と俺は考える。ここに来る前、俺は何をしていたんだろう? そもそも俺は誰なんだ?
自分に対する問いの答えをまったく知らないことに俺は気がつく。背筋がぞっとしたそのとき、前方に扉があらわれる。
俺は憶えている。前もこの扉を開けたのだ。大きな両開きの扉で、真ん中あたりに把手がある。だが記憶よりも把手の位置が低い。手をかけるとすぐ横で誰かが「通りたいか」といった。
俺は驚いて横を向く。男はずっとそこにいたかのように立って俺をみているが、俺はまったく気づかなかった。きらびやかに飾られた軍服のような上着を着ている。この男を俺は知っている、ふとそう思った。
扉番だ。
「ああ。通らせてくれ」
答えながら、以前会った時の彼は俺よりずっと背が高かったように感じた。男はとくに表情も変えず「開けてみろ」という。
俺は右側の把手に手をかけ、扉を押し開けようとする。見た目通り重い扉だ。それでも動かないわけではなかった。以前もこうだっただろうかとふと思った。
「開くか。では行け」
俺のうしろで男がいう。その時には俺は隙間から漏れる白い光に夢中になっている。全身に力をこめて扉を押し開け、白い光の中に前のめりに飛びこむ。そしてまた――俺は俺自身を忘れる。
*
いつの間にか路地は幅広の道になっている。左右に煉瓦の建物がある。道も壁も白い石で作られているのに、俺の足が進む一歩ごとにそこに色がついていく。たしかに記憶がある、と俺は思う。俺はここに何度も来ているのだ。しかしいつ、なぜ来たのだろう?
おまえは誰だ?
ふとそんな問いが心に浮かんで、俺は俺だ、と思う。俺が俺だとわかっていればとりあえず大丈夫じゃないか?
前方に大きな扉がある。
複雑な模様が刻まれた両開きのアーチ型の扉。中央に取り付けられた把手を俺は片手で握る。押し開けようとしてみるが、とても重いようだ。びくとも動かない。俺は両手をかける。そのとき、隣で低い男の声がいう。
「通りたいか」
「ああ、通りたい」
答えながら俺は扉を両手で押す。この扉を通るために俺はここへ来ているのだ。何十回、それとも何百回? 繰り返し俺はこの扉を開けてきた。そのたびにこの男は隣にいた。そう、彼は扉番なのだと俺は思い出す。突然壁の前にあらわれて、道の先の扉を俺が開けるたびに、彼はそこにいるのだ。
「開けられるか」と男がいう。
余裕のない俺は答えられなかった。腕の力だけでは開かないので、俺は体をつかって扉に体当たりする。重い建造物がわずかにゆらいで隙間がひらくが、すぐに閉じる。白い光が一瞬漏れて消える。俺はいったん扉を離れる。どうしたら開くのだろう。
「押してだめなら、という場合がある」
横で男がいった。
押してだめなら?
俺は左側の把手をつかみ、引っ張った。またわずかに隙間が開いた。これだ。俺は両手で把手をつかんで力いっぱい引き、なんとか自分を押しこめるだけの空間をつくる。
「あき……そうだ……」俺の声に男はうなずく。
「では、行け」
白い光に飲みこまれる瞬間、俺は俺の意識に浮かんだいくつかの疑問を言葉にしようとして失敗する。ここはどこだ? 俺はどうしていつも扉を開けている? あんたはなぜここにいる?
*
そして俺はまた壁の前に立っている。
サンダルを履いた足が軽い。俺が歩きはじめると周囲に色がつく。真っ白の壁は温かな煉瓦色に変わり、足元には砂利や枯葉が落ちている。もう何十回、何百回この路地を歩いただろう。俺はこの場所のことをよく憶えている。というより、俺の記憶はこの場所にしかない。
道幅はやがて広くなって、通りの先に扉が見える。扉の手前には宿屋が並び、俺と同じようなマントを着て、ブーツをはいた人間たちが出たり入ったりしている。男も女もいるし、体格はさまざまだ。ときおり扉に近寄っていく者がいるが、そちらに視線をとめるのは難しい。どういうわけか、扉の把手に手をかけた者を他の人間はみつめていることができない。見えるのはあの男だけだ。
扉番の男。
彼はいつも変わらない。この道の風景はうつろいやすいが、俺はいつも彼を覚えている。服装は微妙に変わるし、髪やひげも長かったり短かったりするが、いつも同じ男だ。彼をみつけたとたん、俺の記憶、どうやらこの場所にしか存在しないらしい「俺」という意識がはっきりする。俺は扉の前に立つ。
「通りたいか」と男がたずねる。
俺は把手に手をかけずに男をみつめた。
「ああ。だがすこし後で」
男は意外な様子で眼を見開いた。「なぜだ?」
「この扉はだんだん重くなっている」と俺はいう。
「俺は何回も――何十回もここに来たな? そうだろう。そして何回か前から苦労しているんだ。試す前に休みたい」
「そうか」男はうなずいた。「休むならそこに宿屋があるぞ」
「あんたも一緒にどうだ?」
男の眼が細められた。
「俺の仕事は扉番だ。男娼じゃない」
「それは知ってる。でも――」
俺は自分自身を見下ろした。足元はサンダルで、くるぶしで結んだ紐には宝石が光っている。マントの下の肩にはおった薄物も膝丈のズボンもなめらかで透けそうで、まともな庶民の実用に耐えるものではない。
「それは|今《・》|回《・》|の《・》俺の仕事のようだ」
宿屋のベッドは清潔で、シーツはかすかな花の香りがした。ここに来るまで男はずっと懐疑的な眼つきだったが、俺がサンダルを蹴飛ばすように脱いで肩の薄物を床に落とし、男の服を脱がせはじめると、急に大胆に動いた。あっという間に俺は背中を寝台に押しつけられ、彼の指で薄い布のどこかがびりっと裂ける音が響く。
「何を考えている?」
男の顔はこわばっていて、俺はそこに困惑を読み取った。彼を慰めるように背中に手を回す。理由はわからないが、|今《・》|回《・》|の《・》|俺《・》は男の体に触れるテクニックを知っているのだ。それに、布越しに鍛えられた肉体を指でたどりながら、俺は彼に触れたいという欲望をはっきり感じていた。
「この道に来るたび、俺はここにいたことを思い出すが、俺が何者なのか、いつもわからない。そして扉を開けたとたん、俺はすべて忘れる」
「もちろんそうだ。そうでなければおかしい」
「なぜ?」
横になったまま、俺は片手で覆いかぶさる男の服のボタンを外しにかかる。男は俺の顔のすぐそばに手をつき、かすかに息を吐いた。ため息。
「異なる世界に新しく生まれるとはそういうものだ。おまえは扉を開けるたびにちがう場所へ行った。そしてまた来た」
「どういうことだ?」
男の肌着に俺は手をつっこむ。この男は実体だ。指に触れる筋肉と熱い肌、臍から胸にかけて生えている毛の手触り。欲望がさらにつのってくる。俺は肩をよじるようにして自分の胸をむきだしにする。ひょっとすると煽情的に見えるかもしれない。|今《・》|回《・》|の《・》|俺《・》|は《・》こんな動作を知っている。誘うように目線を動かす方法もだ。男の息が荒くなり、片手が動いて、俺の腹をさぐった。
「ここは世界と世界のはざまの場所だ。生まれた世界に居場所を見い出せない魂は、この場所を訪れて扉を開ける。そして何もかも忘れて別の世界へ生まれ、そこで――」
「居場所が見い出せなければ、また戻ってきて、扉を開ける」
「そうだ」
ベルトの金属が鳴った。俺は男の下着の前だけをあけ、半勃ちになった一物を愛撫しようとした。すると男はいささか乱暴な動きで俺の腕をつかんで止めさせた。
「なんだよ、咥えさせてくれ」
俺はうす笑いをうかべたが、少し傷ついた気分だった。ここまで黙って脱がせておいてこれはないだろう。
「それはあとだ」
ふいに唇がふってきた。
驚いた俺の唇のあいだから舌が入りこんで、中を深く探ってくる。同時に指が胸に触れていじりまわし、俺は下半身が熱く緊張するのを感じた。扉の横に立っているだけにしてはずいぶん手慣れているじゃないか、と冗談半分に考える意識も舌の動きでかすんでくる。これでは知っていたはずのテクニックも形無しで、あっと思った時には下半身をむきだしにされていた。
「ちょっ……」
唇が解放される。俺は自分に与えられた思いがけない愛撫に素っ頓狂な声をあげそうになって、あわててこらえた。この男は手慣れているどころじゃない。
「おまえは強いな」
男は眼を細めて俺を見下ろしている。
「世界と世界のあいだを渡る旅は魂の負担が大きい。なのにおまえは、俺が記憶するくらい、くりかえしあの扉を開けてきた。だがそろそろ……」
「そろそろ?」
男は答えず、彼の指が下半身に与える衝撃に俺は体をすくませた。自然に浮き上がろうとする腰を押さえつけられ、うつぶせにさせられて、俺はシーツに顔を埋める。どこから現れたのか、ぬるりとした液体が尻を撫で、強引な指がたちまち俺の中をほぐす。呼び覚まされた快楽に俺はまたも腰をずりあげようとしたが、男はのしかかって俺を押さえつけた。
「あっ……」
「今回の生はこんな暮らしだったのか?」
「――わからない……俺は何も……憶えていない……あんたの顔しか……」
「おまえは兵士だったことも学者だったこともあった。娼婦だったこともあったが、その時は俺を誘わなかったぞ」
「――休みたかったんだ……すこし……んっ、ああっ」
指の感触が抜けていき、俺は思わず首をねじって男の顔を探した。
「誘ったら……なんだよ……中途半端な――」
「中途半端はいやか?」
熱い棒が後ろから押し入ってくる。俺は息を吐きながら男を受け入れた。突き入れられるたび、男の吐息が荒くもれ、自分の声と重なる。何度か絶頂へ運ばれて、俺はそのままシーツの上で眠りに落ちた。
目覚めると疲労が消えたような気がした。
俺は扉の前に立った。隣で男の声が響いた。
「準備はできたか?」
「ああ」
俺は扉を見上げる。これまでよりも大きく、重そうに感じる。俺はこれを開けられるだろうか。
「聞いていいか」どちらの把手をつかむか迷いながら俺はいった。
「扉が開けられなかったら、俺はどうなる」
扉番の男は答えなかった。彼の「仕事」にこの質問への答えは含まれないのだろう。昨日(この場所では時間の感覚がないからはっきりしないが)のベッドでのふるまいが「仕事」なのかどうかは不明だが。
俺は肩をすくめ、右側の把手を持って両手で押した。びくとも動かなかった。左側も試す。押してだめなら、今度は引く。あるいは体ごと真ん中にぶつかって……
扉はびくりともしない。揺れることもない。
焦りがやってきた。俺は扉にしがみついたり、体当たりしたり、蹴り飛ばしたり、いろいろやってみたが、扉は動かない。隙間から光が漏れることもない。焦りのつぎは恐怖がやってきた。扉が開かないなら、俺は戻ることができるのだろうか? この場所に来る前にいたどこかの世界に。
だが扉番の男はこういったはずだ。
(生まれた世界に居場所を見い出せない魂は、この場所を訪れて扉を開ける)
ふと見上げた視界に彼が映った。何か手真似のような仕草をしている。体の前で両腕をくるくる回しているのだ。と、その時俺の頭にアイデアが浮かんだ。俺は扉の把手から離れ、表面を観察する。模様の重なり合いの中に探していたものがあった、と思った。指でそいつをなぞって、それから反対側の扉を調べる。
ここだ。
体の側面を扉にあて、俺は扉番へ手を振った。全身に力をこめる。押し開けるのではなく、向こう側へくるりと――回転扉のように回るのだ。
「ありがとう」
俺の声は彼に聞こえただろうか。押してだめなら引いてみろ。それでもだめなら回してみろ――というのはかなりのアクロバットだ。それに案外、力がいるし。
そう考えたのを最後に、俺の意識はちがう世界の光に飲みこまれた。
*
そしてまた俺は壁の前に立っている。
もう壁は白くなかった。風景は見慣れたものだ。最初のころはよく見えなかったが、ここはきっと巨大な都市に作られた中庭のような場所なのだ。俺はなじんだ道を歩いていく。いったい何度俺はここを歩いたのだろう。俺はここに来る前、何をしていたのだろう? だが俺という魂の意識は、扉を開けて生まれた個別の世界ではけっして表面に現れないようなのだ。魂とは世界を渡るための道具のようなものなのだろうか。ふと俺はそんなことを考える。
そして|今《・》|回《・》|の《・》|俺《・》はずいぶん疲れていた。
扉番の男は俺をみて眉をあげた。俺たちは何も言わなかった。ふたりで黙って宿屋に行くと服を抜いだ。俺は兵士だったのだろうか。それとも荒事仕事専門だったのかもしれない。体にはたくさんの傷が残っていて、扉番の男と同じくらいの長身で、痩せ気味だ。俺はただの魂にすぎないのに、ここでこんな姿で現れるのは、どんな暮らしをしていたせいだろうか。
扉番の男は俺をシーツの上にあおむけにして、体についたたくさんの傷をたしかめるように指でなぞった。そして太腿を切り裂くような長い刀傷にキスをした。
俺は思い出す。この男と俺はもう、何度もこうして寝ている。俺は毎回ちがう体、ちがう容姿だが、男は俺を間違えていないという確信が俺にはある。
扉番の男をここまで記憶して、これほど彼と会っているのは、俺だけだからだ。
「あんたはずっと同じだな」
傷あとをなぞる指に無意識に体を震わせながら、俺はいう。
「俺は永遠にここにいる。俺の眼にはおまえもずっと同じだ」
男は俺の中を指でさぐりながらささやく。
「そうか?」俺は軽口をたたく。「俺はかなり疲れたぞ」
「どれだけ疲れてもおまえはおまえだ」
俺たちはベッドの上で格闘のように絡みあった。男の皮膚の匂いや髪の硬さを忘れていないことに俺はなぜか安堵する。この場所に来たときとは異なる種類の疲労で全身が怠くなり、俺はやっと安らかな眠りにおちる。目覚めると、珍しいことに扉番の男はまだ同じ部屋にいる。
「おまえは俺がずっと同じだといったが、そうでもない」
俺と眼があうと男はそんなことをいった。どれだけ間をあけて話の続きをするんだと、俺はすこしあきれた。
「どう変わっているんだ?」
聞き返したが、男は「さあな」と首をふって答えず、逆にたずねた。
「では、扉を開けるか?」
「これを最後にしたいな」と俺はいう。
「なぜ」
「疲れたから」
今の俺の髪は長かった。俺が髪をかきあげる仕草はこの体が憶えているもので、なのに俺にはなぜ俺の髪が長いのか、なぜこんなに傷あとがあるのか、さっぱりわからない。
「扉はもう俺には重すぎる。他の旅人がすぐに扉を開けて消えるなかで、俺は苦労してやっと開いた隙間に飛びこんでいるだけだ。それに押したり引いたり回したり……扉は重いだけじゃない、俺にとんちを仕掛けてくる。そしてへとへとになって扉を抜けて、ちがう世界へ行った俺はすべて忘れて新しくなったはずなのに、またここへ戻ってくるんだ。とてもくたびれて。そして思い出す。この場所にしかいない、この俺のことを思い出す」
男は何もいわず、ベッドの裾に腰をおろしたまま俺をみていた。
「なあ、あんたはどうしてここにいるんだ? なぜ扉の番なんかやってる? あんたは――どの世界にも居場所のなかった魂じゃないのか? 俺みたいに」
男は黙って俺をみつめていたが、ふいに立ち上がった。一言も発さずに宿の部屋を出て行った。
扉はこれまでになく大きく、俺の前にそそり立っていた。もはや壁のようにみえる。
さっき俺を追い抜いてこの扉に近寄った者は、簡単にこれを開けたらしい。だが俺は用心深く、慣れ親しんだ表面の模様や把手をみつめる。
「通りたいか」
扉番の男がたずねる。いつものせりふだ。さっき宿屋で別れた時の気まずさは忘れたようにふるまっている。俺はうなずく。
「ああ。通りたい」
いつもなら彼はこういうはずだ。「開けてみろ」と。
だが今回は違った。男は俺の眼をじっとみつめると「次こそ、おまえの居場所があるといい」とぼそっといい、そして扉に手をかけた。
「え?」
俺が驚いていると男はいった。「力を貸してやる。右の把手を回せ。鍵があく。早く!」
俺はあわてて把手に手をかけた。男が扉のどこかに手をあてると、扉の内部からカチリと音がきこえ、歯車がまわるような音と同時に把手がくるりと右に回転した。そのとたん扉全体が軽々と、前進するかのように前にずれた。俺はびっくり仰天して固まったが、そこに扉番の男の足がのび、あっと思った瞬間扉は蹴り倒されていた。
前方から白い光がやってくる。扉がなくなり、あたり一面が真っ白い光におおわれる。俺は自分でもわからないまま何かを探してやみくもに手を振った。それをみつけたとたん、しっかりとつかんで、そのまま白い光をめざして走ろうする直前、俺は何かが気になってふりむいた。
すぐうしろで新しく扉がたちあがり、みるまにぴったりと閉じていく。俺は前方に意識をもどした。握った手を離さないようにしながら、白い光の中に飛びこむ。意識が消えていくのを感じ――
――そして俺たちは白い壁の前に立っていた。
「おい、おまえ――どうして……」
横から聞こえる声をよそに俺は上下左右を見渡した。ここはどこだろう。なかば薄汚れた白い砂壁の下の地面は白い土に覆われている。風にはしめった水と土と、それに何かが焦げるような匂いがまじっている。これまで嗅いだことのない匂いだ。俺は自分の姿を見下ろす。たくさんの傷あとの残る兵士の体を持った俺。
「おまえたち! 何者だ? どこから現れた?」
いきなり頭上から声が降ってきた。硫黄臭と翼がはためく音がする。うろこのある生き物に乗った人間が空中から俺たちを見下ろしているのだ。
ここはちがう世界だ。そして俺は――
「――どこから来たんだろうな」
顔がにやつくのを止められなかった。俺はまだしっかり、かつて世界と世界の扉番をしていた男の手を握っている。互いに顔を見合わせ、走り出したのは次の瞬間だ。真上で翼が羽ばたいて、狭い路地に飛びこんだ俺たちを追ってくる。俺はふと気づく。全速力で走っているのに、体じゅうの細胞から疲れが消えて、力がみなぎってくる。この世界に俺は、いや俺たちはたったいま生まれたのだろうか。
翼の音を振り切って俺たちは白い道を走り抜け、二人であたらしい世界の旅へと突入する。
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