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第1話 帰国

(一) 横浜港で船を下りると、風は柔らかかった。三年の空白の間に日本は西洋国家に追いつこうとあがいていた駄々っ子から青年に成長していた。勝てば官軍、とはよく言ったもので第一次世界大戦以降その勢い止まる所を知らずといった風情であった。 以前のスローワルツのような、ゆったりのんびりとした雰囲気が好きだったのに、これではまるで上海ではないか。 タラップをゆっくりと降りながら帝国海軍中佐・一条幸岐(みゆき)は溜息をついた。 彼は三年余りに及ぶ上海公使館武官としての任務を終え、海軍総本部から帰国の命を受けて帰国したばかりであった。 波止場に下りると何時の間にか部下になっていた元上官や下士官が一列に並んで敬礼をして迎えていた。一応神妙な顔をして敬礼に応えはしたが内心はうんざりしていた。 海軍兵学校を主席で出た軍のエリートという道を選んだが肩章と袖口のラインの幅で人品まで差別されるこの仕組みを心底軽蔑してもいた。 「中佐殿!無事のご帰国なにより。」 「うむ。」 「お車があちらに。」 「いや、家の車で帰ります。」 向かった先には軍用車よりはるかに高価なパッカードが停めてあって、初老の男性が待っていた。 「坊ちゃま、無事のご帰国、祝着至極。」 「三枝(さえぐさ)。わざわざ迎えに来てくれなくても大丈夫だったのに。お母様はお変わりないか?」 「はい、それはもう。幸岐様のお帰りをお待ちでございます。」 流れるような優美さで後部座席に乗ると車は音も無く発進した。その様子を少佐達は苦々しい表情で見送った。 「侯爵家だからという理由であのような日本男児の風上にも置けないような軟弱者の下につかなければいけないというのも不合理だ。」 「仕方ないでしょう。そう言っても帝国大学から海軍兵学校を主席で出られた秀才の誉れ高い上に、皇族にも縁の深い嵯峨家ともつながりがある。正直敵には廻せないのだろう。」 勿論、一条には部下達がこんなことを話していることは百も承知だ。侯爵家の嫡男でありながらあえて海軍兵学校に進んだ時も、兵学校で鬼のような上官のしごきを受けていたときも、卒業して少尉として任官した時も、面と向かってそういったことを言うものもいたし、ちらほら聞こえることがあった。 (言いたい者は勝手にしていてくれ。私はただ自分の夢に忠実に、そして時代の流れに身を任せて生きているのだから。) 小さい頃に戦艦「しらさぎ」の進水式を見に父に手をひかれて行った時の鮮明な記憶。 朝陽を一杯に浴びた戦艦は英吉利式を取り入れた国産型で、その優美な姿そしてそれを愛しむように従事する海軍の水兵や士官の姿が余りにも格好良くて、大きくなったら絶対海軍に入ると決めていたのだった。 どのような家に生まれても、軍人になって名を上げることは男子なら一度は見る夢であったが、一条幸岐はその夢を現実のものとした。 父は貴族院議員、母は華族の出であることは彼の軍における出世を助けたことは事実であるが、それ以上に彼の任務に対する責任感の強さもあって人より早く階級を上がっていた。階級が上がれば上がるだけ彼は孤立を深め、それが一層彼を遠い存在に押しやっていた。 あれは、雪になりそうな朝のことであった。 「一条幸岐少佐。上海公使館付武官として任に当たることを命ずる。」 「はっ!」 「一条君、解っていると思うがわが大日本帝国は今欧米の列強と肩を並べんとする勢いだ。彼らに対して亜細亜圏における足固めのためにも支那を手に入れなければならない。そのための情報収集が君の主な任務だ。」 海洋法や国際法を帝国大学で専攻していた一条は軍の亜細亜政策には真っ向から異議があった。確かに、日露戦争においてと大日本帝国は奇跡とも言うべき勝利を収めたが、それは欧米の植民地から亜細亜諸国を解放する事であると一条は純粋に信じていたので、自分たちがそれに取って代わり亜細亜の支配者をなろうとしていることに失望していた。このままでは、亜細亜全体の反発を買うしいたずらに欧米を煽ってしまい逆効果だ。そして、いつか糸の切れた凧のように暴走するのでは、と不安にもなる。 だから、客船「マンダリン・ドリヰム」で上海に向かう時、一等客室の中で彼はこれから過ごす異国での暮らしをどのような方向に持っていくべきか策を練っていた。任務にはあくまでも忠実に、しかし命までささげるような真似は真っ平ごめんだ、と。 しかしながら、公使館の外交官達は一条幸岐がこれまで知っている軍人とはかなり異なる人種であった。 「サー・コマンダー・イチジョウ、いや、この自由都市上海では“サー・マルキース・イチジョウ”の方が通りが良いでしょう。堅苦しい使命感や愛国心などお忘れなさい。とにかく、楽しまないと。」 公使は男爵の称号を持っていたが、本人の語るところでは単に父親が維新でちょっと運が良かったからなどとうそぶいてやまないユニークな、当時の外交官にありがちなやや西洋かぶれの人物であった。 中国本土では辛亥革命後の軍閥政治による権力争いで不安定なはずなのに、租界のなかはまるで別世界であった。コスモポリタン、とはこういうものを指すのかというほどに多国籍・無国籍の風俗が行き交い、それに世紀末の残滓ともいえるようなデカダンがそこら中に匂って、いつも充たされない想いをかかえる一条にはうってつけの街であった。 ナイトクラブでのダンス、ちょっとの阿片とたくさんのゴシップ。母親譲りの美貌と出自のよさも手伝って、租界の社交界で一躍花形となり、それはまた彼の本来の使命である情報収集にも大いに役立った。 (支那はあのまま軍閥に任せていては、分裂して内戦になるかもしれない。) 第一次大戦の講和会議の公電に目を通しながら、いつもの通り公使と朝食を摂っていた。 「サー・マルキース・イチジョウ。帝国海軍は講和条約とおりに軍縮を受け入れるでしょうか?」 公使が葉巻をくゆらせながら思わせぶりに聞いてくる。外務省の極秘電をこうして見せているのだから軍の内情ももう少し話せということらしい。 「いや、まずムリでしょう。枢軸側はともかく、形だけでも戦勝国である大日本帝国だという誇りがあるでしょうからね。軍備を拡張しないと、亜細亜共栄圏を守れない、と参謀本部は本気で思っているようですよ。」 「おお、忘れていた。今日面白い支那人が尋ねてきますよ。私あてに来るそうですが、あいにく英国総領事と競馬場で賭けをする約束ですから、代わりにサー・イチジョウが迎えてください。」 「わたしが、ですか?それでしたら参事官が。」 「ノン。カウンシルよりも、アナタにとって役立つでしょう、きっと。」 なんだか腑に落ちないまま執務室で本などを読んでいると、書記官がドアの向こうから声をかけてきた。 「一条少佐。お客様です。」 それが何年何月何日であったか、どんな天気であったかは覚えていない。 公使の応接室のドアを空けると、窓の傍らに立って窓の外を眺める背の高い男がいた。長い支那服に、色眼鏡。肩まで伸びた黒髪をポマァドで撫で付けている。 「サ・コマンダー・イチジョウ。ニィハオマ?ワタシ、Fengトモウシマス。」 中国語独特のイントネーションのまま、日本語で挨拶してきた。 「君が、Feng・・・。」 その名前を聞いて、一条はすぐに言葉を継ぐことができなかった。 「風」という名前をもった中国人のスパイが上海を闊歩しているという噂は聞いていた。報酬さえつめば、イデオロギーもなく誰の下にでもつき、迅速かつ完璧な仕事をこなすという。 くくくっ、と噛み殺すような笑い声をするとすっと寄って来て手を差し出した。支那式の挨拶をするかと思ったが西洋式に握手か、と一条も手を差し出すとその手を取って膝まづき、恭しそうに口付けた。 「き、君は・・・!」 「オチカヅキノシルシ。」 「ふざけているのか?望みはなんだ?」 「マァ、焦ラナイデ。ふふっ・・・軍人サンナノニ、キサマッテイワナインダネ。」 実のところ、その後何の話をしたかもあまり覚えていない。Fengの唇が自分の手の甲に触れた時の衝撃と、色眼鏡の向こうに見えた瞳の黒さに飲み込まれてしまったかのようだ。 思えば、あれがプロローグだったのだろうか。 (ニ) 屋敷に戻ると、しばらくは本部にも出頭せず自室で過ごしていた。長旅の疲れもあったのだが、上海での三年間という荷を解くのに少し勇気が要ったのだった。 あの日、公使館の応接室で自分の手の甲にくちづけた男・Feng。それからも日を空けずに、まさに神出気没といった具合で目の前に姿を現した。 クラブでふと煙草を切らしているな、と背広のポケットに手をやった時にすっと横から大陸産ではない、欧羅巴のものを出して微笑んでいたり、ちょっとしたアバンチュールを楽しんで仏蘭西租界あたりから出てきたところの辻にいたり。 「Feng、キミは私を尾行ているのか?」 「仏蘭西租界から出てきたということは、お相手は軍医のご令嬢ですね。彼女は止した方が良い。」 「何でキミがそんなことに首を突っ込む?仏蘭西は同じ同盟国ではないか。」 「同盟とか、枢軸とかそんなつまらない仲間意識のことなんか言っていませんよ。そんな繋がりは国家の利益の前には脆いですからね。」 「さすがスパイだけあるな。じゃあ、エレーヌに惚れているのか?」 「彼女、コミンテルンに入っているんですよ。」 「・・・何だって!」 共産主義の動きは世界中に広がって、それはこの上海租界でも例外ではなかった。現に、公使館にいる武官としての任務には駐在する日本人に「アカ」がいないかとかそういう調査の依頼も来ていた。 「それよりも、私と飲みなおしませんか?」 「よかろう。犬と外国人の入らないような店にしてくれ。」 「侯爵様が絶対知らないようなところへお連れしましょう」 彼は皮肉っぽく笑った。 南京大路で車を降りて小路を入るとそこは一条にはまったく未知の世界であった。お世辞にも綺麗とは言えない、東京市下でもこんな雑然としたところは見たことが無い。病気も犯罪も全てが凝縮されているようなところであった。 「サー・マルキース・イチジョウはこんなところ見たことないんでしょう?」 「ああ。小さい頃は買い食いもさせてもらえなかったからな。」 「とびっきりうまい麺がありますから。大丈夫、ワタシ、ココ顔だから。」 そういって引きずりこまれた店は店中を煮しめたような色をしていた。上海に赴任するにあたっていろいろ予防接種はしていたが、いささか不安になってきた。 「大丈夫なのか、本当に?」 「ダイジョブ、ワタシツイテイル。」 もちろんこんな所では言葉もわからないのだから、Fengの言うことを聞かなければならない。白い麻のスーツが汚れるのではという心配よりも、犯罪にでも巻き込まれるのではないかという心配の方が勝っていた。 「サー・マルキース・イチジョウ、ソビエトは大変なことになるよ。」 「一条でいいよ。長ったらしくて、その呼び名は好きじゃない。侯爵の爵位だって、祖父の武勲だから、私はそのおこぼれに預かっているにすぎない。」 「珍しい人ネ。偉そうにしないし、私を差別しない。」 「君が中国人に生まれたことと君の能力は関係無いだろう?現に、スパイとしての活動はここ租界では誰もが知っているのだから。」 「あなたみたいに、ベッドで情報が取れないからね。動くしかない。」 「言ってくれるな。ところで、ソビエトはまた革命でもするのか・・・?」 Fengはそらきたという顔をして革命の興奮がまだ冷めやらないソビエトの話をはじめた。どうやら中国国内でも軍閥政治に対抗する一派として留学組を中心に共産主義勢力が台頭しているという。一条は進んで話しを引きだすタイプではないが、Fengはためらうことなくなんでも話す。 「いろいろ聞きだしてからこんな事を言うのは何だが、大丈夫なのか、そんなに話してしまって。」 「大丈夫。一条サンは、トクベツダカラ。」 「残念だが、私からは何も出てこないぞ。しかし、タダで話を聞くつもりもないが・・・報酬は何を望む?」 その時、Fengの瞳の奥が煌いた。 「報酬に、あなたが欲しい。」 黒檀のような輝きを持つ黒い瞳と自分の目が合うと戦慄にも似た妙な興奮が一条を包んだ。 そのまま手を取るように店を出ると待たせていた車に乗り込み、一条は自室としているオリエンタル・ホテルにFengを連れて行った。正式には公使公邸の一室を自室として使っているのだが、独りになりたい時や情報収集の点からもオリエンタル・ホテルをセカンドハウスとしている。 Fengを部屋に招き入れ、ドアを閉めるなり錠を下ろし、抱きすくめて唇を奪った。少し厚みのある唇を吸うと、Fengの閉じた長めの睫毛に恥じらいが浮かんだ。 「Feng、こんなに欲望を露にしてはスパイ失格だぞ。」 支那服の上からもわかるその膨らみを指でなぞるとFengはもう立っているのがやっとだった。 服を脱がせながら既に堅くなっている胸の赤い実に舌を這わせ、ぴちゃぴちゃと音をさせながらその先を舐めると最初はよがるような声をあげ、次第に咽喉を鳴らすような喘ぎ声に変わっていた。 「ああッ・・・ダメ・・・そんなに強く噛んでは。」 「Feng・・・君が望んでいるんだよ。ほら、君のこの部分が、そう言っている。」 「あっ・・・くはっ・・・そんなにしたら・・・。」 「何故恥じらう?君の望む報酬を快く払おうと言っているのに。」 確かに一条を誘ったのは自分のはずなのに、自分の思うとおりにことが運んだことの驚きと触れられることの歓喜が熱となってさっと体を駆け巡った。こんなことぐらいで熱くなっては稀代のスパイ・Fengらしくもないと思い起こしてはみるのだが、自分を折れそうなほどに抱きしめ柔らかい舌を絡めてくる男の美しさのペェスにすっかり呑みこまれていた。 「一条さん、お願いだから・・・焦らさないで。ハヤク・・・ハヤク、クダサイ。」 一条はこれまでに何度も女性と肌を合わせてきたが、ここまで欲望のタガが外れることは初めてだった。 白く滑らかな肌を楽しんでいると、Fengの脇腹にあるアザを見つけた。まるで龍のようだ。そこに唇を押し当て、吸うと少しくすぐったそうな声をあげた。頭の上でクロスさせた手首を自らの手で押さえつけ、外気の寒さで少し粟立つ肌を存分に味わう。 軍隊という女人禁制の閉ざされた世界で、まして明日は死を迎えるかもしれないという極限の中で友情が愛に変わる話は聞いたことがあるし、その気持ちもわからないではなかったが、日本でも上海でもアバンチュールの相手に困らない一条にとって何故得体の知れないスパイの青年を抱くことになったのかは自分でもわからなかった。 ただ、理由をつけるとすればあの瞳だ。まるで催眠術でもかけられたかのように身動きができなかった。抗えなかった。 「オネガイ・・・ハヤク、クダサイ。ああっ、もぅ・・・オネガイ。」 Fengの屹立する雄を掴み上下に揺さぶると自分から脚を開いてその先を促す。 「まだだ・・・君の身体がまだ遠慮しているようだから。」 「そんな・・・もぅ・・・コワレソウ。」 手首を縛っていた手を離し、そのままFengの身体の中心まで下りてくると、あますところなく晒している白い内腿に息をそっと吹きかけた。 「はあぁっ・・・ああっ・・・。」 息をかけただけでも背中を弓なりに反らせて悶えてしまう素直な身体。スパイとしての演技なのか本当に感じやすいのかはわからないが、たとえ演技にしても悪い気はしない。 「いやぁっ!ああっ・・・んっ・・・くっ・・・。」 内腿にそのまま唇を寄せ吸い、今度は歯形を残すほどに噛み付くと欲望の中心はひくひくと反応した。 「情報を受け取ったという印を、押さないと。」 そう言って腿のあちらこちらに吸い付いて跡を残すと感じている声はいつしかすすり泣く声に変わり、欲望からは蜜がたらたらとあふれた。 「ダメ・・・もぅ、イっちゃう・・・オネガイ、トメテ。」 「だめだ。存分に支払うと言っただろう?まだ足りないとはっきり言ってはどうだ?」 「キス・・・シテ。」 再び唇を合わせ、舌を深く差し込むと全て吸い尽くそうとするかのように強く絡みついてきた。咽喉を鳴らして、しっとりと汗をかいて、不夜城・上海の街の明かりをうっすら受けて壮絶なほど色気のある表情をしている。 「んっ!んあああっ・・・いっ・・・いきそぅ・・・。」 口づけたまま指を少しためらいがちに悦楽の入り口に入れると、これを待っていたのか感じる様子が前より強くはげしくなった。全身が鳥肌立ったように小刻みに震え、首に廻した腕の力がぐっと強められた。 「Feng、言えよ。何が欲しいのかって。」 「もぅ、ジラサナイデ・・・チョウダイ。一条サンノ・・・。」 涙をうっすら浮かべて哀願しているこの男が上海の裏を知り尽くしているということが信じられないほど従順で、租界のレディー達にもない色気が放たれていることを、Feng自身は気づいているのだろうか。 「さぁ、存分に受け取るがいい。」 子どもの頃に父親の書斎に入って、引出しの中にある鍵で秘密の書庫を開けた時のような興奮が背中を走った。 「息を吐いて・・・ゆっくり挿るから。」 もはや一条の睦言も耳に入らないようだ。腰を抱き込むようにして性急な結合を求めようとする。 「ああん・・・そぅ、これが・・・オネガイ、ハヤク突いて。」 「・・・急かすな。動くぞ。」 ゆっくり、しかし深く動き始めると自らも腰を動かすようにしてもっと快楽を貪ろうとする。 「Feng、オマエの、すごいぞ。・・・くっ・・・ダメだ、動くな。もぅ、持たなくなる。」 「一条サン・・・イチジョウ・・・サン・・・スゴイ、ネェ、モゥ・・・アアアアッ!アーッ!」 再び硬く勃ちあがったFeng自身が精を吐き出すのと、一条が果てるのはほぼ同時だった。 朝目を覚ますと、Fengは既に跡形もなく消えていた。 ベッドサイドテーブルのタバコに手をのばそうとすると、メモがはらりと落ちた。「謝謝」とだけ書かれたメモをくしゃりと握りつぶすと溜息と共に煙を吐き出し、軍服に着替えた。白い詰襟を身に纏うと昨夜の妖艶な姿から一転してストイックな表情に変化する。 夢だったのか、それとも・・・? たった一晩だったというのに、妙に昔のことのように感じられた。 (三) 海軍中佐・一条幸岐が総指令本部に姿を見せたのは帰国から一ヶ月ほど過ぎた朝だった。 「まずは任務完了、ご苦労であった。」 参謀長・松崎の執務室に入って帰国の報告をすると簡単な一言でねぎらわれた。 「上海で列強の動きはどうだったか?」 むろん、これは上海で一条が暗号電報を打電した報告以外の「裏情報」を聞きたいことを意味している。 「ベルサイユの協定を表面上守っているように見えますが、いずれも植民地での活動を数字に乗せていませんから、インドシナやバタビヤ辺りはかなりきな臭いようです。」 「そうか。軍閥はどうだ?統一されそうな気配はあるのか?」 「難しいでしょう。まず国土が広すぎる。現に、山間部や辺境部を拠点にしている者もおりますし・・・共産党勢力が。」 「うむ。」 「共産党」という言葉を出した時に部下の挙動に少しの変化があったことに松倉は気づく余裕は無かっただろう。 ロシア革命の二年後にモンゴルも共産主義に転換し、赤い波は中国国境を取り囲んでいた。 「マズイな。満州を死守しないといけない。」 陸・海・空の権力抗争と植民地拡大政策の行き詰まり、景気の停滞感などいろいろな問題が山積みになっているせいか、軍内部も戦勝当時の明るさが少し蔭ってきているようだった。 「一条中佐。本部参謀付を命ずる。情報収集の任に当たって欲しい。」 「はいっ!」 敬礼をして松崎の前を辞すると、車で府中の空軍演習場に行った。 府中はのどかなところであった。空軍の演習場の周囲には有糸鉄線が張り巡らされているが、戦闘機はそんなものは気にせず辺りの農家の上空を旋回している。 「幸岐!いつ帰ったんだ!」 応接室に腰かけて最近日本が外国向けに作っているピクトリアルのページを捲っていると航空服のままノックもせずに駆けこんできた背の高い男。子爵・嵯峨秀一大尉であった。一条の従兄弟にあたり、皇族の血に繋がる生まれだがどちらかと言えばバンカラな性格で一条とは正反対だったが、同じ年で共に華族院から帝国大学に進んだ無二の親友である。 「三週間前だが、船酔いをして療養していた。」 「とんだ海軍中佐だな。元気そうじゃないか。」 嵯峨は帝国大学で医学を学んだはずなのに好んでその後空軍士官学校に入った。優秀な青年であるのに階級が一条より低いのは少尉に昇進した時に上官を殴ったことがあって、当時空軍内で査問にかけると大騒ぎになったのを嵯峨家の後ろ盾の前に降格で済んだという経緯があるからだ。 「待ってろ。すぐに着替えて来るから。久々に沙婆で遊ぶぞ。」 車を走らせ、新橋まで戻った。 車の中では学友のことや、府中の飛行場のことなど取りとめもなく話していた。車窓から外を見ると、この辺りの風景は特に変わったとは思えない。一条が上海へ立つ前に既に戦争特需は始まっていたし、ただ富める者とそうでない者の差がこれまで以上にハッキリした気もする。 新橋の料亭「都島」へ行くと、二人ともくつろいで軍服の襟元を緩め、酒を頼んだ。 「あらぁ~、秀さん。」 手を叩くと嵯峨お気に入りの芸妓、月次郎がやってきた。華やかな顔立ちの売れっ子だ。 「まぁ、一条の坊ちゃままで!お帰りなさったんですね~。ご帰国の印にまずは一献。」 「月次、オマエは俺のご贔屓だろう?あーあ、幸岐が戻るまでに新橋の芸妓全部口説いておくんだった。」 「いいよ、俺は秀一みたいにマメじゃない。」 「上海ではどうだった?大陸の女は情が深いって本当か?」 「さぁな。情ってのは、かけないと返ってこないからな。」 まったく情が無かった訳ではない。一つだけ、どうしても忘れられない想いがある。一条が帰国以来、いやそれ以前からそのことを思い出すといつも以上に寡黙になってしまう。 しばらく芸妓を侍らせて飲み、内密の話があるからと月次郎たちを下がらせると軍内部の話題になった。 「陸軍が暴走しかかっているのは聞いているか?なんでも満州を掌中に収めたいらしい。」 「まずいな、それは。今動くと全アジアとその後ろの列強を敵に回すぞ。」 若い将校ならではの正義感と、上流階級にありがちな斜に構えたものの見方で正直な意見を交わしていた。 「話しは変わるがな。俺、縁談があるんだ。」 「本当か?で、相手は?」 「森川財閥の令嬢だとよ。いわゆる戦争成金なんだがな、まぁ俺にはちょうどいいだろう。」 子爵とはいえ皇族に列する嵯峨家は血筋の点では申し分無いが家計は船会社と貿易会社を持つ新興貴族である一条家とは比べ者にならないほどつましく、まして秀一は次男でかつ「庶子」であった。嵯峨家の嫡子は大蔵省の高級官吏であるが、嵯峨の父と向島の芸者の間に生まれ落ちた秀一はある意味「厄介者」であり、彼が敷かれたレールの上を歩こうとしないことの裏にはこう言った経緯が複雑に絡んでいる。 「森川家の資金援助が欲しいんだろう。あーあ、面白くねぇ。幸岐、これからも遊ぶぞ、俺は。な、遊んでくれよな。」 「まだその令嬢には会っていないのだろう?気に入るかもしれないじゃないか。」 「まさか。そんな成金の娘なんて、きっと田舎臭いに決まっているよ。」 「人は生まれや人種じゃないよ。俺は・・・そう思う。」 ぽつりと寂しげに声の調子を落したのが気になって、嵯峨はごろりと畳に横になると肘枕をした。 「姑娘にでも惚れたのか?」 「ああ。姑娘ではないがな・・・。」 盃の酒をぐいと飲み干して畳にごろりと大の字になった。 「連れて帰れば良かったじゃないか。」 「もう、いないんだ・・・死んでしまったんだ。俺は、助けることもできなかったよ。」 今思い起こしても、涙がでそうになる。 Fengは一線を超えた後もいつもと変わらず、いままでよりも熱心に一条のために働いた。列強諸国は戦後の復興に忙しく、彼らの情報は少なかったが軍閥の動向に付いてはかなり詳細に報告してくれた。 いつしか一条個人の書斎としているオリエンタルホテルの一室にFengがいるのが当たり前のようになっていた。 その身体を抱き、混ざり合う汗ととけあう身体に半ば中毒のようになっていて、このままでは危ない、間諜相手に本気になるとあとで痛い目を見ると知りながらつい求めてしまっていた。 半年前、帰国の辞令を受けたことをFengに告げると少し哀しそうな顔をしてそれを聞いていた。 「一条サン、私ニナニカクダサイ。私、形見ニスル。」 「形見なんて、俺は死ぬわけじゃないんだから・・・なにか要り用なものがあるのなら金は惜しまないぞ。」 「ソウジャナイ。一条サンノ使ッテイルモノ。」 「どれも中古ばかりだがな。そうだなぁ・・・これなんかは、どうだ?」 そう言って懐中から金鎖の時計を出した。蓋にMiyukiと彫りこみのある男物にしては小ぶりのものだ。 「ホントウデスカ?コレ、高イデショ?」 「いいよ。ただ、良く止まるから気を付けろよ。」 「謝謝。大事ニスルネ。」 「君の仕事には感謝している。軍として、表立った表彰も褒章も与えられないが。」 「コンナスゴイゴ褒美、勲章ヨリ価値ガアル。」 Fengは懐中時計をさも大事だと言うように指先で撫でた。その姿がいじらしくて、不吉なほどに切なくて、その腰を引き寄せ、深く口づけた。少し厚みのある唇をたっぷりと味わい、今にもこぼれそうになっている涙を優しく拭った。顎の黒子を指でつつくようにして、優しく微笑んだ。 「・・・え?」 Fengが聞き返したが、一条は自分が耳元に囁いた一言・・・「我愛你」はそれ以上は自らの胸にしまっておいた。もう一度口にしたら、本当に別れられなくなるから。 荷造りやら、残務整理だので追われてしばらくFengの顔を見なかった。十日後には今上海の軍港に停泊中の軍用艦に乗るという時、公使の執務室に呼び出された。 「公使。何か?」 「Fengは死んだよ。」 力の抜けるような衝撃が一条を襲った。 「死んだ、って・・・?」 「処刑されたんだよ。彼は二重スパイが露見して中国政府に処刑されたそうだ。もう一週間ぐらいなるだろうか・・・惜しいことをしたが、まぁ君の駐在中は役に立っただろう。」 「本当に彼なんですか?どんな顔で?幾つぐらいで?どうして、誰が彼を売ったんですか?」 「サー・コマンダー。珍しいですね、あなたがそんなにエモォシオナルになるなんて。これも人生、セ・ラ・ヴィですよ。」 公使に聞いてもわかる訳がない。中国政府内の動きは租界の外国人には把握しきれない。中国政府が自国民を処刑することに外国人はなすすべもないのだから。 (・・・形見ニスル。) 最後にFengと会った時の言葉。あれは、こうなることを予見していたのだったのか? それなら、どんなことがあっても自分が匿ったのに。 「すまない。悪いこと聞いちゃったな。」 「いいよ。素性のしれない中国人スパイと軍人じゃどうなるってもんでもないだろう?」 「なぁ、幸岐。空軍に来いよ。飛行機はいいぞ。高い空にスパーンと飛んだらウサも張れるって。」 話題を明るく変えようと嵯峨が唐突に空軍の話を始めた。 「いいよ。おれは海軍で。」 「先の大戦でも見ただろう?これからは航空戦の時代だ。風を感じて飛ぶ、最高だよ。」 「いいよ。海には・・・許してくれるおおらかさも、包んでくれる優しさもある。だから、俺は艦を降りない。」 「ふん、勝手にしろよ。」 (風を感じて、か。) 空を飛べばFeng(=風)に会えるのだろうか?一瞬そんな幻想が頭をよぎったがすぐにその考えを消し去った。 (ソンナ弱虫、ニッポンダンジデショ?) 今の自分をみたらきっとこう言うのかも知れない、とふとシニカルな笑みをこぼした。

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