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第88話 ガブリエル来訪(2) 母なる
恨みがましい唸り声が、アレスの眠りを妨げた。
居間のソファで寝ていたアレスは、眉間にしわを寄せて目を瞬 いた。
暗い室内を、不気味な緑色の光が照らしていた。
アレスはかっと目を見開いて、ソファから飛び起きた。
『俺タチノ……作品ノ……仇イイイイ……』
居間の真ん中、ダイニングテーブルの下あたりに、緑色の転送円が出現していた。恨み言はそこから聞こえてくる。
光る円の淵に、青白い手がかけられた。羽根の生えた虚ろな目をした男が這い上がって来た。
『職人……ダマシイ……舐メンナアアアア……』
アレスは頬をひくつかせた。
「おいおい、自宅訪問かよ、しかも職人天使の死霊傀儡かよ、俺殺してねえのになんで死んでんだよ」
職人天使の死霊傀儡は、円から這い上がり、ダイニングテーブルを叩き割りながら目の前に仁王立ちした。
アレスは皇帝から授かったばかりの神剣を手にし、死霊傀儡に切っ先を向ける。
「てか今何時だと思ってんだ!?寝てたんだよこっちは!!……ん?」
ふと緑の円の中をのぞき、アレスの表情が固まった。
円の縁に、また別の青白い手がかけられたのだ。
いやよく目をこらすと、もっといた。一体や二体ではない。うじゃうじゃと円の中にひしめき、押し合い揉み合いながら、這い登ってくる。
ぞろぞろと這い出てくる死霊傀儡に、アレスはぶち切れた。
「何匹で来てんだよ、俺んち狭いんだよふざけんなああああっ!もういい、今からてめぇらで俺の新技の試し斬りすっからな、覚悟しろ!!」
※※※※
レリエルが寝室の扉とガブリエルを見比べているうちに、扉の向こうから戦闘音が聞こえ始めた。アレスが剣を振るう音、死霊傀儡が暴れる音。
部屋ごと崩壊しそうなとてつもない轟音が響いている。
ガブリエルはそれらを完全に無視して会話を続けた。
『さあ、返事を聞かせてください。天使の元に戻るつもりはありませんか』
居間の方からアレスの、「よっしゃ二体消滅う!」という景気の良い声が聞こえて来た。レリエルの加勢の必要はなさそうである。
気おされながらレリエルは、ガブリエルとの会話に引き戻された。
「僕が天使たちの元に戻る……?また天使たちの中で暮らす……?」
そんなこと考えたこともなかった。だからレリエルは今初めて、「天使社会に戻った自分」を想像してみた。
……ぞっとした。
絶対に戻りたくなんてなかった。
ガブリエルは、目をそらし強張ったレリエルの様子に首を傾げた。
『おや、ずいぶん顔が曇っていますね。そんなに天使が嫌いですか?』
「……」
『もしかして貴方は、人間と一緒に居たいのですか?なぜでしょう?』
「それは……!優しいんです……。アレスは僕を醜い出来損ないなんて言わない。汚いものみたいに見下したりしない」
『天使はそんなに貴方を見下していたでしょうか』
分かってるくせに、とレリエルはガブリエルを睨みつけた。なんて白々しいんだろう。レリエルは声を荒げた。
「ええ、そうです!でもアレスは違う!アレスは僕に……愛をくれるんだ……っ!僕は今、すごく幸せなんだ!」
『だから天使の元には戻りたくないんですね』
「ああ、嫌だ!絶対に戻るもんか!ここに、アレスのそばに居れば、僕は幸せでいられる!」
『そうですか。でも、人間と一緒にいても未来はありませんよね。彼らはもうすぐ滅びるのですから』
興奮していたレリエルが、冷水を浴びせられたように言葉に詰まる。握った拳を震わせた。
「さ、先のことまで考えていません……。僕はただ、今日生きるために目の前の敵と戦ってるだけでっ!」
『先?人間の滅びの時はもう目前ですが』
「じゃあ戻ったら天使は僕を許すんですか?そんなわけないって知ってます!殺されに戻るバカなんかいない!」
『確かに、あなたの行いは死刑に値します。……でももし、今戻れば許す、と言ったら?期限を設けましょうか、一分。今から一分以内に光速移動 で神域内に戻りなさい。そうしたらあなたを許します』
レリエルは迷いなく即答した。
「嫌だ!絶対に戻らないって言っただろ!僕はずっとアレスのそばにいる!」
ガブリエルは目をすがめた。その回答を予想していたかのように。
『なるほど、貴方が天使を恨む気持ちはよく分かりました。でも……』
そこでガブリエルは、ずいと顔をレリエルに近づけた。
『でも貴方は、母なる神まで裏切れますか?』
心臓を鷲掴みにされたような心地がした。レリエルの明らかな狼狽に、ガブリエルは非情な笑みを浮かべた。
『私たち天使のたった一人のお母様。全ての天使を産み、慈しむ、私たちの唯一無二の美しいお母様……神様。貴方は神すら恨んでいるのですか』
レリエルの脳裏に、何度も何度も反芻し続けた神の言葉が蘇る。
——可哀相なレリエル、愛しいレリエル。羽が小さくても大きくても、神は全ての天使を平等に愛しています。
——どうか忘れないで、私があなたを、深く深く愛していること。
「うっ、恨んでるわけない!神様は……、母様は……、こんな僕すら愛してくれて……!僕は母様の愛だけを支えにずっと生きてきて……!」
『あの男は人間を救うために動いているのでしょう』
「に、人間が人間を救いたいって思うのは当然です……」
『じゃあ、人間を救うためには、どうすればいいですか?』
「それは……」
喉がカラカラに乾いてきた。体が震え出す。
『よく考えれば分かることです。気づかないふりをしていたんでしょうか』
「や、やめて下さい……」
レリエルは泣きそうな顔で懇願する。
『人間を救うためには……』
「言わないで下さい!」
『あなたはお母様を殺すんですか?』
「お願いだ、やめて!!」
レリエルは耳を抑えて絶叫した。
ガブリエルは悪魔のように微笑んだ。
『いい声ですね。よくよくお考え下さい、レリエルさん』
ガブリエルの写し姿は、霧のように消えてなくなった。
レリエルは一人、己の身を抱えた。青ざめ、両腕で自分を抱き、震える。
「ああ、神様……!アレス……。僕はどうすればいいんだ……っ」
※※※
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