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第35話 買い物(3) 神の愛

「は?」  レリエルが驚いた顔でアレスを見た。その顔がみるみる赤面する。 「さっきからなんの話をしてるんだ、お前は!?僕に恋人なんかいるわけないだろ!」  アレスはしどろもどろになる。 「あ、いやその!恋人じゃなくてもさ、ええとその、恋の意味で、好きなやつ、とかなんとか……」    レリエルはふてくされたようにふいっと前を見た。 「好きな人なんているわけないじゃないか、友達だっていないのに。恋人なんて考えたこともない!醜い矮小羽の僕が、恋なんて出来るわけないだろ!」 「友達も……いないのか?一人も?」  アレスは思わず聞き返す。想像以上にずっと、レリエルは孤独なのか。 「いないよ!別にいいんだ、僕は嫌われ者としてずっと一人で生きて来たから一人で平気だ。それに神様はこんな僕のことも、愛して下さっている。神様の愛のおかげで、僕は生きて来れた……」  神様、と口にした時、レリエルの瞳に今まで見たこともないような、愛おしげな色が浮かんだ。 「レリエルたちの、神?」 「ああ!とても美しい女性なんだ」  レリエルは果物袋をキュッと抱きしめ、夢見るようにうっとりと目を細める。そこには恋を超える絶対的な愛のようなものが感じられた。 「そういえば」  とレリエルが続けた。 「そういえば、人間たちの神も……悪くないな。人間にしては、だが。まさかあれほど活性化された|魂《セフィロト》を持つ人間がいるなんて思わなかった」 「なんの話だ!?」 「コウテイヘイカ」 「ああ、プリンケ陛下か。確かに強力なオーラ持ってるよな陛下は。トラエスト帝国の皇家は聖者ウルノアの末裔一族だからな。常人とは全然違う」  聖者ウルノアとは、天空神アントゥムを最高神とするアントゥム教の聖典に出てくる英雄の名だ。アントゥム教はトラエスト帝国領は勿論、カブリア王国のような周辺国を含めた広域で古代から信仰されている世界最大の宗教だ。  アレスは言葉を続けた。 「でも、陛下を神様とは言わないだろう。神様ってのは神様の世界にいて、聖堂や儀式で祈りを捧げると心の声に応えて願いを叶えてくれる感じの……」 「は?なんだそれ、祈って心の声?」  レリエルがおかしそうに笑った。 「おかしい、か……?」 「おかしいさ、そりゃ。お前は変なことを言うな」  クスクスと笑うレリエルを見てアレスは考える。天使の言う神とは一体、どういうものなのだろうと。 (もしかして……)  この機を逃してはならない気がした。後で聞き直して教えてくれるか分からない。  アレスは二本の指を唇に当て、魔力を込めた。黄緑色の光が唇の周りに一瞬生じてすぐに消えた。  さらにレリエルのほうにも指を伸ばす。 「失礼、ちょっと口を閉じていてくれ」 「ん?」  言われた通り口をつぐんだレリエルの唇にも、二本の指を当てて同じようにした。  風魔法で声を変質させ、盗み聞きを防止する魔法だ。術をかけられた者同士の会話を、一定期間、他の人間に聞き取れなくさせる。  アレスはレリアルに尋ねた。 「もしかして、神域……カブリア王国の領内に、天使の神様がいるのか?俺たちの皇帝陛下のように」 「それは、そうだ」  なぜそんな当たり前のことを聞くのか、といった風にレリエルはあっさりと肯定する。  やっぱり、とアレスは思う。天使の言う「神」とは天国のような届かない場所にいる超自然の存在ではない。  それは王のような現実の存在なのだ。  アレスは「天使の情報を引き出す」という任務が一歩進んだことを確信する。  (『神域』に、天使たちの『神』がいる。天使たちの女王が……!)  そこでレリエルは何かを言い淀んだ。 「でも、神様は今はまだ……」 「まだ?まだ、なんだ?」 「……」  レリエルは固い表情で押し黙ってしまった。要領がつかめないながらも、アレスは質問を変えた。 「とても美しい女性、なのか」  レリエルの表情がやわらいだ。うなずきながら、 「そうだ!天界にいた頃、一度だけお会いした。天使は生まれてから一度だけ神様に謁見できるんだ」 「ほう……」  レリエルの表情が晴れ晴れと華やぐ。 「あの時のことは忘れられない!僕はいつも他の天使たちに、『神はお前を愛していない、だからそんな醜い羽なんだ』って言われていた。だからその謁見の時に絶対に聞こうと思っていたことを聞いたんだ。『神様は僕を愛していますか?』と。そうしたら……」  そこでレリエルは言葉を切って、目尻に滲んだ涙をぬぐった。 「『もちろん愛しています、レリエル』そう言って下さったんだ!  僕は嬉しくて仕方なかったけど、まだ不安で、『でも僕は羽の小さい出来損ないだと皆が言います』と言った。  そうしたら神様は笑顔で、 『可哀相なレリエル、愛しいレリエル。羽が小さくても大きくても、神は全ての天使を平等に愛しています。悲しまないで、あなた自身をちゃんと愛して、可愛いレリエル。だって私が、神である私が、あなたを愛しているのですから。どうか忘れないで、私があなたを、深く深く愛していること』 そうおっしゃられたんだ!そして僕の手を取り、額に口付けをして下さった!」 「そうか……。うれしかったんだな」 「ああ!本当に美しく、優しく、温かかった。あの記憶だけを頼みに僕は、孤独に耐えて来れたんだ……」  レリエルは感極まった様子で目を瞑る。その脳内では今、謁見の時の様子が、美しい神の姿が、鮮やかに映し出されているのだろう。  神の愛を全身で語るようなその様子は、とても幸福そうだった。  だがその姿は、アレスの胸にちりちりとした痛みを与えた。  この少年は今までずっと、ただその思い出だけをよすがに生きてきたというのか……。  たった一つの言葉だけを命綱として支えられる幸福。  なんと細い、命綱だろう。なんと儚げな、幸福だろう。  レリエルの幸せそうな様子は、かえってその孤独を浮き彫りにさせて、悲しかった。

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