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第94話 神の再生
レリエルがミカエルに最高刑を言い渡される、その少し前。
天空の宮殿内、薄紅色の粘膜で覆われた異様なその部屋で、サタンとルシフェルは巨大な卵を見つめていた。二人とも明らかな高揚感に包まれていた。
「時が満ちたな」
ルシフェルが重々しく呟き、サタンが興奮を抑えきれない様子で言う。
「ああどれ程、この瞬間を待ちわびたことか!」
卵の中、長い髪の少女の影が、せわしなく動いていた。身を屈め、背を伸ばし、少女の影は中から卵の形を確かめるように殻をあちこち触る。
その様子はまるで「なぜ私はここに閉じ込められているの?」と、今初めて自分が閉じ込められていることに気づいたかのようであった。
どんどんと少女は中から卵の殻を叩いた。
何度か叩くとピシ、と小さな亀裂が入った。
亀裂にたじろいたのか、少女の動きが停止した。
だが一瞬後に、すごい勢いで少女は殻を叩きまくった。影絵でもその、髪を振り乱し必死な様子が見て取れた。
サタンは微笑みながら、卵の前に進み出た。
ぱらり、と最初の一欠片が剥がれ落ちる。
次の瞬間、蜘蛛の巣のように亀裂が卵の表面いっぱいに広がり、殻の壁がバラバラに崩れ落ちた。
裸体の少女が宙に投げ出される。
その背中には左右三枚づつ、六枚の羽が生えていた。あらゆる色を持つ羽、虹色の羽だった。
少女を、サタンは体で受け止めた。
「はっ……はっ……はっ……」
サタンに抱きとられた少女は、目を飛び出しそうな程見開き、その腕の中で荒い呼吸をした。
年の頃は人間で例えれば十代前半、十二、三に見えた。ほんのりした胸の膨らみ、華奢な体つき。大人の女性として成熟する、その直前の姿。
とてつもなく美しい少女だった。
真っ白な長い髪の毛に、ピンクダイヤのような桃色の瞳。その全身は今、卵殻内を満たしていた粘液で濡れそぼっている。
ルシフェルが感激にうち震えた様子で、その体に大きな布を掛け包み込む。
サタンは身を屈めると、少女の頭を手で支え、横抱きの形で上を向かせた。
少女はガクガク震えながら、その瞳を恐怖に揺らしている。
サタンはその瞳を愛おしげに覗き込み、その頬を優しく撫でた。
「神よ、お待ちしておりました。御身が成体となられるまで、私たちがお世話申しあげます」
サタンの甘い声音に、少女の恐怖が和らいだように見えた。戸惑った顔で、かすれ声を絞り出す。
「あ……う……」
少女は喉を抑え、顔をしかめる。サタンは優しく微笑み、
「喉を潤さねばなりませんね、神の果実ゼリアルで。……ルシフェル、鐘を!全てのセラフィムにこの慶事を知らせねば!」
「ああ、すぐに!」
ルシフェルは陶酔した様子のまま、意気揚々と立ち去る。
サタンはすくように濡れた髪に手指を絡ませ、うっとりと呟く。
「我が神、なんという美しさだ……」
きょろきょろと周囲を見回す神は、天井の光源に顔をしかめた。
「あ……ぃや……」
「光が眩しいですか?直に慣れましょう、恐れることはありません。私、サタンが、御身に全身全霊を捧げ、お守りいたします」
「さ……た……ん……?」
移ろっていた神の目線が、サタンを捉えて留まる。
「そう、あなたの一番近くに居る者です」
「さたん……」
神は瞬 ぎもせずサタンの瞳を見つめた。
サタンは神を左の腕に抱えたまま、右手を伸ばして傍にある壺の中から、赤黒い丸い実を取り出した。
それは実というよりは、水をいっぱい入れた薄い袋のようである。
サタンはその水袋のような実を上に掲げその下で口を開くと、実をくしゃりと潰した。
実が潰れ、透き通る血のような色の蜜が、ぬらぬらと光りながらサタンの口の中に滴り落ちた。
サタンは空 の実を放ると、神の顎を手で抑え、その小さな口を開かせた。
己の唇を、神の唇に覆い被せる。舌先で神の歯列を割り、どろりとした蜜を神の口内に差し入れた。
「……!」
神は驚いた顔をしたが、口の中に広がる甘い蜜の味にすぐに嬉しげに目を細める。
蜜は卵から生まれたばかりの神の精神に、安心感と幸福感をもたらした。
それはちょうど、赤子が母の乳に全てを満たされるのに似ていた。
神は貪るようにその蜜に……男の唇と舌に、吸い付き舐め上げるようになる。
男の唇や舌の感触、黒髪や長い睫毛は、やがて蜜による本能的な幸福感と溶け合いひとつになった。
その男の存在は、生まれたばかりの神の心の奥深い部分に、深く刻まれた。
※※※
三大天使の玉座の間は、鳴り響く鐘の音に騒然としていた。
兵士たちがざわめく。
「この鐘の音、そうかついに神が!」
「神が……!」
大天使は三人とも立ち上がっていた。
ミカエルがすっと人差し指を伸ばし、高々と掲げる。
その仕草で兵士たちのざわめきは一瞬で静まった。
ミカエルが高らかに宣言した。
「ここに天界開闢の第二段階、神の再生は成された!新たなる天界の開闢、次元上昇の時は近い!」
爆発するように兵士たちの歓声が上がった。
「おおおおおおおおおおお!」
「我らが神よおおおおおお!」
「神よおおおおおおお!」
レリエルは天井を見上げ、唇を食 んだ。
「再生なさった、神様……」
レリエルはそう囁いて、眼に涙を滲 ませる。
その涙の意味を、もはやレリエル本人すら理解できなかった。
かつて天界でレリエルに優しい言葉をかけ、額に口付けしてくれた、在りし日の神の美しい姿が目の裏に浮かんだ。
しかしその姿と同時に、アレスの顔も思い浮かべてしまった。
あの笑顔を。優しさを。
レリエルは苦しい胸を押さえた。
裏切ってしまった、と思う。
誰を?
——両方を。
※※※
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