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第69話「据え膳」

「ふふっ、メイくんてこんなに面白いんだ!私知らなかった!」 「そうなのかな。ありがとう」 VIPルームに入った2人はゆっくり酒を飲みながら話していた。 ホールの中の音楽も聞こえず、邪魔する人間も視線もなくて、リラックスできる空間だった。 冴はシャンパンが好きらしく、少しだけ顔を赤くしながら小さな口でひと口ずつ丁寧に飲んでいる。 「あ、いけない。私そろそろ帰らなきゃ、、」 左腕の手首に着けた華奢なシルバーの時計を見つめて彼女は言った。 「ん?」 「メイくん、あのっ、お願い連絡先教えて!」 「ん、いいけど、帰るの?送ろうか?」 「ええっ!?」 多分この子はそう言った事に慣れていないのだろう。 冴は連絡先の件を軽く承諾された事にも、「送ろうか?」と言う誘いの優しさにも、胸を痛い程高鳴らせて目を丸くしている。 (鼓動が聞こえてきそう) 芽依はアルコールが回っているせいもあり、目の前の明らかに自分にときめいてドギマギしている彼女と世界をふわふわと見つめながら、口の中で上機嫌に舌を回した。 「いやでもっ、あのっえっ!?」 「ブフッ、ふふ、、いや、何もしない。絶対何もしないから」 芽依はくつくつと笑い、彼女を安心させるように手を振って誤解を解こうとする。 何も、この出会いをそんなにすぐに進める気はない。 「や、そんな、それはそれで、と言うか、いや、あの、」 冴は顔を真っ赤にしている。 「お、送って欲しい、し、連絡先も、教えて、、下さい」 「うん。ふふ、あれ?また敬語に戻ったなあ」 じゃれるように伸びた芽依の手が、再び敬語で話し始めてしまった冴の長くくるりと巻かれた髪に触れる。 「わ、」 そんなひとつの動作にも、芽依の妖艶さは滲む。 長く太く骨張った指が髪を絡めて遊ぶと、広い手のひらに真っ黒で艶やかな絹糸のような髪がゆらゆらと乗った。 それを見つめる視線は不思議な色をしていて、長い睫毛はフサフサと瞬きをするたびに揺れている。 「メイくんて、、」 「ん?」 「綺麗で、格好いい、、ね」 そのむず痒いくらいの「恋の気配」に、冴はむせ返りそうになった。 堪らなく格好良く、女のツボを押さえて的確に口説いてくる芽依から目が離せない。 この男に狙われている自分に酔い、この男自身にも酔いしれている。 自分の手よりも遥かに大きい手のひらに触れたくなる。 自分を見つめる深い茶色の瞳を、視線すらも自分のものにしたい。 冴は初めて味わう「男への欲求」に胸を高鳴らせ、息が苦しくなるのを感じた。 「冴ちゃんは綺麗で可愛い」 「っ、本当ですか?」 「敬語、やめて」 「あ、、う、うん」 栞と付き合う前の自分が戻ってきたようだった。 芽依は自分の口からスルスルと冴を口説く言葉が出てくる事に驚きつつ、狼狽える事なく舌に乗せて吐き出している。 「冴ちゃん」 「は、い、」 「本当の名前も冴って言うの?」 「そうだよ」 弧を描いた黒い革張りのソファは動くとギュッとおかしな音が鳴る。 パンパンに張られた革が鳴るのだ。 丸いテーブルに肘をついて話していた2人は見つめ合い、視線を絡め、芽依から徐々に彼女に近づいた。 (キスしたい) 壁にひっついているソファの背もたれを掴み、背もたれに背中を押し付けた冴と距離を詰めていく。 「イヤじゃない?」 慣れていない冴に対して、芽依は優しくそう聞いた。 「イヤなわけ、ない」 鼻先が触れ、唇が触れ合う刹那、彼女はか細い声で返事をした。 ちゅ、と触れた唇は暖かくて柔らかくて、そして彼女からは良い匂いがする。 (可愛い、、良い匂い、) 1年ぶりの、自分と違う体温を持った人間とのキスだった。 「ん、んふ、、んっ」 熱い舌が絡まりだすと、冴は縋るように芽依のTシャツの裾を両手で掴んだ。 彼は空いている手で彼女の肩を優しく撫でてから掴み、背もたれに押しつけて動けなくしている。 「ん、、んぁ、ん、、」 芽依は満たされていくのを感じていた。 やはり、鷹夜に対して抱いていた気持ちはこの感覚の飢えのせいだったのだろう。 男にときめくなんて、男とキスがしたいなんて、普通は考えない筈なのだから。 彼はそう考えながら、小さくて柔らかい冴の舌を優しく吸い、彼女が肩をびくつかせた瞬間に、怖がっているなと察して唇を離してやった。 「大丈夫?ごめん、急ぎ過ぎた」 「はあっ、はあ、、大丈夫、あの、、びっくりしちゃって。ごめんね、こう言うの私、分からないの。あんまり経験がなくて」 「ふふ。そんなに説明しなくていいよ。大丈夫。ゆっくり冴ちゃんのペースでいこ」 芽依の手が頬を撫でると、冴は涙ぐみながら頷いた。 ブーッ 「ん?」 「あれ、、?」 ブーッ ブーッ ブーッ 芽依の尻ポッケに入れていた携帯電話が震えた音がVIPルームに響く。 時刻は午後23時41分を回っていた。 「誰だ?、、あ!鷹夜くんだ!ごめん一瞬電話出るね」 「うん。どぞどぞ」 冴が快く頷くと、芽依は急いで電話がかかって来ている画面の通話ボタンを押して携帯電話を耳に押し当てる。 「鷹夜くんっ?!」 《ヨッスー、ごめん遅くに。仕事終わったんだけど、芽依くん暇だったらうち来ないかなあって思って電話した。忙しいか。明日も仕事?》 少し疲れた声は、それでも楽しげにそう言った。 「今終わったの?また遅かったんだ。お疲れ。明日仕事はあるけど10時からだし、また鷹夜くん家からの方が近いなあ」 《あ、そうなの。来る?》 「んー、いこっか、、ん?」 《ん?》 ちょん、と膝の上に小さくて白い手が乗った。 (あ、) 恥ずかしそうに顔を赤く染めた冴が、もじもじしながらこちらを見つめている。 「ごめんちょっと待って」 《んー》 芽依はそう言って携帯電話を耳から離し、それを持っている手を伸ばして会話が聞こえないようにドアの方へ向けて彼女を見下ろした。 「ん?」 「、、っ、」 芽依が首を傾げると、冴はごくっと唾を飲んでから、彼の耳元に口元を寄せ、手で筒を作って小声で言った。 「この後私のお家で、あの、お茶でも飲みませんか?」 「、、、」 鷹夜か冴。 芽依は選択を迫られた。

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