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背後で、アトリエの扉が閉まる音を聞いた。二秒後、世界が反転する。 「ん、は」 舌はびっくりするほど熱く、生々しい動きに眩暈を起こしそうになった。仕事ばかりにとらわれているとだめだ、ほんとうにだめだ。自宅に到着したとたん、後ろから抱きつかれ突然唇をうばわれたときの対処方法が分からない。 「ちょ、なんなんだよテメェ!」 「……深瀬さん声でかい」 中野の額にてのひらを押しつけ顔を引きはがす。中野は熱っぽい目のまま、まっすぐに俺の顔を見つめ静かにつぶやいた。ボロアパートの、猫の額ほどの玄関スペースでは、男二人で抱き合ったってまるで様にならない。 「玄関入った瞬間にこれかよテメェなに考えてんだ」 「なに考えてんのかってこっちの台詞です。俺の好意に気づいてるくせにそれで一度は追い出したくせになに平然と誘ってるんですか。これだから危機感のないやらしいノンケって嫌なんですよ」 さきほどの注意勧告を受け、声をひそめた俺の前で中野はつらつらと言い募った。元来の静けさを残したまま、感情を吐き出す中野には見覚えがない。中野はいつでも冷静で、汗をかいていても疲れていて女子の視線を集めるような奴だったはず。 「いや別に誘ってな……」 「誘ってるのと同じですよいいですか、こんな状況抱いていいって言ってるのと同じですよ俺が抵抗する深瀬さんを縛りあげて前も後ろもぐちゃぐちゃにしたって深瀬さん何も言えないですよ分かってます?」 「……お前性格変わってない? そんなだったっけ?」 「すみませんねこんな据え膳の状況で嘘くさい優秀な新人像引きずるほどいい子じゃないんすよ」 「こっちが本性かよ……」 油の匂いがするボロアパートの中で、中野は押し込めた気持ちに急かされどこかイライラしているように見える。その状態で俺みたいなかわいげのない男を抱きしめ、首もとに顔をうずめて余裕のなさを象徴するように呼吸を荒げている。 俺は溜息をつき、まるくなった背中に腕を回した。中野の身体は熱い。 「……危機感持ってないわけじゃねぇよ」 「じゃあどういうつもりですか、自分から泊まればなんて言っておいて」 「お前は俺のことナメすぎなんだよ。どこの童貞中学生相手にしてるつもりだよ俺年上だぞ」 「は?」 両肩を外側からがっしりと掴まれ、べりっと音がしそうなほど俊敏に引きはがされた。中野はまぬけな顔をしている。あー中野くんまじ理想ー彼女いんのかなー結婚したーい、と給湯室でぼやいていた職場の女子たちに見せてやりたい。中野は俺みたいなやつの前で、これほど無防備に色んな顔をする。 「とりあえず」 「はい」 「昨日風呂入ってねぇから先にシャワー浴びたい」 「……は、い」 「そのあいだに腹くくっとけ。俺は逃げないから」 中野の腕をほどき、ようやく靴を脱いだ。部屋に入り電気をつけ、荷物を下ろし、クローゼットからタオルを引っ張り出し、バスルームへ向かうためにもういちど玄関前を通ったとき、中野は先ほどと同じように立ちつくしたままだった。 「ふ、かせ、さん、それって」 「……シャワー浴びてるあいだにどっちかが冷静になっちまったらナシだ。そしたら帰れ。雷雨が降り出してもな」 「ちょっ、それ最低でしょ!」 戸惑いの声をあげる中野を残して、バスルームに飛び込んだ。

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