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スーツの男の名前は、時津実紗(ときつみさ)。年齢は四十手前だという。周防(すおう)グループに属し、周防家の使用人として働いている。 実紗が周防家で働くきっかけとなったのは、実紗の両親が、元々周防家の使用人として働いていたからだ。使用人の住まいは、周防家の敷地内にあり、実紗の実家もそこだという。 澄香(すみか)の母親は、周防グループ社長、周防政孝(まさたか)の愛人であるが、澄香が生まれてからは、彼らも周防家の所有地の一つにある別宅で暮らしており、使用人の仕事の一つとして、実紗も澄香の家に毎日通っては、澄香の良き遊び相手になっていた。 愛人とその子供を、別宅とはいえ所有地に住まわせていた事に蛍斗は驚いていたが、そうなったのも、澄香の獣憑きの体質に理由があるという。 獣憑きという体質は、一般的に知れていない体質。更に、そんな体質を受け継いだ子供は家の恥だと考える家系だ、それも愛人の子供。 何か一つでも漏れたら騒ぎになる、外部には漏れぬよう、せめて澄香が幼い内は管理下に置いて隠すつもりだったようだ。幼い子供の内は、獣憑きの症状を抑えるような薬は処方されても効き目は弱く、自分で症状が表れる予兆を感知するのも難しかった。 それに、咄嗟に症状が出てしまった時は、大人だって対処が難しい事もある、子供は尚更だった。 そういった理由もあり、澄香は保育園や幼稚園にも通えていなかったので、澄香にとって実紗は友達であり、兄のようだったという。 「昔はな」 「照れないで、いつでもお兄ちゃんって呼んで良いんだぞ?」 「誰が呼ぶか!」 澄香は運転席の背もたれを蹴り飛ばしたが、相変わらず実紗からは陽気な笑い声が聞こえるだけだ。 澄香は不服そうに肩を怒らせたが、やがて諦めて窓の外へ目を向けた。背けられた表情は見えないが、「昔は」と言った澄香の言葉が引っ掛かった。実紗は茶化して流したが、澄香はその言葉通り、過去と今を切り離して言っているように蛍斗(けいと)には感じられたからだ。 澄香の中で、実紗は昔のように信用出来ない人物に変わってしまったのだろうか。 それに、もう一つ気になる事があった。 「澄香さんのお母さんは、今もそこに?」 「俺が中学に上がるタイミングで、一緒に出たよ。それでも実紗は新しい家に良く顔を出していたけどな。俺は遊びに来てくれるって思ったけど、あれも監視の為だったんだろ?」 「監視なんて言うなよ。あの人、心配してるんだよ、あれでも」 「そんな話、誰が信じるんだよ」 吐き捨てるように言い、澄香は腕を組んだ拳を握った。 「大人になっても、澄香はどうしてる?ってよく聞いてくるんだから。まぁ、愛人問題がばれて世の中的には蔑まれてたけどさ、社長は澄香のお母さんを純粋に愛していたよ」 「……」 「結局、周防夫妻は別れたしな。子供も作らなかったし」 「え、じゃあ、跡継ぎは澄香さん?」 「なるわけないだろ!あっちも望んでないよ、そんな事」 蛍斗の疑問に、澄香はシートに預けていた体を起こして否定した。憤慨する澄香に、蛍斗もそれはそうかと頷きながらも、だが澄香を思えば、それはそれで腑に落ちない。 「…でも、他に子供いないんでしょ?」 「それでも俺に継がせる訳ないよ」 「うーん、まぁ、望まないだろうね」 続いた実紗の言葉に、澄香は「ほら!」と、再びシートに体を預けた。澄香からは、そんな話聞きたくもない、といった様子がひしひしと伝わってくる。それをバックミラー越しに見て、実紗は眉を下げた。 「社長は、澄香が大事だから継がせたくないんだよ」 「何だよそれ、矛盾してない?」 「矛盾してないよ、社長だって親なんだから」 澄香はその言葉には何も返さず、再び黙って窓の外に目をやった。 今の話を聞くだけでは、蛍斗も澄香に同感だった。親なら自分の子供に跡を継がせたいと思うものではないだろうか。 そう考えて、蛍斗の脳裏に仁の姿が過った。母親のようなミュージカル俳優への道は、会社経営とは違うし世襲がある訳でもない、だけど、成功者の子供も親と同じ道へ、といった期待は、どこの業界でもある事だ。 自分は選ばれなかった人間だ。皮肉な事に、選ばれたのは血の繋がりのない仁だった。それは、才能かもしれないし、単純に努力の差かもしれない。 でも、周防の家には、澄香しかいない。愛人の子供とはいえ、実の子だ。それでも継がせたくないというなら、それは澄香を愛していないという事だろうか。 そんな風に考えたくはないが、もしそうだったらと思うと、蛍斗は腹立たしくて仕方なかった。

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