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【序章 地上に降りた雲】4.クルト

 ソールの体は雄弁だ。彼が言葉で拒否するときでさえ。  クルトは貴重な書物のページをめくるように丁寧に彼の体をひらく。彼の心と直接触れあえない分、皮膚のぬくもりやわずかな反応を読み取ろうとする。クルトが言葉で弄るたびにソールは小さく嫌だというが、体は自然にひらいて、耐えきれずに喘ぎがもれるたび、クルトの胸はいっぱいになる。  月の光が煌々と照らしていた。  浜辺で触れるソールの体は町中にいるときより安らいで、リラックスしている。海や森は楽なのだと以前ソールは話したことがある。魔力はクルトにとって音楽のようなものだ。クルトは遠くまで聴きとれるし、聴かずにいることもできる。知覚できる魔力のありかたは状況によってさまざまだ。調和する楽音もあれば乱された不協和音もある。  ところが自身の魔力を失って、それを正しく感じる能力もなくなったソールには、生き物が無意識に発散する魔力は別の働きをする。彼の意識は魔力を知覚できないが、彼の体はべつのかたちで受け取っているようだ。  空気の中に潜む意識できないレベルの音やちいさな刺。たとえるならそんなものだろうかとクルトは思っている。ひとつひとつはたいしたことがなくても蓄積すれば負担になる。たとえソール自身が気づかなくても、体は気づいている。しかし人のいない海や森はそんな日常のちいさな騒音や刺を呑みこんで、なかったことにできるのだ。 「いや……あ――ん、あ……クルト――」  ソールが甘い声で彼の名を呼んだときだった。予期しない不協和音が意識をかすった。違和感と混乱。悪意と――ひとつの方向へ無理やり向けられた意識。  天幕の方向だ。  そう悟ったクルトは一瞬で知覚を広げていた。発掘隊の人々がいる方向に感じられるのは、眠りにつく前のくつろいだ気分やそこそこの満足、明日への期待、またごく普通の嫉妬といった、よくある感情ばかり。だがその中にひとつだけ明白に目的を持った意識がある。矢のように鋭くひとつの場所を目指しているのだ。 「ソール――天幕の方で何かが」 「天幕?」 「まずい」  あわてて体を起こし、クルトは服を直した。立ち上がるとソールが「クルト」と呼びながらローブを投げた。彼の下に敷いていたクルトのローブだ。  残念さとソールへの申し訳なさと欲求不満の混ざったまま、クルトはとにかく走り出した。知覚を天幕の方へ集中させ、精度をあげる。悪意のある意識が向かっているのは発掘隊の人々ではなかった。ロープや箱などの資材が雑多に積まれ、その中にひとつだけ張られている天幕だ。  あそこには引き揚げた遺物がある。  クルトは野営地を囲む森をくぐりぬけた。ローブを腰に巻きつけて、足音が響かないように気をつけながらに魔力の指をのばす。遺物を保管している天幕の中に発掘隊と無関係な誰かがいる。足音を忍ばせ、気配を消そうとしているが、クルトには明らかだ。  反射的に侵入者の心を魔力で探ろうとして、クルトはふと思いとどまった。むやみに精霊魔術を使うことは故郷の王国では禁じられている。侵入者からは破壊の意思は伝わってこない。ただの盗っ人なら取り押さえればいいだけだ。  クルトは静かにその場を離れてハミルトンの天幕へ行った。レナードの忠実で実直な家令はまだ眠っていなかった。クルトの低いささやきに「盗っ人?」と返すと、これまた足音を忍ばせて外に出てくる。  遺物をまとめた天幕の外に立つと、中からは金属がこすれるような音が聞こえていた。点のように小さな明かりが布を通して一瞬ちらつき、また隠れる。 「あいつ、止めていいか?」  クルトはハミルトンにささやいた。 「ああ。私も――」  クルトはハミルトンの答えの前半しか聞いていなかった。天幕の中の侵入者へまっすぐに魔力の先端を伸ばす。クルトの意識は指揮棒のように動いた。侵入者の体へのびた魔力は膝の裏の腱をひねり、肩から首の筋肉を硬直させる。  ひっと押し殺した悲鳴がもれ、物が崩れる音とどさりと倒れる音が鳴った。その時にはハミルトンが動いていた。天幕の中に踏みこみ、遺物の前で膝をついてうめく男の上にのしかかる。指笛が鳴って、レナードの天幕が開く。他の天幕からも顔がのぞく。 「何があった?」  いくつものランプがいっせいに灯り、周囲が明るくなる。背後から腰に巻いたローブを引かれ、一瞬飛び上がりそうになる。ふりむくとソールの白い顔がある。クルトは興奮を隠そうと気づかれないように深く呼吸した。侵入者に対してクルトがやったのは、本来なら治療のために行う方法を逆向きに作用させただけのことだ。とはいえ、こんなことをやったのははじめてだ。  明るくなった天幕のなかでハミルトンが男を縛り上げていた。さるぐつわをかませる様子は手慣れたもので、固く握った指を開かせると、指の長さほどの金属棒が零れ落ちた。とたんにソールが息をのんだ。 「ソール、大丈夫?」  ソールは黙ってうなずいた。さっきの浜辺で乱れた服は整えられているが、髪はほどけたまま顔のまわりを縁どっている。レナードが外で指示する声が聞こえ、ついで天幕に入ってきた。 「泥棒か?」 「島の住民ではありません」とハミルトンが答えた。 「服装にはこれといって特徴がない。この年齢の島の男ならしるしの刺青があるはずです」  レナードの長身は天幕の中では窮屈そうだった。無意識の動作で頭をかがめながらハミルトンにいう。 「どうやってここまできた? 我々以外の船がくればすぐにわかるはずだ」 「小舟ですかね。隠してあると思います。探させましょう」 「古代の遺物をいち早く手に入れたい好事家ならどこにでもいるが――そういう輩の手先だろうか?」 「可能性は高いですね。ギルドの誰かを通じて情報を手に入れたのかもしれません」  クルトは口をはさんだ。 「俺が〈探査〉しましょうか」  長身の貴族とその家令は同時にクルトをみつめた。 「できるのかね?」 「この男は魔術師じゃありません。砂浜にいた俺に侵入がわかったくらいだ。あなたの同意があればやりますよ」クルトは男の方にあごを向ける。「困惑と迷いがある」  天幕の中は静かだった。レナードは縛られて床に転がされている男とクルトを交互にみた。 「お願いする」  クルトはひざまずいて男の顔を上に向けさせた。男は眼をみひらいた。褐色の眸に金色の筋がちらつく。魔力の指をその中に侵入させ、同調させる。恐怖や驚きのような表面的な感情は不協和音となって響いてくるが、クルトが求めているのは別のものだった。魔力を網状に広げると、男の記憶が灰色のふぞろいな結晶となってクルトの前に積みあがる。そのうちのひとつへ触手のように魔力の先端をのばした、そのときだった。  キィン、とガラスをひっかくような音が響いてクルトは男の心から弾き飛ばされていた。ほとんど体に感じるほどの衝撃だった。尻もちをついたクルトの前で男はいきなり暴れはじめ、全身をくねらせるようにして足と腕をいましめるロープを。自由になった手でさるぐつわも引きはがし、男は床に腹ばいになって何かを口にくわえ――呑みこんだ。 「おい、おまえ!」  ハミルトンが叫び、クルトも何事かを口走ったはずだが、何をいったのか自分でもわからなかった。なぜならその次の瞬間、男が。  一瞬だけ赤い熾火のような色が男の顔や手を覆ったようにみえた。身につけた衣服から橙色の炎があがったのは次の一瞬で、男は絶叫した。ハミルトンは迷わなかった。手近にあった敷布を広げて男の体をはたき、炎を消そうとする。茫然自失から回復したクルトもあわててそれに加わった。外へ飛び出したレナードが桶の水を抱えて戻ってきたとき、炎はすでに消えていた。  天幕の中はくすぶる匂いでいっぱいだ。布や肉の焦げる悪臭がたちこめているので、ハミルトンが天幕の布を巻き上げる。クルトは男の上にかがみこみ、息があるのをたしかめて、今度は治療のために魔力の網をいっぱいに広げる。知らず知らずのうちに歌を口ずさんでいた。男の眸が力なく瞬き、また閉じる。 「まだ息はある」  そういったクルトの背後でひゅっと空気が吸いこまれるような音がした。クルトは振り返った。 「ソール?」  ソールは積んだ木箱にもたれかかっていた。手が枝のように不自然な姿勢で突き出している。髪が揺れ、蒼白の顔が揺れ、足ががくんと崩れた。そのままどさりと音と立てて床に倒れた。  クルトの手当てにもかかわらず、男は朝にかけてゆっくり死んだ。火傷が直接の原因ではない、おかしな最後だった。こじあけた喉の奥に金属の四角柱があった。遺物のひとつだとハミルトンがいった。  卒倒したソールの意識はしばらくすると戻り、クルトは心の底から安堵した。 「炎のせいだろう」  砂色の髪の男は、ふたりの天幕で横になったまま静かにいった。 「大丈夫なのか?」 「ああ。ああいう火は……僕はだめだ」ソールは両眼を腕で覆う。「悪い。疲れた」 「いいから、眠って」  ソールの髪はまだ焦げた匂いをまとわりつかせている。クルトの髪もローブも同様だった。  男が島までどうやってたどり着いたのかは翌日になってもわからないままだった。舟はみつからなかったし、かりに流されてしまったとしても、最近の穏やかな海なら付近でみつかってもおかしくない。座礁したわけでもない。  ともあれ死体は本土に運び、しかるべき筋へ引き渡すべきだとレナードは判断した。身元を調べる必要もあった。発掘もひとまず切り上げとなり、クルトとソールも本土まで戻ることになった。どのみち残された日数は少なかった。夏の休暇は終わろうとしていたからだ。  男の〈探査〉が中途半端なまま阻まれてしまったのがクルトには不満だった。何かがおかしいのはたしかだ。本来なら、死体に対する探査はできない。だが生き物は「即座に死ぬ」わけではない。すべての生命活動が消え、魔力の放散が終わるまでには猶予があるのだ。生きている人間には手が届かなくなるだけで。 「港湾都市で魔力増幅薬を手に入れれば、記憶を拾えるかもしれない」  船長のキャビンでそう口に出してしまったのはクルトの奥底に悔しさが残っていたせいだろう。そう、クルトは自身の精霊魔術には圧倒的な自信を持っていた。生来魔力に恵まれていただけではない。王立学院では彼の才能は高く評価されていて、ソールと知り合ってから紆余曲折はあったとはいえ、彼の魔術の才能はむしろそのせいで華々しく開花したのだ。クルトほどの精霊魔術師はめったなことではあらわれない。  学院の師たちも表にはあらわさないが、そう考えているのをクルトは知っていた。ソールと一緒にいたいために故国を離れて治療師となったが、クルトの最初の望みは王立魔術団で政策部に入り、治世の中枢に関与することだった。  精霊魔術による心の〈探査〉は通常、意識がある状態で行うものである。意識が永久に失われた体の記憶を引き出す、ましてや死んだ肉体にそれを行うのは、どれほど優れた精霊魔術師にも困難なことだ。普通の魔術師なら意識の拡大剤――魔力増幅薬を使っても難しいと思うだろう。だが自分なら確実にできるはずだ。そんな自信がうかつにも、クルトにそういわせたのだった。レナードとハミルトンは眼をみはった。 「それは――」  ソールがぴしゃりといった。 「だめだ」 「ソール」  ソールは砂色の髪をかきあげた。クルトに視線をすえて早口でいう。 「危険だ。そんなものは使うべきじゃない。それに魔力増幅薬は管理薬物だ。到底間に合わない」 「王国ではそうだが、あの街なら入手先はあると施療院で聞いてる。大陸からの……」 「それでもだめだ!」  ソールの語気は激しかった。クルトだけでなくレナードまで眉をあげる。 「クルト、あれを試したことがあるのか?」 「いや……」 「その方がいい」ソールは首をふった。 「彼はもう死んでるんだ。死人の記憶を弄ったところでたかがしれてる。二度とそんな馬鹿なことを考えるな」  苛立った口調でそういい捨てたところで、あっけにとられたように自分をみているハミルトンとレナードに気づいたようだった。肩をすくめて「すみません」とつぶやく。 「いえ。あなた方には今回、ほんとうに助けられました」  眼前の言い争いなどなかったかのように、穏やかにレナードがいった。 「この一件は続けて捜査させますが、ふたりは陸についたらゆっくり休んでください。休暇が後味悪く終わってしまうのは申し訳ない。ハミルトンが商業ギルドに部屋を手配します。遺物については今後も知恵をお借りすると思いますが、よろしいでしょうか?」  ソールは小さくうなずいた。 「ええ。もちろん。今度の旅は、僕は……とてもうれしかった。誘っていただいて」  レナードは浅黒い精悍な顔に笑顔をひらめかせた。 「それならよかった」  そうはいってもソールはまだ本調子ではないようだった。最近はめったに使われなくなった彼の薬――気分が落ち着かないときのために施療院に処方されているもの――を飲んで休むというので、クルトは彼が眠るまで船室につきそい、ついでに自分の持ち物を整理した。  出立があわただしかったので、手回り品はざっとまとめただけになっていた。鞄の隅に鮮やかな緑と青をみつけ、クルトはあわてて拾いあげる。しなった形の木製の髪留めで、緑と青の蝶の色をした飾りが埋めこまれている。宝石のような色あいだ。  数日前に島民のひとり、まじない師の一族の少女に譲ってもらうよう頼んでいたのだが、前夜の出来事のおかげでクルトはすっかり忘れていた。少女は船が出る直前にわざわざ届けてくれたのだった。 「どうぞ、幸運を」  そう彼女はいった。本土の発音を慣れない舌でゆっくりとかたちづくった。 「これからたくさん必要になるものです」

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