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葉桜の下で

「佐奈、花見しねぇか?」  そんな言葉をかけられたのは、世にいうゴールデンウィーク真っ只中だった。ブラック企業の我が社においては、盆も正月も関係なかったけれど。 「え? お花見ですか? えーと……来年の?」  僕は戸惑って、聞き返す。林さんは、唇の端で微かに笑った。僕の好きな表情だった。 「まさか。今年だよ。花はもう散ったけど、葉桜も良いもんだぜ」 「はあ……」  忙しくて疲れてて、桜を見上げたこともなかった。ましてや、葉桜なんて。そう思ったけれど、ビジネスパートナーでありながらろくに雑談を交わす暇もなかった最近を思えば、良い機会だとも思った。 「近くの自然公園に行こう」 「いつですか?」 「今」 「今!?」 「ああ。ひと段落ついただろ? 早めに昼休み取ろうぜ。いい天気だ」  意志の強さを感じる切れ長の片目が、一瞬眇られた。それは、内緒でな、というサインなんだろう。そう分かっていながらも、頬が僅かに火照るのを意識する。いつからだろう。林さんの、そんな仕草が気になり始めたのは。 「仕方ありませんね。付き合いますよ。ふたり一緒なら、午後からの打ち合わせをしていたとか、言い訳が出来ますから」  僕は照れ隠しに、わざとお行儀の良い声を出す。林さんは、今度は少し歯を見せた。白い歯が光って、何だかちょっとセクシーだな、と思った。 「じゃ、庶務課に寄って、ブルーシート借りて行こうぜ」     *    *    *  お日様がポカポカと気持ちいい。時々、涼しい春の風が頭上のこずえを揺らして、サワサワと耳心地のいい音を立てる。僕と林さんは、大きな葉桜の下にブルーシートを敷いて、並んで寝転がっていた。スーツのジャケットは脱いで、それでも汗ばむほどの陽気に、ワイシャツの袖もまくりあげている。見上げる青葉は伸び伸びと生い茂り、生命の息吹が感じられて、確かに葉桜も良いなと思った。 「佐奈」 「何ですか?」 「好きな奴居るか?」 「……へっ?」  その余りにも意外な話題に、変な声が出てしまう。林さんは、少し含み笑った。 「そういう話、お前としたことなかったもんな」 「……林さんは?」 「俺が訊いたんだ。答えろよ」 「……居ます」  僕は。貴方が。なんでこんな、仕事にも女にもだらしのないひとを好きになっちゃったんだろう。しかも、男。男性を好きになったのなんか初めてで、この恋は絶対に叶わないだろうと、始まる前から諦めていた。五十センチ隣の林さんの表情をうかがうと、その顔は楽しそうに笑んでいる。 「言いましたよ。林さんは、どうなんですか?」 「居るな」  ガンッ。頭を殴られたような、物理的な衝撃に目まいがした。知りたい。知りたくない。両方がせめぎ合って、ほぼ無意識に口走る。 「庶務課? 秘書課?」 「総務だな」  ガガンッ。総務課には、男性しか居ない。林さん、そっちの趣味もあったのか! 「そうですか……」  僕はよく、分かりやすいって言われる。今回も、平静を装おうとして、失敗していた。震える声音を、林さんの明るい笑い声が上書きする。何がそんなに楽しいのだろう。 「佐奈」 「何ですか?」 「お前仕事出来るんだし、もっと自己肯定感あげた方が良いぞ」 「何のことですか?」  盗み見ていた横顔が、肘を枕にゴロリとこちらを向いて、心臓が口から飛び出そうになった。長めに伸ばされた茶色の前髪が、はしばみ色の瞳にふりかかって、状況も忘れて綺麗だなんて見惚れてしまう。 「俺の好きな奴。教えてやろうか」 「え」  知りたい。知りたくない。ことここに至っても、僕はそんな風に悩んでしまう。もしふたりが上手くいったら、毎日顔を合わせることになる同僚に、僕は優しくなれるだろうか。そんなことを考えていたら、ふと腕が伸びてきて、少しかさついた親指の腹が、僕の唇に触れた。 「予約」 「え?」 「ここ、予約しとくな」  そう言うと、左右にゆっくりと滑らせて、唇をなぞる。 「え……え?」 「俺はお前が、好きな奴が居るって言ったとき、俺のことだと思った。でもお前は、総務だって言っても、自分のことだとは思わなかった。もっと、自惚れろよ」  え……それって、つまり。また、目まいがする。お昼の自然公園には、日向ぼっこのお爺ちゃんや、小さな子どもを連れたお母さんなんかが結構居て、それ以上は訊けなかった。目を白黒させている僕の顔を見て、やっぱり林さんは楽しそうに笑う。こんな風に全開で笑う顔を見るのは初めてだった。――その時。昼休憩の終わりを告げるベルが細く聞こえた。 「ヤベッ」  途端に林さんは、いつもの林さんに戻った。スーツのジャケットを拾い上げ、僕を急かす。 「佐奈、起きろ。部長が見回りに来る」 「は、はいっ」  慌ただしくブルーシートを畳み、社屋へと急いだ。汗をかいて布地の張り付いたワイシャツの背中を追いかけながら、今のは夢だったのではないかと思い始める。それを見透かしたように、林さんが振り返った。 「佐奈」 「は、はい」 「予約。忘れるなよ」 「!」  片目が眇められて、俺は今更鼓動を速くする。夢じゃない……! その日の午後はミスしっぱなしで、具合が悪いのではないかと心配される度に、唇に林さんの親指の感触がよみがえって、目元をじんわり火照らせた。 End.

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