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第20話
「焦ったぁ。チャイムがどうのってなんのことだよ? あやうく祐樹に帰られるところだったじゃないか……」
先週の二の舞なんてごめんだ。篠山はたばこを拾いあげて口に咥えなおすと、ジッポでその先に火をつけた。すぅっとニコチンを吸いこんでほっと一息吐 く。
ちょっと休憩してから夕飯だ。それから風呂にはいってと算段をはじめた篠山だったが、春臣はまだ遼太郎のことに囚われていたようだ。
「遼太郎くんって、ほんとにツンツンなんだから! ちょっと折れてくれたら祐樹が得心するって云うのにね」
ダイニングの椅子からすっくと立ちあがると「俺、ちょっと云ってくる!」と部屋を出ていこうとした。
「ちょっ、待てっ」
いっそさっさと遼太郎に帰ってもらったほうが無難ではないか。篠山は遼太郎を引き留めに行こうとする春臣を止めにはいった。
目のまえを過ぎようとする春臣の腕をソファーから立ちあがって捕まえようとする。しかし大きく足を踏み出した拍子に、向う脛 を思いきりローテーブルにぶつけてしまい、痛みでバランスを欠いた。
「うわぁっ」
「えっ⁉」
とっさに掴めたのは春臣の背中の部分で、被害は服をひっぱられた春臣にも及んでしまい――。
「っ痛 ーっ!」
無理な体勢で振り向いた春臣までもが、篠山といっしょに床に倒れこむ。下敷きになった春臣は床に頭を強かにぶつけたらしい。ゴチンと鈍い音がした。床にラグが敷いてあったことで衝撃が緩和されたのがせめてもの救いだろう。篠山のほうもぶつけた脛のほうが大事で、馴染みある春臣の身体のうえで盛大に痛みに悶える始末だ。
「~~~~っ」
「ててっ。匡彦さん、――大丈夫??」
痛みを紛らわすため春臣の肩口に額を押しつける。あまりの痛みに涙は出せても声がでない。
「まさか、折れてないよね? 去年は俺で今年は匡彦さんとか、シャレにならないよ?」
こくこく頷いてみせる。
「だ、大丈夫……、それは、ない、痛 ぅぅ」
「そう? ならいいけど」
「あー、痛かった。……悪かったな」
いつまでも乗っかっていると重いだろうし、こんなところを神野にみられると冗談ぬきでやばい。漸く痛みが落ち着いてきた篠山は脛(すね)に当てていた手をラグにつくと身体を起こそうとした。気づいた春臣が、肩に沿えた手で助けてくれる。
ところがだ。その最悪なタイミングでガチャリとリビングの扉があいたのだ。
「うわっ」
扉を開けた神野を見あげようした篠山は、降り注いできたなにかに顔を背けた。
「いてっ、いてっ」
唖然とした神野が取り落とした薄い箱から散らばったのは、たくさんのちいさなチューブだ。春臣が頭に降ってきたそれらを払いのけ、そのひとつを摘まみあげた。
「なにこれ? 絵具?」
とっさに春臣と身体を離した篠山の膝のうえにも絵具は三本ほど乗っていたが、そんなことよりもだ。げに恐ろしきは自分たちを見下ろす祐樹の顔だった。
「ゆ、ゆうき……」
篠山のこめかみから冷や汗が伝ったとするならば、彼のおなじ場所には怒りのための血管が浮いていただろう。
「えっ、まさか、祐樹、いまの見て変なこと想像してないよね⁉」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
春臣の言葉に顎をひき、唇をきゅっと咬んだ神野はひとことも発しない。篠山は春臣と目をあわせると、「ひぃっ」と心の中で悲鳴をあげた。
「遼太郎さんとのこと、ごめんって云ってたくせに……」
篠山をジト目で見てぼそりと呟いた神野は、つぎにぐりんと首を振って春臣を睨んだ。
「…………二度目」
篠山にとって謎のその言葉は、春臣には覿面 だったようだ。
「ちがうちがうっ、誤解だっ、祐樹! ちょっかいなんてだしてないからっ。見たら――」
「わかるじゃないか」とつづけた春臣の言葉は神野には届いていなかっただろう。彼はさっと踵をかえすとリビングを出ていってしまったのだ。
「こらっまって、祐樹っ!! って、わっ⁉」
追いかけようとした春臣が悲鳴をあげてまたしゃがみこむ。その横をすり抜けて篠山は音をたて閉まった玄関へと急いだ。
「待ってっ! 待ってっ! 匡彦さんストップ!」
「なんだっ」
呼び止められて廊下から振り向けば、ラグのうえで四つん這いになった春臣に「靴下脱いで!」と叫ばれる。
「絵具っ! 廊下っ!」
足もとを見れば、踏みつけた青の絵具で靴下がぐっちょりだ。
「うわぁ」
最悪だ。リビングからここまで自分の踏んだところには、見事に青のスタンプがされていた。
「もうぅっ! 二十三万、このラグ死んだ!」
春臣が悲鳴をあげた。どうやらたくさんの絵具を踏みつけていたらしい。ラグはぐちゃぐちゃに汚れている。じつはこのペルシャ絨毯は、買うときにせんど春臣に反対された品だった。
「だから安物でいいって云ったのに! 食べ物とか零したらすぐ駄目になるんだから!」
おなじく絵具を踏みつけていたらしい春臣は、目尻を吊り上げながら靴下を脱いでる。
「……でも、食べ物じゃないじゃないか」
しかし気づかずこのまま靴を履いていれば、手入れを怠らなければ一生ものであるお気に入りの革靴が台無しだったと、篠山はぞっとした。それからとりあえず靴下を履き替えると、「あとは頼んだ」とすべてを春臣に任せて家をでた。
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