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北國
誰もがキタグニを好いていたように、俺ももちろんキタグニの事が好きだった。
キタグニは、本当は北國と書いてキタクニと読むのだけど、なぜか誰もがクに濁点を付けて“キタグニ”と呼んでいた。キタグニ自身もそれに慣れてしまったようで、自己紹介の折にも、ごく自然に我が事を“キタグニ”と称していたように思う。その内、事実は習癖に乗っ取られるに違いない。
キリリと上がった眉と、眠そうに垂れ下がった目尻が実にキタグニめいていて、茫々とした、すべてを受け入れる野性的な包容力を湛えた面構えをしていた。
キタグニはいつも陽に灼けていて、とてもではないが“北國”などという苗字が似合う面ではなかった。どちらかと言えば、夏焼さん、夏所さん、などなど、姓名に“夏”という確固たる夏力が示されていないところが不思議で、そこだけがキタグニ、ひいてはこの世のほころびのように感じることもしばしばだ。
キタグニは冬であっても陽に灼けた褐色の肌をしていたし、髪も塩素に灼けて色あせていた。それこそがキタグニをキタグニたらしめる要因だったのだと思う。
どこまでもキタグニは苗字と反比例するように、夏であり続けた。
それを証明するかのように、キタグニはいつも夏の匂いをさせていた。それは陽に向かう宿命を背負った向日葵のような匂いでもあったし、野焼きの匂いのようでもあった。
夏休みともあらば、本領発揮と言わんばかりにプールの監視員のアルバイトを日がな一日勤めていたし、そんな日にはいつも塩素の匂いを一層濃くさせていたような気がする。
なぜキタグニが皆に好かれていたのか。まるで誘蛾灯のごとく我々を吸引し、素知らぬ顔で牽引し続ける彼のどこに惹かれたのかと問われれば、俺は答えに窮する。それは、キタグニが“キタグニであったから“としか言いようがないのだ。キタグニはいつもキタグニを体現し続けていたし、もはや“キタグニ”という名の響きこそが、この世の夏の形容詞となっていたのだ。
それほどまでにキタグニは鮮烈で、魅力的で、中心だった。
しかし、そんな我々のキタグニを渇望し続ける気持ちを放っておいて、キタグニはいつも水面下で悩んでいたのだと思う。ぼーっと夏の土手に座り、遠い目をしていた。赤い空を裂く鳶をどんよりとした瞳で眺めていた。
我々は確かにキタグニを無条件に飽くことなく、一点の曇りもなく好いていた。教室の一角でキタグニを囲んでわいわい談笑をしていた。しかし、キタグニが“キタグニ”であり続ける以上、キタグニは我々各々の“一番親しい者”にはなり得なかったのだ。
キタグニはあまりにも中心すぎた。取り囲む輪の中心にキタグニはぽつねんと鎮座し、その周囲を我々は道化のように果てなく廻り続けた。
キタグニは皆のものであり、“唯一のともだち”には決してなり得なかった。“キタグニ”とは、そういうものだった。
おもえば、どこまでも衆望を一身に浴び続けるキタグニは、きっと誰かの“一番で唯一のともだち”になりたかったのだと思う。
そしてキタグニは、同じように自分の“一番”を捧げる相手を探していた。
それは高校生特有の、曖昧で不安定で行き場の無い内情の顕現だ。夏は十代をおかしくさせる。
いつだったか、キタグニと二人で帰宅したことがある。雨の降る初夏に昇降口で偶さか一緒になり、一緒に帰るかと問われ、こめかみを伝う汗をぬぐいながら頷いた。くさい雨に蒸され、汗がワイシャツに張り付いていた。
キタグニは実にキタグニらしくぼんやり歩きだし、俺も諾々とそれに続いた。傘を差しているので隣には並べず、半歩後ろで俯いて、キタグニの泥一つ付いていないスニーカーを見つめ続けながら歩いた。
数分も歩けばすっかり雨は止み、キタグニの凱旋を祝福するかのように雲の切れ間から太陽が降り注いだ。このままプールにでも行きたい気分で、鼻の奥に塩素の香りを再現させて楽しんでいた。それはキタグニの匂いとも言えるのだが、なぜか目の前のキタグニより、記憶の中にあり続けるキタグニの匂いを探っていた。
傘は閉じたのだけれど、なんとなくそのままキタグニの家来にでもなった気分で、彼の後ろ姿を追い続ける。心臓がどくどく言っているのが聞こえて、ワイシャツの胸元をぎゅっと握った。
キタグニは俺に何も告げず、コンビニに寄ってアイスを買い、それを食べながら歩いた。道すがらにあったスーパーにも寄り道し、またアイスを買ってそれを食べ、完食するとまた近くのコンビニに滑り込むように入店して、アイスを買った。
キタグニは家に着くまでの間、都合三つのアイスを食べたのだ。
まるで沙漠を旅する放浪者のように、キタグニと、雨上がりの湿ったアスファルトを進む。夏の鋭い陽光を反射し、薄い水を張ったアスファルトが魚の腹のように煌めいていた。
きっとこのままの気分だと、キタグニが徒歩で世界一周を敢行しようとも、黙って付き従ったのではないだろうか。従者のごとく、家来のごとく。
「いつまで着いてくるの」
相変わらずぼんやりした口調で問われ、きょろきょろと辺りを見回す。見知らぬ住宅街だ。田畑など存在しないのに、野焼きの匂いがする。キタグニの匂いだ。
俺は我が帰路のことなどすっかり忘れ、なんとキタグニ邸まで着いてきてしまったのだ。これは失敗したなと頭を掻きながら踵を返そうとすると、キタグニに呼び止められた。自分の名前を呼びかけられたはずなのに、キタグニがどういったイントネーションで、声音で、抑揚で名を呼んだのか、少しも聞き取れなかった。
「泊まってく?」
顎をしゃくり、邸を示す。飛び上がりそうになりながら心臓を落ち着け、俺は何度もうなずいた。
特別だ、少し、特別な感じがした。
キタグニからの期待を感じる。キタグニは唯一無二、ただ一人だけの親友が欲しいのだ。互いが互いだけを無二とし、他者の入り込めぬ二人だけの世界だけで生き、愛でたいのだ。毎日たくさんの人間に囲まれているキタグニならではの欲求なのだろう。しかし残念ながら、俺はその期待に応えることはできない。
俺がキタグニに感じている好意は、同級生たちの好意とはまるっきり違っていた。俺は明らかにキタグニに恋愛感情を持っていたのだと思う。なぜそうなったのか、やっぱり俺の名を呼ぶキタグニのイントネーションと同じくらいに分からないのだけれど、とにかくキタグニという存在を、こころの奥底まで受け入れたかった。それはたぶん、すきってことなのだと思う。
そんな気持ちを押し殺しながら、俺は大人しくキタグニの家へ泊めてもらうことになった。別に泊まらずとも、数十分も歩けば我が家には帰れるのだが、言わなかった。言えなかった。
キタグニはきっと、俺にそんな事を言わせない。キタグニは今、静かに高揚している。
男子高生の食欲たるや、すさまじいものがある。夕飯にコロッケをたらふく食べたのに、夜半には腹の虫が騒いだのだ。キタグニは二つ並べた布団からのそのそ這い出て、階段を下りて行ってしまった。キタグニが去ったキタグニの部屋は、相変わらずキタグニの匂いに支配されていて、残された俺はやり場のない緊張に、布団の端をぎゅっと握る。のたうち回り、充満する、キタグニの生きている空気に溺れた。
やがてキタグニは、既に湯の入ったカップラーメンを持ってきて、無言で俺の枕元に置いた。ぺこりと礼をし、三分間の気だるい時間が過ぎるのを待った。キタグニは二分も経たぬ内に食べ始めていたのだが、きっといつもこうなのだろうと推測した。キタグニは即席ラーメンの時間すら待てぬ。のんびりしているようで、キタグニはキタグニだけの時間を有している。それは我々よりももっと早い。キタグニは待てない男だ。
普遍的な日常を数日過ごしたそののち、唐突にキタグニは死んだ。早朝のジョギング中、散歩をしている犬に見惚れているうちに軽乗用車に跳ねられ、あっという間に死んでしまった。キタグニ時間は早い。我々よりもずっと早い。流星のように、キタグニは消えてしまった。
キタグニが消えた世界はキタグニを求め、飢え、しかし次第にキタグニは風化していった。こんなことにも“キタグニ時間”は適用されるのかと、俺は妙に感心し、次いで寂寥を深めた。
キタグニは目にもとまらぬスピードで青春を駆け抜け、軌跡すら遥か遠く、夏の向こう側へ行ってしまった。
俺はと言えば、相変わらずひとりで輪に残り続け、からっぽな心を持て余したまま、キタグニの幻影を追い求め続けた。
それから二年が過ぎた。高校を卒業し、そのまま就職した俺はある夏の日、駅へ向かう帰宅中にキタグニを見た。ぎょっとした。幽霊だと思った。
キタグニらしきキタグニはラッシュをものともせず、いつかの寄り道のようにするりと電車へ飛び乗ってしまった。
きっと疲れていたのだ。そこまでキタグニを追い求めていたのかと自分に呆れ、時間が止まったままの己に落胆した。
その後も、またキタグニの幻影を見た。たとえばそこらの月極め駐車場の隅っこに、たとえば自転車に乗って十字路を流星のように駆け抜け、たとえばコンビニで立ち読みをしていたり。キタグニは死者らしからぬ輝きに溢れ、生者である俺以上の生気に満ち満ちていた。
幽霊、なのだろうか。確かに葬儀には参列したので、そうなるのだろう。しかしキタグニはまるで生きているようだった。そこかしこで縦横無尽に生の軌跡を描いていた。
最初は、それはそれは戸惑った。俺は自分がおかしくなったのかと思い、メンタルクリニックにも通った。
しかし、ある時からふと、まあキタグニだからそういう事もあるのだろうと、神出鬼没にキタグニ時間で夏を生き続ける彼を受け入れ、納得した。
捕まえたくて、どこに行くんだって引き止めたくて、彼を走って追いかけても、車で追跡しても、夏の香りがする木陰で、三叉路で、バス停で待ち伏せしても、一向にキタグニに追いつくことはできなかった。
夏の蜃気楼のように、逃げ水のように。キタグニは夏濃度の高い男だったから、夏そのもののように俺を翻弄し続けた。
土手の向かいの堤防で佇むキタグニを見付けたこともあった。盂蘭盆のもったりとした重い空気を、白いかかとでかき混ぜていた。慌てて川をざぶざぶと渡って追いかけたが、岸に着いた時にはキタグニはどこにもいなかった。ただ野焼きと夏の塩素の匂いを残して、俺をあざ笑うかのように消え去った。
ある日は、バスに乗り込むキタグニを見付け、慌てて同じバスに乗ったが、やはりキタグニは見つけられなかった。
喉が枯れるほどキタグニの名を呼んだ。キーターグーニーとうわごとを呟きながらゾンビのように街を徘徊した。
しかしキタグニには追いつけない。俺は躍起になって何度も何度も追うが、いつもキタグニは野焼きの匂いを遺して消えた。
キタグニを追跡し始めて一月が経ち、晩夏を迎えた。
駅近くの寂れた商店街に美味いコロッケ屋があって、そこで夕飯の惣菜を買っていると、キタグニの母に出会った。思わず声をかけると、ありがたいことにキタグニ母は一度しか会わなかったはずの俺を覚えていたらしく、まあまあまあとたいそう嬉しがった。悲壮感はあまり感じられなかったが、少しくたびれた感じがした。サマーカーディガンに、ぽつぽつと毛玉が浮き上がっていたのを見止め、目を逸らした。彼女の哀しみは、恋心を抱いたまま夏に遊ぶ僕なんぞが見抜いていいものではないのだ。
暫くキタグニについての思い出話に花を咲かせていると、キタグニ母は秘密を打ち明けるように、そっと俺に耳打ちをした。
「変な事を言うようだけれど、最近、息子によく似た人を見かけるの。自転車に乗っていたり、散歩をしていたり、ジョギングをしていたり、アイスを食べていたり。本当によく似ているの。おかしなことを言うようだけれど、あれは息子の影なんじゃないかしら」
キタグニ母は困ったように方頬に手を添え、苦笑する。心当たりのある俺は、真摯にうなずく。
「ずっと悲しい気持ちばかりだったけどね、自由に散歩をする息子、――――たぶん息子、を見かける度にね、楽しそうならそれでもいいかなって。不思議な話よね。ずっと暗い食卓で、あの子の好きだった夕飯を準備して泣いていたけれど、今はそこまで悲しくないわ。あの子は自転車でふらふら旅をするのが好きだったから、きっと今もそんな事をしているんでしょうね」
そうですよ、そのとおりです、なんて言えるわけもなく、ただシャツの胸元を握る。
「だから今はあの子が好きだったコロッケも、私の分とお父さんの分しか買わないの。きっとあの子は、どこかでふらふらと楽しんでいるでしょうから」
変な事を言ってごめんなさい、とキタグニ母は頭を下げて帰って行った。
キタグニは肉が好きなくせに、メンチカツは嫌いだった。キタグニは、トウモロコシが入ったコロッケが好きだった。
俺はキタグニ母の後ろ姿を見つめながら、涙を拭った。
キタグニが死んでから初めて流す、夏色を映す涙だった。
その後も、何度もキタグニの姿を見付けた。やっぱり本能に従って彼を追いかけ続けたけれど、いつだってキタグニは俺の存在に気が付いてはくれなかった。何度呼んでも応えてくれない。立ち止まってもくれない。
鉄橋の上で、キタグニを見付けた。自転車に跨り、何かを探しているようだった。手を瞼の上に水平に置き、きょろきょろと何かを探していた。キタグニもキタグニで、何かを追いかけているのだ。そしてそれが何なのか、俺は理解した。
キタグニは、死してなお、自分の“一番”を捧げる人物を探しているのだ。
そして、その想いと等しく、自分を一番に想ってくれる人を探し続けているのだ。かつてのように。かつて追い求めていたように。
「キタグニーー!」
身を丸めるようにしながら大声で名を呼ぶ。俺がいるじゃないか、ずっと俺がいたじゃないか。
俺は自分の想いをキタグニに知らしめるように、大声で何度も何度も彼の名を呼んだ。
キタグニはため息を吐くような仕草を見せた後、颯爽と自転車を漕ぎはじめる。またダメか、また届かなかったかと落胆する俺を労うように、キタグニはこちらを見ないまま手を振った。
ぐずぐずした夏が終わり、秋を迎えたころにパタリとキタグニの姿を見なくなった。
欲しいものに追いつけたのかと思ったが、それでも俺はキタグニを探しに街へ繰り出し続けた。
野焼きの匂いを嗅げばふらふらと立ち寄り、北風が吹けばそちらへ向かった。もしかしてと思い、一度は北国へ旅行を兼ねたキタグニ探しの旅もした。それでもやはり、キタグニは見つからなかった。
それでも良い。それでも良かった。
キタグニは、キタグニ時間を有している。我々よりずっと早いスピードで駆けている。
きっとその内、またふらりと帰ってくるのだろう。そんな気がした。予感が的中することも、なんとなく分かっていた。
キタグニはキタグニ時間に則り、夏のすこしまえ、野焼きの香りがする春には戻ってくるのではないだろうか。
なんといっても、即席ラーメンの三分すら待てぬ彼のことだから。
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