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初恋は鮮血の飛沫をあげて散る

初恋は鮮血の飛沫をあげて散る 01  松枝桜蔵といえば、この学校では知らぬ人はいないくらいの美少年だった。漆黒の髪に、雪のように白い肌、鼻は小さくすっと通っていて、唇は血のように赤い。その美貌たるや、どんな人間の目をも抗い難く惹きつける魅力に満ちていた。  部活動は生物部に所属しており、いつも制服の上に白衣を着ている。一体どんな活動をしているのかもわからないこの部活動に、彼を目的に入部しようとする生徒が後を立たないほどだ。だが、肝心の桜蔵と言えば、ほとんど幽霊部員であった。桜蔵を取り巻く有象無象の男子生徒たちは、彼が生物室に立ち寄ると途端にざわめき、かと言って声をかけたり近寄ったりするわけでもない。桜蔵はどこか近寄り難い少年だった。己に気に入られようとご機嫌を窺う少年たちを、いつも冷めた目で見ていた。  今から一年前、桜蔵がこの男子校に入学してきたときは、大層話題になったものだった。圧倒的な美――少年たちの目には、性別を超越する桜蔵の麗しい容姿が眩く見えたのである。最初こそ、桜蔵に声をかける生徒はいたのだったが、桜蔵のほうに会話をする気がないのだとわかると、早々に桜蔵は孤高の存在となった。抜け駆けは許されない、桜蔵はみんなのものであるという暗黙の了承が、少年たちの間に浸透していった。  だが、そんな公然のお約束を守ろうという意思のない生徒がいるのも確かだった。たとえば、ここに一人の少年がいる。名前を遠坂静真という。彼は桜蔵の幼馴染で、小さい頃から桜蔵のことをずっと見つめ続けてきた。静真の桜蔵へ向ける思いは間違いなく恋情だった。この学校に入って、自分だけが桜蔵と近しい場所に立てる人間なのだと知ったときの喜びといったらなかった。他の生徒は桜蔵のことを「桜蔵」と呼び捨てにはしない。彼らは桜蔵の家も知らなければ、桜蔵の自室がどんなものかも知らない。桜蔵について、他の誰も知らないことを知っているという事実は、静真を満ち足りた優越感に浸らせた。しかし、静真はわかっていた。己が感ずることのできる霊感が、桜蔵と自分との間に水晶の壁があると、己にありありと突きつけていた。この目に見えるのに手が届かない。静真にとって、それは灼熱の炎で灼かれる痛みにも等しかった。だが、年齢を重ねる度に遠ざかっていく桜蔵が、己と共にいるときに限り、静真を「静真」と名前で呼ぶことが、この生き地獄の中で見ることのできる唯一の光だった。  静真の、桜蔵に抱く気持ちは純愛と言って差し支えなかった。近くにいるだけで心が満たされる。その目が自分を捉えるだけで、桜蔵の世界に自分は確かにいるのだと感じられる。無理に触れたいとも思わない。この恋が叶わないことを誰よりも知っている静真は、ならば自分は桜蔵のよき友であろうと思ったのである。気まぐれな桜蔵が誰かとの関わりを求めたときに、常にそばにいるのが自分であろうとしたのである。これに際して、桜蔵に自分の気持ちを知られるわけにはいかなかった。この恋慕が桜蔵に知れれば、桜蔵は今まで彼が見てきた数多の少年たちの欲にまみれた目と自分の目が同一であると、そう断じて自分を軽蔑するだろう。静真にはそれが恐ろしかった。  だが、静真が苦渋を呑んで耐え忍んできた十年を超える歳月の間に、一度も失敗をしなかったかといえば、それは静真本人にもわからない。この身を灼く業火が、その熱の一片が、桜蔵の感知するところだったとしてもおかしくはない。静真は、桜蔵の前では途端に臆病になる自分自身を自覚していた。それでも、虚勢を張って、親友であろうとした。  この静真の長きに渡る努力は、結果から言えば彼の考えるあるべき姿にはならなかった。桜蔵はとうの昔から知っていたのである。静真が、自分へ恋心を抱いていることを。そこに不純な思いがないとしても、そのことは桜蔵にとって軽蔑に値するものだったのである。 02  ハンドボール部の練習を終えた静真は、ユニフォームから制服に着替えると、グラウンドから校内へと向かった。今日は桜蔵が生物部の活動に顔を出しているという話は、瞬く間に少年たちの間に広がっていたのである。ハンドボール部内でも、桜蔵の姿を一目見ようと練習を抜け出す生徒が何人かいた。そんな彼らへ向けて静真は思うのだ。「馬鹿だなあ、そんなに躍起になって桜蔵の目に映ろうとするなんて。俺はこんな日には桜蔵の隣を歩いて家に帰るんだぜ」と。実際、桜蔵が部活動に顔を出した日には、帰路は静真と共にすることが多かった。桜蔵は何も言わずに帰ってしまうときもあれば、生物室で静真の迎えを待っていることもある。この、桜蔵が自分を待っているということに、静真はどうしようもない喜びをいつも抱くのだ。桜蔵の中で自分は友達の立ち位置にいられているのだと、桜蔵を遠くから見ている生徒たちへ向けて「ざまあみろ、俺は特別なんだ」と叫びたくなる。  今日は待っていてくれているだろうかと思いながら静真が生物室へ向かうと、扉や窓の前に生徒たちが群がっていた。ということは、桜蔵はまだこの部屋の中にいるということだ。静真は扉の前に立っていた生徒を押し退けて室内へ入り、呼びかけた。 「桜蔵、ごめん、待たせちゃって」  高鳴る鼓動に努めて気づかれないよう、平然を装って言った。窓の外を眺めていた桜蔵は緩慢に顔を静真のほうへ向けると、一言「遅えよ」とだけ言った。 「ごめんって。春の大会近いから、練習長いんだよ」 「あっそ。ハンドボール部のエース様は忙しいってか。まあ、どうでもいいけど」  桜蔵が椅子から立ち上がって白衣の上にリュックサックを背負った。 「帰ろう、桜蔵」  微笑んでそう言っても、桜蔵はなんの反応も示さなかった。  歩き出した桜蔵の隣に静真は立つ。少年たちの嫉妬の色に染まった視線を心地よく受ける。「お前たちじゃ、こうやって桜蔵の隣に立つことさえできない。俺は桜蔵の特別なんだ。それがどんなに栄誉なことか、お前たちにもわかっているんだろ。せいぜい指を咥えて見ていればいいんだ」……  長い廊下を並んで歩く。二人の距離は近い。この距離で歩くことを許されていることが、また静真を満足させた。この精神の張り詰めた美少年が、少し手を動かせば触れられる距離に自分を置いていることが何より嬉しかった。しかし、それでも触れられない。触れてしまえば最後、この均衡は崩れてしまうのだろうという確信めいた予感があった。絶対に肌を触れ合わせない、肉欲の対象として桜蔵を見ない。これは静真が己に定めた決まりだった。  下駄箱で靴を履き替えて、二人は学校を出た。まだ空は明るかった。歩く度に風に靡く桜蔵の髪の毛の艶やかなのが、静真を緊張させた。  静真がちらちらと桜蔵に目をやっても、桜蔵は静真のほうを見もしない。前を向いて歩いている。並んだ影の片方がゆらゆらと揺れる。昔からそうだった。桜蔵はどうにもまっすぐに歩けないらしい。桜蔵が身長の割に体重が軽いことを静真は知っている。細い身体が覚束ない足取りで前を進むのを見ると、つい手を差し伸べてやりたくなるが、桜蔵はそれを望まないだろうし、静真とてそうする勇気も意思もなかった。  クラスが違う二人が顔を合わせて隣を歩くことなんて、こんなときくらいだ。静真は桜蔵が普段どんなふうに教室で過ごしているのか知らない。見に行こうと毎日のように思うのだが、それをしてしまえば自分は他の少年たちと同じ立ち位置に成り下がるのだと思うとどうしてもできなかった。そして、更に言うなら、桜蔵にそれを聞くこともできないのだった。聞いたところで桜蔵がまともに答えるとは思えないのだ。これは幼馴染として長年桜蔵と付き合ってきて、静真が学んだ桜蔵の性格である。  黙りのまま、二人は歩く。何を話していいか、静真にはわからなかった。せっかく隣に桜蔵がいるのに、と思う気持ちと、隣にいてくれるだけでいい、と思う気持ちが両方あった。この、静真にとって恋の対象であり、また親友だと思っている相手に、近づきすぎればきっと離れていってしまうだろうという思いがあった。かと言って、仮にも親友という立ち位置にいながら会話の一つもないのは不自然ではないかと思う気持ちもあった。不自然というものは静真にとって最も避けなければならないものだった。自然に親友を演じられる自分でなければ、桜蔵は目敏く己の内にある恋心を見抜くだろうという確信があった。 「今日さ、数学の小テストがあったんだけど」  考えた末に思いついた話題は他愛もないもので、しかしこれが最適解であることを静真は信じた。 「俺、三点。笑えるだろ」 「別に。なんにもおもしろくねえよ」 「桜蔵は勉強、それなりにできるもんな」 「お前みたいな馬鹿とは一緒にされたくねえ」  桜蔵の態度はおよそ親友に対するものとは思えなかったが、これが桜蔵なのだと静真は知っている。桜蔵は会話が得意ではないのだ。昔から桜蔵が「あまり喋らない子」として周囲の大人に見られていたことを、そばにいた静真はちゃんと覚えていた。  俯きがちな桜蔵の頬に長い睫毛の影が差しているのが見えた。桜蔵の赤い唇がつやつやと光っているのも見えた。そこで、静真はふと思った。この唇は、未だに純潔のままでいるのだろうかと。自分の知らないうちに、他の誰か――男でも、女でも――に蹂躙され、穢されてはいないかと不安に駆られた。その不安は、静真の判断を誤らせた。 「ねえ、桜蔵。桜蔵って、キスしたことある?」  言ってしまってから、言うべきではなかったと後悔した。しかし、一度口にしたことはもう引っ込められない。桜蔵はそこでようやく静真へ目を向けた。 「あるって言ったら、お前、どうすんだよ」  桜蔵にキスの経験があるかないかよりも、静真には、自分がどうするかを問われたことのほうが余程問題だった。差し支えない答えを探して、静真は考える。 「桜蔵は大人だな。俺はまだないんだ」 「女子にモテるくせして、キスもしたことねえの? 案外純情なんだな、お前」 「俺は、本当に好きな人としかそういうことしたくないから」  そう言うと、桜蔵が立ち止まった。静真も歩くのをやめて桜蔵のほうを見る。 「もういい。そういうの、うぜえから」  唐突な桜蔵の言葉に、静真はぞっとした。桜蔵が自分を見る目に、軽蔑の色が込められているのを認めたからである。 「俺、知ってるよ。昔からずっとな」  やめろ、聞きたくない。そうは思えど、制止の声は上げられなかった。 「お前、俺のこと、好きなんだろ」  風が吹き抜けた。がらがらと瓦解していく「親友」という形の残骸を流していくように。 「そういうの、本当に気持ち悪いんだよ」  静真はその場に立ち竦んだ。手に汗が滲み、身体は今にも震え出しそうだった。 03  桜蔵の目は冷え切っていた。心底他人を馬鹿にする目をしていた。その瞳の中に自分を嘲り笑う影も見えて、静真は嫌な動悸を抑えようと胸に手を当てた。 「桜蔵のことは好きだよ。だって、俺たち幼馴染で友達なんだから」 「そういう意味じゃねえよ。わかってるんだろ。お前が俺を見る目、綺麗なだけに一層気持ち悪いんだよ。俺に対して自分が綺麗であれば、俺がお前から離れていかないとでも思ったのかよ」  桜蔵に対して邪な欲を抱かないこと。綺麗であること。そうすれば、桜蔵はずっと自分を隣に置いてくれると信じていた。それが「気持ち悪い」だなんて言われる日が来るとは思いもしなかった。 「俺は……別に、そんなつもりじゃ……」 「ふうん。じゃあ、試してみようぜ」  桜蔵はそう言うと、静真に一歩近づいた。元から近かった距離だ。目の前に桜蔵の顔がある。  桜蔵は静真の頬にそっと手を添えると、ゆっくり目を閉じた。近づいてくる顔を突っぱねられなかったのは、その唇の味を知りたかったから。これまで頑なに禁じてきた「桜蔵に触れない」という己のルールが、桜蔵から触れられたことで簡単に崩された。静真も目を閉じる。唇に柔らかい感触がして、全身の血が頭に上っていくのを感じた。  軽く合わせるだけにとどまらず、桜蔵はいたずらに静真の唇を舐めた。そうなると、もう歯止めがきかなかった。先にふっかけてきたのは桜蔵だから、と思い込ませて、静真は桜蔵の細い身体を掻き抱いた。腰を引き寄せ、頭を手で掴んで、貪るように桜蔵の口内へ舌をいれて、作法も技術もない欲だけが先走ったキスをした。桜蔵の舌はどこか甘くて、静真は夢中になって唾液を啜った。もつれる舌と舌が重なって、ざらざらとした粘膜の表面を擦り合わせる。いつまでもこうしていたい――熱に浮かされた頭の片隅で、自分は所詮純情を装っていただけの肉食獣だったのだなと思った。  濡れた音を立てて唇が離れると、二人は至近距離で見つめ合った。桜蔵の真っ白な頬に赤みがさしていて、思わずその頬に舌を這わせば、桜蔵がくつくつと笑った。 「ほら、やっぱりお前、俺とこういうことしたかったんだろ。変に親友気取られるより、素直に欲望剥き出しで来られたほうが、俺だってやりやすいぜ」  あからさまに静真を馬鹿にした声音で桜蔵が言ったのを聞いて、静真はもう取り返しがつかないことを自分はしてしまったのだと痛烈に感じた。しかし、心は充溢感に満ちていた。桜蔵と自分とを隔てていたあの水晶が、今初めて砕けたのだ。同時に、これが自分の密やかな恋の終わりであることも十分に理解していた。 「縋れよ。俺がほしいんだろ。じゃあ、俺に縋り付いてみせろよ。そうでなきゃ、俺はもう二度とお前を見ないぜ」  言われなくともそうするつもりだった。どれだけ嘲笑されても、軽蔑されても、静真には桜蔵から離れるという選択肢も、恋心を捨てるという覚悟もなかったのだ。 「俺が求めたら、桜蔵はどれだけ俺に桜蔵をくれるの」 「さあ。気が向いたら、身体でもくれてやるよ。でも、同じ気持ちだけはやれねえ。わかってんだろ? 俺は誰でも受け入れるけど、誰にも気持ちはくれてやれねえから」  あまりにも残酷な言葉だ。それでも、肉体だけでも手に入るのなら、と思う自分がいた。たとえ桜蔵の身体が自分だけのものじゃなかったとしても、この腕の中に閉じ込めている間だけは自分のものだ。 「なあ、初恋がこんな形で終わるのってどんな気分だ?」 「最悪の気分だよ。でも、俺は何度でも桜蔵に恋をするから」 「はは、本当、気持ち悪い」  静真は桜蔵を抱き締めた。拒絶はされなかった。気がつけば、涙が溢れていた。十数年に渡る恋心が冷えてひび割れ、血を流しているのだろうと思った。赤い血は純潔を穢し、肉欲へと姿を変えさせる。それがどれだけ不毛な行為であるとわかっていても、この血の流れ着く先は桜蔵だと決まっているのだ。 「桜蔵のファーストキスの相手って誰」 「さあな。誰でもいいだろ。お前には関係ねえよ」  静真は桜蔵を腕の中から解放する。桜蔵は何食わぬ顔をして歩き出した。慌てて隣に並ぶ。  終わった清廉な恋と、また新たに始まった不純な恋。どちらにせよ、自分が桜蔵のことを好きなことに変わりはない。 「ねえ、桜蔵」 「なんだよ」 「俺たち、これからもこうして一緒に帰ろうね」  静真がそう言うと、桜蔵はけらけらと笑った。 「考えとく」  そう言って、桜蔵はたんたんと軽いステップで静真の先を歩き始めた。  そういえば、今日の桜蔵は自分の名前を呼んでくれていないな、と思った。名前を呼ばないこと――それは静真が桜蔵にとって、有象無象の少年たちと同じ存在になってしまったことを意味していた。  こんな形の関係を望んでいたわけじゃないというこの胸の苦しみと、桜蔵を貪欲に求める劣情をこれから自分は抱えて生きていくのだろう。桜蔵が自分を「遠坂静真」という個人として見なくなったとしても、そばにいられるのならなんでもいい。 「遅えよ、早くしろよ」 「ごめん」  こうして隣を歩く権利が自分にだけあるのなら、それは自分が桜蔵の特別だということになるのではないか。その思いだけを誇りに、そして拠り所にして、静真は桜蔵のあとを追った。

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