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【第1部 朝露を散らす者】2.けものが鳴く
「カリーの店」は石畳の路地の先にひっそりとたたずんでいる。
正面に窓はなく、扉にひらいた本の意匠が刻まれているだけだ。周囲は民家や長屋、表通りに面した大きな商店の裏口、雑木の植えこみなどに囲まれて、ここが書店だと知らなければ通りすぎてしまうにちがいない。
扉近くの塀のそばには誰が置いたともしれないベンチがあり、午後や夕方には近所の住人が手持ち無沙汰に座っていることも多いのだが、今日は誰もいなかった。数年前、学生のクルトがこの店へ通いはじめた当初は、ここにはつねに煙草をくゆらせている老婆が座っていた。今回はまだ彼女に会っていない。元気だろうか、とクルトは思う。
カリーの店に近づくと足元に鳩がまとわりついてくる。鳥、馬、犬、猫……クルトは子供のころから家畜に懐かれたし、野の獣を恐れたことはなかった。手を伸ばすと鳩の一羽がぱたぱたと宙に舞い、挨拶するように首をかしげて飛び去る。交代するかのように野良猫が塀の隙間からあらわれて、クルトの脛に長い胴を押しつけ、甘えるように鳴いた。
この路地の見た目は何も変わらないし、生き物の気配も変わらなかった。にもかかわらずひさしぶりの王都はなぜか、クルトに以前とちがう印象を抱かせている。
いや、変わったのはクルトの方かもしれない。街は学生のころと同様に栄えていて賑やかで人々の活気にみちていたし、王城付近にあるハスケル家の屋敷もあいかわらずだ。
今回の帰還の理由がクルトにはいまひとつ納得がいかないまま十日が過ぎたせいで、そこはかとない違和感を感じている、というのはあっただろう。隣国の海辺でソールと暮らすようになってからも二回ほど王都に戻ったことはあるが、どちらも短い旅行にすぎなかったし、まして「召喚」もなかった。
カリーの店の扉に手をあてながら、クルトはいつもの癖で店の中をさぐる。魔力を完璧に制御できなかった学生の頃は好むと好まざるとにかかわらず、壁の向こうにいる人の魔力を読み取っていたものだが、今は意識して使い分けるようになっている。
生きとし生けるものが作る魔力の網。そこから弾きだされてしまったソールを例外として、自分に感じ取れない気配はないとクルトは思っていたし、実際それは条件つきで正しかった。
だから扉を押し開けて、ソールの前に座る影を目撃したときは意外さに眉をあげた。書棚の奥からは楽しそうな声が聞こえてくる。何かに熱中して話すときのソールの声だ。
「魔力を数値化しようと試みた最初の記録はナッシュの補遺にある。アーベルが著作集で触れていて……」
「俺の推測ではナッシュはアルベルトと同じくらい頭のおかしいやつだね。でなければあんなものは考えない」
ソールと交代で聞こえてくるのはひどくしわがれた声だった。不自然なほど枯れたおかしな声だが、扉の外からはその声の主の気配は感じられなかった。
「何をいってる。アルベルト師の熱意は尊敬にあたいするだろう。嵐の日に測定にこだわるのには参ったが」
「あんたもずいぶんなお人よしだな。そんな調子だからあいつにつけこまれるんだ」
「きみだって元弟子というからには彼にずいぶんつきあったんじゃないのか」
クルトに気配を感じさせない人物。その意味することはひとつだ。そいつには相当な魔力があり、かつその放散を抑えられるくらいの精霊魔術の技量を――クルトと同じくらいの技量を――持っているということだ。
以前、港湾都市の書店でこの男を目撃したときもクルトはそう怪しんだものだった。この男の名前は――たしかサージュといった。
ソールはクルトが戻ったことに気づいていないようだ。だがサージュはクルトがいることに気づいているのではないか。なのにこちらをちらりとも見ないのはどういうわけだろう。
書棚の影からクルトは恋人と話している男を観察する。椅子に座った背筋はすっとのびているのに、どこか歪んだような雰囲気を感じる。平民のありふれた服装につつまれた身ごなしは農民でも商人でも、まして魔術師でも学者でもない。
ソールは早口で楽しそうに話していた。その様子もクルトをすこしだけ苛立たせた。話の内容はクルトの知らない書物の詳細に関することで、それを聞いているうちになんともいえないジレンマに襲われたのである。ソールが楽しそうなのはいい。しかし会話の相手はクルトからみると怪しげな人物だし、前は港湾都市で会ったこの男がいま、なぜ王都にいるのかも気になる。
――というわけで過剰に意識して書棚の陰に入ったクルトは、今度は出るタイミングを逃してしまった。最初からまっすぐ彼らのところまで行けばよかったのだ。そう後悔した瞬間、不用意に埃を吸いこんだらしい。
軽い咳払いのおかげでソールはクルトがいることに気づいたようだ。ますます格好が悪いと思いながらクルトは足を前に出し、とたんに今度は膝を書棚の出っ張りにぶつけてしまった。
「痛っ」
「クルト?」ソールの声が聞こえた。「どうした?」
よく知っているはずの店内で膝を打ったというのも悔しくて、クルトは反射的に答えた。
「なんでもない。足がしびれた」
「は?」
扉につながる狭い通路にサージュの長身があらわれる。クルトの方向をちらりとみた眸は無表情だったが、唇がかすかに上がったのをクルトは見逃さなかった。クルトは面白くない気分で挑発的に見返したが、サージュはこれといって反応しなかった。黙って扉を押し開け、出て行っただけだ。
妙だった。何かがおかしい。サージュからはごく普通の魔力しか感じられなかった。さっき扉の外からクルトが感知しようとしたときは何も感じ取れなかったにもかかわらず。
だがクルトの一瞬の疑念は「いったいどうしたんだ?」というソールの声に破られた。あらわれたソールの様子はいつもと同じで、格好悪いと思いつつもクルトは答える。
「ほんとうは書棚の出っ張ったところに膝をぶつけた」
「――なんだ。珍しいな。僕じゃあるまいし」」
ソールはほっとしたような笑みをみせ、自分に向けられた表情をみた瞬間にクルトの疑念は消し飛んだ。
われながら現金というか、眼の前の餌につられるというか、いい加減なものだとも思う。しかしクルトの本音は結局のところ、ソールが穏やかに笑っているだけでいいのである。何しろクルトがソールとこんな関係になるまでは、それこそこの同じ店の中でいろいろなことがあったのだ。
夕食の用意――といってもほとんどは表の商店街で買いこんできた出来合いの料理を並べるだけだが――をしながらふたりで話をするのは、何年も前にこの店で過ごした夜と同じだった。ソールは明日は王立学院へ行くという。逆に王都に戻ってから毎日出かけている王立魔術団はどうだと問われて、クルトは「毎日試験、試験だ。たいしたことはない」と答えた。
実際王城でクルトがやっているのはそれだけで、召喚された理由はいまだに教えてもらっていない。能力を測る試験は毎日手を変え品を変えて行われたが、クルトは苦も無くこなしていた。その結果には自分でもいくらか驚くほどだった。
隣国の小さな町の施療院で働く経験は思いのほかクルトを成長させたらしい。王立魔術団では白いローブを着た最高位の精霊魔術師たちに囲まれたが、クルトはすこしも臆さなかったし、彼らに引け目を感じることもなかった。何しろ彼らはただの魔術師であって、原因がわからないまま高熱にあえぐ病人でも、一刻を争う大怪我を負った者でもない。目的の不明な試験の結果がどう出ようと、それで人が死ぬわけではないと思えば気楽なものだ。
王都に戻った最初の数日は父の屋敷にも顔を出した。王城のすぐ近くにあるハスケル家の屋敷は父が宮廷に出仕するための前哨基地のようなものである。領地には母や弟たち、一族の者が住んでいるし、学生時代を共に過ごした友人のアレクは学院を卒業したあと、ハスケルに隣りあう自領にいるが、父は領地と王都をいったりきたりする生活だ。一方でクルトの母は領地でのんびりしているのが好きだからと、あまり王都にはやってこない。
とはいえハスケルの屋敷では他の親戚とも会った。母の従妹の息子、マンセル・エルゴートである。まだ十六歳の彼は並外れた魔力のおかげで王立学院への早期入学を許されて、この秋から王都にいるのはクルトも知っていた。
魔力の多さゆえに早く学院に来るのは、実をいうとあまりよい兆候ではない。それは自力で魔力の制御を習得できないことを示唆するからだ。だがマンセルはクルトに会えて喜んでいたし、精霊魔術師になって白いローブを着るのだと意気ごんでいた。クルトにしても幼いころから自分を慕っていた年下の少年は嫌いではなかったが、聞くと学院の寄宿舎はひとりで暮らさなければならない規則なので、従者のセリムをハスケルの屋敷で預かってもらい、休日はいつもここへ来るのだという。
エルゴート家はハスケルと同様裕福な貴族だが、学院に入学してもまだ従者をつけているというのはずいぶんな甘やかしようだった。なにしろ学院は生まれた身分など関係ない、魔術を扱う力だけが問題となる場所である。
しかしそのうちマンセルもわかるだろう――とクルトは思った。クルトにしても入学当初は無意識に傲慢なふるまいに及んだあげく、級友たちから強制的に「勉強」させられたものだった。おまけにクルトの恋人のソールは、クルトがそれなりの財産を持っていると知ってもなお、無駄遣いやちょっとした贅沢も嫌がり、クルトが買ってきた南方の果物ひとつにも「高いのに」などというのだ。ソールはこの果物が大好きなのに、である。
食事と片づけを終え、店の戸締りをたしかめてから、ふたりは小さな浴室で一日の汚れを落とし、狭い階段をのぼる。二階は大きな窓の前におかれた寝台と身の回り品の棚、壁に沿って置かれた書棚があるだけの質素な空間だ。出会った頃は床一面が本でおおわれていたこの部屋を、クルトはソールと一緒にきれいに片付けたのだった。
ソールは書棚から眠るときに読む本を選ぶ。もっともクルトと並んで寝台に入ると彼の読書は長く続かない。正確にはクルトが続かせないからだが。
「……クルト」
「ん?」
「ここだと、村にくらべるとやはり狭くないか? 寝台をもうひとつ入れた方が……」
「俺は平気だけど、邪魔?」
「いや……そんなことは……」
毛布の下でクルトはソールの足に自分の足先をくっつけようとする。ソールの足は寝台に入ってもなかなか温まらないが、クルトの方は正反対だ。最初はためらっても、やがて我慢できない様子でソールが冷たい足先をみずから押しつけてくるのがクルトは嬉しい。
足先を絡ませ、脛を触れ合わせ、夜着のしたの太ももをぴったりあわせると、だんだん眠くなってくるのかソールは小さくあくびをする。本を閉じて明かりが消えると、クルトはソールの肩に腕を回す。横たわったまま恋人を抱きしめ、髪をかき回し、耳を指でなぞり、キスをねだる。
ソールは最初控えめに応えるが、クルトの口づけが深くなると次第に吐息が荒くなり、腕の中の体が興奮してくるのがはっきりとわかる。クルトは夜着の上からソールの胸をなぞり、堅くなった中心を押しつける。ソールも彼自身を押しつけてきて、重なった体がどんどん熱くなる。
「ん……あ――」
海辺の村とちがってこのあたりは家が密集しているし、壁のすぐ外は警備隊も見回る路地だ。ソールはあえぎを漏らすまいとこらえるが、クルトには恋人のそんな様子も愛しい。やがて緩やかに眠りにおちたソールの髪をなでながら、つまらない嫉妬だの、ソールに関わる他人についてあれこれ詮索するのはやめよう、とクルトは思うのだった。何が起きようと腕の中にいる年上の男を守るつもりだし、彼の想いを信じてもいた。
かつてのクルトの夢は精霊魔術師の白いローブだった。その代わりにこの男を手に入れて、今はそれに満たされている。自分の選択に迷いはない。
とはいえ、王都に戻る前からの疑問はいまだかたくなに残っていた。王立魔術団はどうして自分を召喚したのだろう?
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