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【序章 地上に降りた雲】2.クルト
砂浜で炎が揺らめいている。
レナード率いる発掘部隊の一行が焚火を囲んでいるのだ。島の住民も加わって、クルトには耳慣れない楽器の音と歌、それに笑い声が響いてくる。音楽も話し声も波のようなリズムがあり、すこし離れた場所から聴いても心地よい。
クルトは無意識に鼻歌を歌っていた。鼻歌は子供のころからの癖で、上機嫌な時にはいつも即興の歌をつくってしまう。ただしクルトの場合、この歌は口から音となって流れるだけでなく、彼の魔力に乗って内心からも漏れてしまうのだが。
幸いなことに魔力を伴ったクルトの『歌』には癒しの力があり――もっとも本人がそれと意識しているわけではない――知らずに歌を聴く人間の疲労や痛みをとったり、気持ちを明るくする効果をおよぼす。焚火の周りにいる人々も気づかないうちにこの恩恵を享受しているだろう。
しかし彼の隣にいる男にはこの恵みは届かない。
ソールは湯気があがる木の椀を膝にのせたまま、ぼんやりした表情で焚火の方を眺めていた。クルトの鼻歌を聴いているのはわかっていた。ソールはクルトの歌が好きなのだ。本人からじかにそう聞いたこともあるし、こうして隣にいても歌を彼が楽しんでいるのはわかる。
ふたりが座っているのは枯れ木を割った急ごしらえのベンチだった。発掘部隊の誰かが作ったものを、クルトがここまで引きずってきたのだ。ここからは焚火を囲む輪の全体が見える。談笑する人々の声や楽音が響く一方で、背後では島の木々の葉擦れが鳴る。肩が触れるほどの距離で並んでいるとソールの肘が時々クルトの上腕にあたる。薄い色の髪が落ちてくるのを何度もかきあげているのだ。
ソールの髪は砂のような白さをおびた薄い金髪で、この島の人間には珍しい色あいだった。ふたりで暮らしている村でも故国でも頻繁に見かける髪色ではない。眸は対照的に暗い色をして、瞬くたびに薄い色をしたまつ毛が揺れる。
「みんなご機嫌だな」とソールがいった。
「ここでいいのか?」クルトはたずねる。「珍しい楽器だといってただろう」
ソールは知識欲旺盛で、知らない事物に対する好奇心は人一倍強い。この島にある見慣れぬ風物にも学者めいた興味を示していたから、クルトはもっと近くで見たいのだろうと察していた。しかしソールは頭を振る。
「焚火は苦手なんだ。暖炉やランプはいいが、焚火は……野放しの火は怖い」
そういってスープを一口食べた。
「美味しいな。変わった風味だ」
「レナードはいいコックを連れてる」クルトは焚火の輪を指さした。「悔しいがこれは認めてやる」
「どうしてきみはそうレナードに張り合おうとするんだ?」
ソールは不思議そうな眼を向ける。眸に焚火が小さく映っている。
「きみだって彼くらいの齢になれば、もっと……」
「そういう問題じゃない。俺はなんとなく悔しいの! 負けた気がして! でも俺の方がソールの好物は知ってる」
ソールが小さく笑った。「そうだな」
レナード・ニールスとの関わりはもう数年になる。レナードはソールより少し年長の男だが、故国の王都でやり手の外交家として知られる貴族だ。しかしクルトとソールが暮らすこの国では、各国のギルドの関係を取り持つ商業家の顔の方が有名だろう。だがけっして強欲ではなく、身分のちがいを厭わずに場に応じて適切にふるまう才覚とバランス感覚があって、知識欲が旺盛でおまけに人格者ときている。妻を病気で亡くしてから独り身で、たまに宮廷に出ると彼の後添えを望む女性たちに囲まれるという噂だが、浮いた話のひとつもない。
この完璧さがクルトの癪に障るのだった。レナードが男性と関係をもったという話は聞かないが(そもそも浮いた噂がない男なのだ)ソールはあきらかにレナードのお気に入りなのだ――ソール自身はそうとも思っていないようだが。
今回の発掘に誘われたのだって、レナードにソールの知識が必要というだけでなく、ソールを喜ばせるためなのはクルトにはみえみえだった。一方自分はというと、緊急の事故に対応する治療師の役目というのはあくまでも名目にすぎず、実際はソールのおまけ――クルトが王城に任命されたソールの専属守護魔術師だから、というだけの理由にちがいない。
もちろんレナードにクルトが感謝することはたくさんある。いまのクルトとソールの生活は彼の協力がなければあり得なかったからだ。だが、いまに見ていろ――とクルトは内心思うのだった。レナードと同じ齢になるよりずっと前に、もっとどうにか――どうにかなってやる。
とはいえその「どうにかなる」が具体的に何なのか、クルトにはいまひとつわからないままではあったのだが。
クルトはソールの腰に腕を回した。生まれ持った魔力に加え、学院で精霊魔術を修行したおかげで、クルトはたいていの人間の感情の放射を知覚することができる。自在に遮ることもできれば、感覚を広げて遠くまで感知することも可能だ。しかしソールは例外だった。彼の心は鉄のような固く厚い防壁に囲まれていて、精霊魔術が届かないのだ。
だからソールとはきちんと言葉で話さなければならなかった。当たり前のことのようだが、精霊魔術が使える者は往々にしてこれを忘れがちだ。何しろ大多数の人間たちは自分の感情をむやみに放射しつづけているのである。人などそのようにして「わかるもの」という無意識に抱いていた驕りを、ソールと出会ってからのクルトは何度も叩き潰された。
精霊魔術の効力がソールにおよばないのなら、これを悪用した攻撃も及ばないはずだ。しかし回路魔術による物理的な暴力までソールの心は排除できないし、ふつうの人間が魔力によって受けている恩恵を彼が得ることもない。癒しの効果をもつクルトの鼻歌もソールにはただの歌でしかない。
「今日の成果をどう思う?」
ほかの人たちに見られていないのを承知でソールの耳元にささやくと、空になった椀を持ったまま、腕の中の男がかすかにふるえる。うなじに垂れる砂色の髪をかきあげて唇をつけたいという欲求をクルトはこらえた。
公言こそしていないが、ふたりの関係を発掘部隊の面々が察しているのはクルトにはわかっていた。特段の悪意を持つ者もいない。しかしソールは周囲がどう思っているかなど関係なく、ひとまえでクルトがいちゃつこうとすると眼に見えて不愛想になるから、クルトは迂闊な行動に出ないよう気をつけている。
気をつけてはいるが――しかしクルトがかまうことで不愛想になるソールも可愛いのだった。十歳も年上の男なのに。
「今日だけであんなにたくさんの遺物がみつかるとは思わなかった」ソールは穏やかにいった。
「明日以降も楽しみだ。潜水士はアルベルトのいう『溜まり』をみつけたらしい。作られた時代も混ざっているようだ」
「船酔いは大丈夫か?」
「あれは船酔いというより――」ソールは何かいいかけて言葉を切った。「……興奮しすぎたのかもしれないな。はじめてだから」
「レナードもいっていたが、俺は明日からも船に乗るけど、ソールは島で待っていてもいい。ハミルトンが遺物の処理をはじめるそうだ。主人はまた海へ行くらしいが」
ハミルトンはレナードの家令で、彼の右腕ともいえる優秀な男だ。レナードと対照的にクルトがハミルトンに何の嫉妬も抱かないのは彼が貴族ではないせいか、ソールに向ける感情がレナードとはちがうためか。きっと後者にちがいない。ともあれ、ハミルトンとソールが一緒にいたところでクルトが不穏な気持ちになることはない。
「レナードは冒険が好きだからな」ソールはくっくっと低い声で笑った。「彼のように動けるのはうらやましい」
「ソールだって――」
「僕はだめだ」
首をわずかに傾けたソールの前髪が長く垂れ、彼はうっとうしそうにそれをかきあげた。髪留めが必要だとクルトは思った。どこかでいいものを探さなければ。そういえばこの島には緑と青のきれいな飾りをつけた住民が何人もいる。どこかで同じものを手に入れられるかもしれない。
「ソールは大丈夫だ。何でもできる」
クルトはささやいた。「俺がついてる」
ソールは微笑んだだけで何もいわなかった。焚火のまわりの楽音に合わせてクルトがハミングすると、隣に座る男の肩がクルトに寄せられ、白い首筋が彼の方へ傾く。
ながくほそい息が吐きだされた。ソールは眼を閉じて静かにいった。
「きみの歌はいいな」
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