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第2話

 道の先にあらわれたその家は、流れの中に浮かんでいるようにみえた。  せせらぎのそばで馬をとめると、エヴァリストの肩にとまった生き物がふるえた。爪がぎゅっと肩をつかみ、首筋になめらかな毛皮が押しつけられる。  エヴァリストはほほえみ、小声でささやいた。 「怖がるなっていうのも無駄だけど、僕についてくるならしがみついていいよ」  キュウン、と情けない声で生き物が鳴いた。リスのような尾を持ち、キツネのような耳をピンと立てている。肩の上で身じろぐたび、午後の日差しに照らされた胴体には淡い金色の縞がうかんでいるはずだ。エヴァリストが軽く撫でると体をふるわせて喜びをあらわす。  この世の生きとし生けるものすべてが魔力を持っているこの世界には、ときたま、生まれもった魔力の源泉がとてつもなく豊かな生き物があらわれる。  そんな生き物の中でも言葉と記号を操る人間は、この魔力をさまざまなやり方で世界に行使する。その方法は魔術と呼ばれ、使う者は往々にして魔術師と呼ばれる。一方で強力な魔力の源泉をもって生まれた動物――言葉をもたないものたち――は、この大陸では「精霊」と呼ばれていた。彼らは世界に満ちる魔力を喰い、魔力を喜びの源泉とするが、人間のように意図的に操ることはない。そしてみずからと同じように魔力の豊富な人間になつく。  しかし精霊たちには独特の性質がひとつある。流れる水が嫌いなのだ。だから彼らは川と川、流れと流れの間にとどまり、よほどのことでもないかぎり「動く水」を渡ることはない。しかし大陸に古くから住む部族たちはこの性質のために精霊を土地の守護として崇めていた。 「やれやれ。僕にずっとついてくるなら、動く水に慣れてもらわないと。行くならいまのうちだ」  精霊がなぜ「動く水」を恐れるのかは部族の古老も知らない。流れによって魔力の匂いが断たれることを恐れるのかとエヴァリストは想像するが、真相を確かめようと思ったことはなかった。魔術師も精霊も、魔力のあらわれには得意分野があるが、動物の姿をとる精霊はおそらく匂いに敏感だから、そう見当をつけただけだ。  アーベルならこの仮説が正しいかどうかすぐに調べはじめるに違いない。エヴァリストの以前の相棒は天才肌の回路魔術師で、探求心に富んだ発明家で、なんでも検証せずにはいられない男だった。だがエヴァリストはそんなふうに世界の仕組みを知りたいと思ったことはない。  アーベルよりはるかに強い魔力の源泉を備えたエヴァリストの眼に、地上はいつも明るくみえた。どこもかしこも魔力の渦に満ち、生命そのもののように輝きが明滅し、豊かさも快楽もこの地上にある。  ――だからどうなんだ、とエヴァリストはよく思うのだった。この世は楽しく、そして空っぽだった。  獣や精霊にはよくなつかれるから、旅の途中でたまに道連れにした。いま肩に乗る精霊はついこのまえ道端で拾った。まだ幼く、飢えていて、エヴァリストの魔力を喰うとすっかりなついてしまった。  流れを恐れて去るかと思ったが、ついてくる気でいるらしい。名前を与えたほうがいいかな、と考える。  動物の姿で魔力をむさぼる精霊たちを羨ましいと感じることがよくあった。彼らは言葉をもたず、人間のような時間に生きていないからだ。彼らにとって喜びは喜び、恐れは恐れで、生の一瞬一瞬が純粋にあらわれる。未来や空虚さについて考えることもない。 「僕だってそれほど考えてはいないけどね」  ひとりごちながらエヴァリストは馬を流れへ進める。  単独行動になって以来ひとり言が増えたのは自覚している。相棒がいなくなるとは話相手がいなくなることで、もともとおしゃべりなたちだから、そうなると言葉は精霊か自分相手に発せられるしかない。  流れはおだやかだった。大河の支流にあたるこの川はめったなことでは増水しない。めざす家は川の中州に自然にできた小島にある。木立に覆われた土地に建っている。木々に隠されて全貌がみえないせいで漁師が寝泊りする臨時の小屋のようにも見えるが、実際ははるかに大きくがっしりした造りだ。  高く組まれた床は要塞同様の構造で、いまエヴァリストが近づいているのも住人には丸見えだろう。これといって特徴のない建物のようで、じっくりみれば壁のあいだに銃眼が切ってあるはずだし、動く流れのなかにあるから精霊も恐れをなす。これは魔術師が訓練した精霊を偵察にはなつ場合を想定すると、必要な用心といえなくもない。水があるのにやっかいな虫がほとんど飛んでこないのは、流れが定期的に浚渫されているせいだ。  つまり牧歌的な見た目に反して、人の手がふんだんに入った環境だった。  ひとつの場所へ長くとどまったことのないエヴァリストには、こんなに慎重に家を建てて住むのは奇妙な行為に思える。エヴァリスト自身もときたま便利に使うための拠点ならいくつか持っていたが、用がなくなればかえりみない。  だが人間のほとんどは「家」が欲しいらしい。家を建て、家に住み、家を守るのだ。  自分もそれを望んだときがあったかどうか、エヴァリストには思い出せなかった。  馬がしぶきを飛ばしながら草の上にあがると、少し先で厩の扉がひらく音がする。  回路魔術は便利なものだ。勝手に馬をつないで餌をやると、肩に精霊をとまらせたままエヴァリストは身軽に梯子段をのぼった。出たところは大きな明るい部屋で、部屋に似つかわしい体格の男が顔をあげる。 「久しぶりだね、ジラール。元気そうだ」とエヴァリストはいう。  ジラールはうなずいただけだった。彼の無口には慣れているし、この家には何度か来たことがある。エヴァリストは上着を脱ぐと承諾も得ずに壁にかける。一カ所に落ちつかないかわり、他人のすみかが自分の居場所であるかのようにふるまうことにかけては年季が入っている。 「ニコラスの店で見かけられてるね」 「野暮用だ」 「へえ。仕事、再開したのかと思った」  肩の精霊がふんふんとあたりの匂いをかぎ、危険がないとわかると床に飛びおりた。あたりを探検に行ったのだろう。 「このまえ拾ったんだ。悪さはしない」  とエヴァリストがしゃべった端からガシャン、と音がした。ジラールが首をめぐらして音の方向を眺め、しなやかな動きで立ち上がる。 「飲み物なら何でもいいよ。水以外にあるなら」  ジラールは水差しとグラスを両手に戻ってきた。靴をはいていても物音をほとんど立てない。気配を殺してもいないから、音もなく大きな豹がしのびよるような雰囲気がある。エヴァリスト以上の長身で、厚みのある肉体だからなおさらそう感じるのだろう。ジラールの周囲はいつも静かだった。冷酷な稼業で生きてきたくせに感情の波立ちをほとんど感じない。  精霊魔術を使えるくらい魔力の多い人間は他人から放射される気分の波立ちに左右されがちで、子どもの頃のエヴァリストも例外ではなかった。その点ジラールはありがたい存在だ。  自分が魔術を使えるようになったきっかけは、気分の波をぶつけてくる周囲の人々のせいだとエヴァリストは自覚している。コントロールは独学で覚えた。師匠と呼べるような者が身近にいたことはない。 「カレンによるときみが仕事を受けないおかげで、下手なやつらが迷惑かけてるって?」  ジラールは何もいわないがエヴァリストは話しつづける。話しながら、部屋の探検から戻った精霊を抱きあげる。また肩にのぼろうとするのを腕の中におさめて、撫でてやる。 「小ボス同士で争ってるのは定例行事だから評議会的には放置の方向だけど、一般人に影響が出るとなると話は別だってさ。自警隊を結成すると息巻いてる輩もいるが、大手が金を出し合って傭兵隊を使う方向も考えてるみたいだな。知ってた?」  ジラールは水差しをテーブルに置く。 「聞いてはいる」 「それでも川のこっち側は平和なもんだよ。あちら側のきな臭さにくらべれば。抵抗組織(レジスタンス)がピンの傭兵をスカウトしている。知ってた?」  ジラールは肩をすくめただけだった。エヴァリストは勝手に水差しからグラスにそそぐ。 「きっと指導役だな。傭兵隊をやとうほどの資金はない。そういえばこれも町で聞いたけど…」  エヴァリストは話しつづけた。前の相棒とちがってジラールは彼のおしゃべりをとめないので、ここへ来るといつも話しすぎるきらいがあった。水差しに入っているのはただの水だが、妙に美味しいと感じることが多い。ジラールの横でしゃべるのが心地よいのとすこし似ていた。上質で、かつおかしな味がついていない。  エヴァリストが横でごちゃごちゃとしゃべっていても平然としているジラールは、精神に遮蔽でも築いているかのようだ。魔力はごくふつうなくせに。だから何度も彼のもとへ来るのかもしれない、とエヴァリストは思う。何度訪ねてきても彼と一度も体を重ねていないのも他の人間とちがうところだ。友人だろうがちょっと知り合った相手だろうが、体の関係をもつことにまったくためらいのないエヴァリストにとっては特異なことだった。セックスは相手を理解する手段のひとつにすぎないし、場合によっては支配する手段にもなる。おまけに生まれ持った魔力のおかげで、その気になれば相手の意思などほぼ無関係に誘惑できる。  その点ジラールは人間というよりも動物、精霊に似ていた。理解する必要もされる必要もない生き物だ。  とはいえジラールにしろ精霊にしろ、なつかれると嬉しい。  気に入らない人間を獣がどうやって排除するかはよく知っているから、なおさらだった。 「おまえはどうなんだ、最近」  ひと息ついたとき、唐突に聞かれる。 「僕? 暇だな。金儲けも飽きたし、おもしろそうな依頼もない。川向こうが物騒ならいっそ見物に行ってもいいかもしれないな」 「やめておけ」  その声はめずらしく鋭かった。 「なぜ?」  「悪い癖を出すな」 「おかしなことをいうな。僕の癖なんていつの間に知ったのさ。それに川向こうのことならそれなりに知ってるよ。砦の主も」  ジラールはこちらをしげしげとみつめた。何か口に出そうとしてやめたようにみえた。めずらしいな、とまたエヴァリストは思う。忠告などジラールらしくない。 「頼むからジラール、命を大切になんていうなよ。きみにいわれた日には笑いがとまらないってだけじゃない。誰でもいつか死ぬし、死んだらまた別の生き物になって、この世にあらわれるのさ」  エヴァリストは軽い口調でいう。内心の揺らぎは黙殺する。 「むかし北の古老から聞いたよ。彼の部族では死んだ者は天に昇ったりはしない。魂はすぐにべつの形のうつわに入って、べつの生き物として新しく生まれる。すべての生き物がそうなんだ。だから虫になったり、鳥になったり、魚になったりする。人間になることはめったにないし、一度人間になったらつぎの生までがとても遠くなる。これが虫に生まれ変わるとあっという間に死んでしまうから、生まれ変わりのサイクルも早い。僕らがこの形で生まれるまで、何回虫や魚として生きてきただろうね?」  ジラールはエヴァリストの言葉を消化するようにしばらく黙っていた。 「戯言だな」ぼそりという。「これからどこへ行く」 「しばらくはこの辺りにいる。いったろ、暇なんだ。酒場で賭けでもやってるさ」 「火遊びもたいがいにしろよ」  エヴァリストは思わず微笑んだ。 「きみのそんなところ、好きだよ」  ジラールは肩をすくめ、あきれたとも勝手にしろともわからない顔をした。やはり獣みたいな男だな、とエヴァリストは思う。ゼロか1かと問われれば1で、そこはぶれない。しかしその奥底に何があるとしても、表には出さない。  精霊がさっきからエヴァリストの指を噛もうとしていた。魔力をすこし分け与えると、すぐおだやかになって腕の中で丸くなる。  おそらく川向こうに関してだろう、ジラールが新しい情報を持っていることをエヴァリストは察したが、詳細を問いつめるつもりはなかった。不可能だからではない。自分の精霊魔術にはそれくらい、簡単なはずだ。  どちらかといえばジラールがここまでほのめかすことがおかしいのだ。だから彼の心に魔術で<侵入>などしない。  作用と反作用だ、と冗談めかしてエヴァリストは思う。  それともこれが友情というものかもしれない。  さんざんしゃべったあげくエヴァリストは帰った。  彼の声は高くも低くもなく、ジラールには心地よかった。顔立ちはこれといった審美眼をもたないジラールがみても押しつけがましいほどの美貌なのだが、声は好きな部類だとはっきりいえる。だから黙って話を聞いていられるのだ。  帰ったといっても、彼がどこへ行ったのかジラールは知らない。たぶん町で宿をとっているのだろうが、誰かの寝台にもぐりこんでいるかもしれない。ジラールとはちがう意味で顔が広いのだ。  住む家を持たないとは知り合ったころに聞いている。才覚があり、金も美貌もふんだんに持ち合わせているのだから、それこそあちこちに家の一軒や二軒持っていてもよさそうなものだが、エヴァリストの意識からは「家」なるものがきれいに抜け落ちているらしい。  それにしても妙な男だな、と思う。エヴァリストに会うたび思うことだが、具体的にどこが妙なのかと問われるとよくわからない。しいていえば、他の人間たちの誰にも似ていないところか。  妻が生きていたら彼をどう評しただろうか、とふと思った。  亡くなって何年たっても、彼女はジラールの価値判断の基準になっていた。とりあえず動物に好かれる部分は買っただろう。妻は生き物が好きだった。ジラールのことも飼い犬か餌付けした猫のように思っていたふしがあって、ジラールは喜んで飼いならされていた。  そういえば妻も昔、今日エヴァリストが熱弁した「生まれ変わり」のようなことをいっていた。すべての生き物が周期をめぐるというのだ。彼女も北の出身だった、と思い出す。  妻は小さくて強い人だった。  強いからといって長生きできるわけではない。  ともあれエヴァリストが砦の装備を売ったのは間違いなさそうだ。吉か凶かといえば凶のほうだろう。  しかし砦を守るために何を仕掛けたのか、詳細を本人に問いただしたところで、僕の商売だからと逃げられるのが関の山だ。依頼主に渡されるはずの図面や武器をもとに、慎重に準備する以外はなかった。  ジラールははしごをあがる。ひとり暮らしになってから階上は完全に仕事用の部屋だ。南に面した壁は仕切り棚に覆われ、小さな仕切りごとに地形図や地図がおさめられている。ひとつの仕切りから地図を取り出して反対側の壁に広げる。  これが最後だ。失敗するつもりはなかった。

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