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中野は「帰ります」と言った。雨はまだ降っていたがとにかく帰ると繰り返し、その剣幕からこいつも混乱しているのだろうと伝わったので引き留めることはしなかった。気休め程度にドライヤーを当ててみたものの、まだ濡れているシャツに袖を通した中野は、玄関先で突然俺を振りかえる。 「深瀬さん」 「あ?」 「なんで付き合ってくれたんですか? 男に触られるなんて気持ち悪かったでしょ?」 俺は溜息をついた。最中ずっと言いたそうにしながらこらえ、イった瞬間まちがえて飛び出してしまったあの言葉を掘り返されるのではないかと思っていたゆえの安堵だった。気が緩み、ごく自然に真実を語ってしまった。 「別になんともねえよ。中学んときに、友達としてたこともあるし」 「え!?」 「いや、俺はちがう、俺はちがうぞ!?」 「え、はい」 誰にも吐露したことのない話だ。あの友人はもう苗字さえ思い出せない。今どこで何をしているのかも知らない。恋人でもなければ、片思いの恋心さえ伴わなかったからだ。 「なんかあのくらいの時期って興味あることとないことの差がはっきりしてるだろ。興味あることはどうやってでも試してみたいっていうか」 「……なんだ、じゃあ俺がはじめてじゃないんですね」 「いやはじめてだよ、いい年してこんなことしたのはお前がはじめてだ」 曖昧になっている記憶をあえて掘り返したのは、今日の行為からあの頃の閉塞感を思い出したから、というのがひとつ。 もうひとつは、過去の自分には「そういう人」「そういう行為」への偏見などなかったのだと思い出したからだ。その昔当然だったのに、今は忘れている感覚というのが、きっとたくさんあるのだろう。昔はもっと自分の食指が動くままに、なんでも食べて取り入れていた。いつからか俺は、仕事にも生活にも性欲にも、無意味に擦れた目を向けるようになっているのだ。 「お前がはじめて、ですか。なんだかぐっときますね」 「お前さてはろくな性癖じゃねえな」 「ちなみに後ろのご経験は?」 「は?」 しかし中野は俺の心中を知らない。この告白は中野の負担をやわらげるため提示したものだというのに、にやけながら追及してくる。 「ねぇよ! だから言ってんだろ! 俺はそうじゃねぇんだよ!」 「あー、よかったです」 そしてほんとうに、しあわせそうな顔をしたのだ。 家族や恋人の幸福に立ち会ったかのような表情だった。俺は家族でも恋人でもないのに。 「……よかったってなんだよ、どういう意味だよ」 「おじゃましましたぁ」 「おい!」 中野がドアを開けると、家の前にある外灯がちょうど差し込んで目を白く焼いた。自分は平気で踏みこんでくるくせに、俺の言葉はさらりと交わす。最後に振り返った顔はむかつくくらい爽やかだった。 「じゃ、また明日会社で」 男同士の先輩後輩は、家族や恋人に願ってもなれない。しかし中野の常識内ではもしかしたら、なれないこともない、のかもしれない。 翌朝、出勤前に道すがらのカフェに立ち寄りサンドイッチをテイクアウトした。早い時間だったので広いオフィスにはまだぱらぱらとしか人がいなかったが、予想通り中野はすでに、いた。勤勉なあいつが俺に気づいた瞬間、サンドイッチを放り投げた。 「おはようござい……なんですかこれ」 「……お前の朝メシ」 「え、俺ネカフェの朝食サービス食べてきちゃいました」 「じゃあ昼メシにでも食えばいーだろ、とりあえず受けとれ」 がさがさと音が聞こえる。きっと中身を確認しているのだろう。俺はチェアに腰掛け、パソコンを起動した。制作準備をしているふりをすれば、照れくささから逃れられる。 「……冷静になったら申し訳ないことしたなーと思って……」 「え、なんでですか?」 「……俺の都合で勝手についてこさせたのに、結局雨ん中追い出しちまったし」 あの後、眠れなかったのだ。 ゲイは悪だ行動を共にしたら身が危険だ、というなかば定説と化した価値観はおかしいだと思えるほどの柔軟性はあるはずなのに、結局自分のしたことはそれと同じだ。けれどあのまま一夜を共にするのは、正直怖いと思い、中野が帰ると言ったとき安心した。どちらともつかず、曖昧な立ち位置の自分に腹が立ったのだ。だからサンドイッチは、生ハムが入っている一番高いやつを選んだ。 「冷静になったら余計に引かれるかと思ってました」 「え、なんで」 「いやー……俺もなんつーか、先走りすぎたんで」 中野はひっそりと呟いた。きっとこいつも、ネカフェの狭いブースの中で眠れずに朝を迎えたのだろう。 「言わなきゃいけないことの順番まちがえたなと思って」 「……まあ、とにかく引いてはないから」 「ありがとうございます」 それからお互い仕事に取りかかった。どちらもスムーズに大人の対応をして、滞りなく上司と部下に戻った。きっかけはいつでもこんな風に、知らないあいだに現実にまみれてそのときは気づかないものだ。

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