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【第1部 朝露を散らす者】4.落葉のめまい
「右から三番目の茶色の服の男。彼の家を調べてください。書斎の机の奥の壁に何か隠しています」
クルトがそう答えると制服の官吏はほっとした顔でうなずいた。何度も礼をいわれるのを手で制しながらクルトはそっと部屋を出る。そこは王宮の片隅の廊下で、行政官たちがせわしなく行き来していた。
あからさまな嘘は不協和音を帯びている。クルトには一目瞭然だ。隠された嘘はちがう形をとる。人の心の表面では一見つじつまのあう物語のように語られ、偽りによる不整合が見えないようになっている。そういった嘘を見破るにはひとつ奥の層まで探査の網をのばさなければならない。
まるで学院の最終試験を思わせる作業だったが、今日のこれは王城で官吏に依頼された〈探査〉である。王宮の中心へと通路をたどりはじめたとき、王立魔術団のダーラムから念話が届いた。
『終わったらここまで来てくれないか。待っている』
クルトは簡単に了解の念を送る。王宮の床や壁の意匠は一見ただの飾りのようだが、じつは回路魔術が仕込まれている。目立たないが精緻で巧妙な防備の魔術が発する〈力のみち〉を感じながら歩いていくと、回廊をまわった向こう側に精霊魔術師たちの白いローブがちらりとみえる。あの白にくらべると、自分の着る薄灰色のローブはくすんで鈍く、ぱっとしない。
もっとも城下や田舎ではこの薄灰は親しみをこめて先生と呼ばれ、歓迎される。治療師は王国における魔術師の位階では白の精霊魔術師より一段低いが、民衆にはより近い。それに着ているものが白だろうが灰色だろうが魔術師としての実力には関係がないことを今のクルトは理解していた。結局のところ衣の色は、精霊魔術をどんな風に使うのかを示すだけなのだ。
とはいえクルトがそう考えられるのも、彼がみずから薄灰を選んだといういきさつがあってのことではある。元から白いローブしか眼中になく、望み通りに白を着て王宮に仕える者のなかには、能力と選択について誤解している者もいる。たとえばいま回廊の向こうからこちらに向かってくるかつての同級生がそうだ。
たしかディラン、といったか。それほど親しくもなかったのでクルトは曖昧にしか覚えていなかったが、向こうはちがったらしい。
すれ違いながら『ひさしぶりだな』と軽い挨拶を送ってきたから、クルトの方もあっさりと返したが、思念の向こう側でみっともないほど漏れているやたらと高い誇りやプライド、そして薄灰の衣への軽蔑にクルトは一瞬あっけにとられた。
もっとも先方はこんなにもクルトに筒抜けだとは思っていないのだろう。念話のはずみとはいえ、そこまで視てしまう今のクルトの方が、おそらく王宮の精霊魔術師の基準からみても規格外なのだった。
白いローブを着たダーラムにはクルトの到着がわかっている。儀礼的なノックや声かけは王立魔術団では不要だ。クルトは回廊の奥の扉をあける。と、アダマール師の白い髭がみえた。
「クルト」
師は椅子の背に手をついてクルトをふりむき、性急な声で「待っておった」という。「そなたに呼び出しがかかっておる。森の施療院に隣りあう村で流行り病が出たそうだ。いそいで向かってくれんか。経験のある治療師が足りないという要請だ」
事実なら大変なことだし、流行り病の怖さならクルトはすでに知っている。
「すぐですか? 流行り病となるとしばらく王都に戻れませんが、俺がいないとソ――」
「ソールのことなら王立学院で責任をもつから大丈夫だ。至急発ってくれ。彼ひとりを気にしていて、そなたを必要とする病人を放置するわけにもいくまい?」
「ですが俺は専属守護魔術師として――」
「きみはソールひとりと多数の病人を天秤にかけるのか? それはどっちに傾くんだ?」
クルトはまばたきして師の姿をもういちど〈視た〉。
白いローブの表面が陽炎のようにゆらいでいる。椅子の背をにぎる指が不自然に歪む。
「アダマール師――じゃない。ダーラム殿。いや――サールか」
とたん、アダマール師のローブの表面にガラスが割れるように亀裂が走った。崩れおちたローブの白い欠片が音もなく空気に溶け去り、その向こうにクルトはかつての学友の笑顔を認めた。
『クルト。よくわかったな』
『おまえの演技が下手なんだ』
『馬鹿をいうな。俺の幻影はこれまで誰にも見破られなかったのに』
「その通りだよ。サールはこの技術では並ぶ者がいない」
そう声に出してダーラムがいった。
壁際に立ってクルトをみつめている。この黒髪の魔術師にクルトは王城へ召喚された最初の日に会っていた。王立魔術団では「八の燭台」の称号をもち、王に直接進言できる政策顧問団の一員でもある。つまり魔術師としては王都で一番地位の高い人間のひとりだ。
「では、見破られないことを前提にこの質問を?」とクルトの方も声に出して返した。「これも試験のひとつですか?」
「ああ、そうだ」答えながらダーラムは何を思ったか笑い出した。
「うんざりしているな。すまない」
クルトは肩をすくめた。
「ええ。何のために召喚されたのかずっと不思議に思っているところです」
話しながら自分が話している相手の位階を思い出して一礼する。
「申し訳ありません。最近礼儀を忘れがちで」
「王立魔術団 では表向きの礼儀はいらんよ。わたしやきみのような人間には隠しようもないからな」
ダーラムは口にそう出しつつサールに『今日はもういい。旧交はあとで温めてくれ』という念を送ったが、クルトにも会話を開いたままだった。
王立学院で精霊魔術を学ぶ人間が最初に習得しなければならないのは、念話と、その会話を特定の人間にむけて自在に開いたり閉じたりすることである。サールは『じゃあまたな』とクルトにだけ念を送ってよこし、白いローブをひるがえして出て行った。いまさらながら彼が王宮にいるのをクルトは意外に思った。
『サールの所属はどこですか?』
『政策局だが、彼はわたしの秘書官のひとりだ。もしきみが王都にいれば、きみもそうだったかもしれない』
クルトは笑った。
「俺は治療師ですよ」
声に出してそういうと、ダーラムは軽くうなずく。
「そうだな。今回のきみの召喚には目的がふたつある。ひとつはきみの能力を王立魔術団が査定することだ。連日の試験はそのためで、退屈なら申し訳ない」
とっくに予想していた答えではあった。無駄な問いかもしれないと思いつつ、クルトは続きをうながすように「もうひとつは?」とたずね、さらに問いをかさねた。
「それとも試験に通らなければもうひとつの目的は伝えてもらえない、ということでしょうか?」
「その通り」
ダーラムはじっとクルトをみつめていた。
「今の質問は私を『視て』の発言かね?」
「施療院で時々同じ対応をするので」クルトは微笑んだ。
「検査結果がわかるまでは何もいえない、と。不安にするのであまりいいたくはないのですが、体内を精査しても病の根源がすぐにみつからないこともあります」
「そうだろうな。明日も王城へ来てほしい。呼び出しがあるまでは今日と同じように行政局にいてくれ」
「あれも試験ですか?」
ダーラムはうなずいた。クルトはため息を押し殺して暇をつげた。
どうも、ここ数年のあいだに自分はかなり変わったらしい。
王宮を出て歩きながらクルトはそんなことを考える。かつての学友でもある王宮の精霊魔術師とすれちがい、短いやりとりを交わすたびにそんなことを思うのだ。王城は賑やかで活気があり、クルトの気分を明るくさせたが、その一方で行きあう人の誰もかれもが目的をもち、一直線に歩いていかなくてはならない――とも感じられる雰囲気があって、妙に窮屈だった。
この都には他人と異なる速度で歩いたり、思考する人間を想像し受け入れる余地があまりないのではないか。そう感じた一瞬のあと、クルトはあることに思い至った。みんなが同じ速度で歩くことができると誰もが無条件に信じている場所では、ソールのようにつまづきながら歩く者は、やりにくいに違いない。
やはり王都滞在は早く切り上げるべきではないのか。しかしダーラムの様子では、クルトはまだ当分ここにいなければならないようだ。クルトにしても彼らの目的を想像していないわけではなかった。それこそさっきの幻影のように、クルトの能力を査定したのち、王都にもっと近い森の施療院へクルトを送る、ということはありえなくはないだろう。それにあそこならソールの体には王都よりも負担は少ないはずだ。
そんなことを考えていたせいか、金髪の少年がきらきらした思念をまっすぐクルトに向けて近づいてきたというのに、気づくのが遅れてしまった。
「クルト兄さん!」
「マンセル」
父の屋敷で会った親族の少年は白い頬をうっすらと紅く染めている。
「会えてうれしいです。どちらに?」
「カリーの店に戻るところだ。どうして王城にいるんだ?」
マンセルは王立学院の初学年である。初学年は寄宿舎と学院の往復に忙殺されるから、王城をうろつく暇はほとんどないはずだ。おまけに彼は早期特別入学だから、魔力の制御をより早く行わせるために予備の授業にも出なければならないはずである。
「お父上に王宮を案内してもらったんです!」少年は興奮気味に答えた。
「一度その、顔を出しておくべきだとおっしゃられて……」
そういうことか。クルトは納得した。そういえば自分も学院に入学する前、今のマンセルと同じくらいの年齢で王宮に連れてきてもらったことがあった。若い後継者――もしくはその候補――がいるというアピールは貴族階級にとっては重要なことだ。
「これから寄宿舎に戻るんだな」
「ええ、でも門限まではまだ時間があります。たまたまここを歩いてよかった! クルト兄さんに会えるなんて」
「それなら寄宿舎まで一緒に行こう」
「ありがとうございます! でもせっかくだから、もう少しどこかでお話したいです!」
「マンセル、初学年は重要だからな。寄宿舎を出てうろうろするのはもっと後になってからだ」
少年の内側から不満がぱっとわきあがる。それはうすい紅を帯びた魔力の気配も帯びていて、クルトは苦笑しながら穏やかな思念を少年に投げた。なるほどこれでは早く領地を出されてしまったわけだ。気分で魔力を開放する癖は――特に不機嫌を開放するのはかなり問題がある。
なだめるように少年の肩を手のひらで軽くなでると、相手の気分はすうっと落ち着いた。マンセルはクルトの弟ではないが、幼いころからよく懐いて慕っている。しかしクルトが幼児のころから強大な魔力を発揮して、ゆっくりと自分なりの制御を覚えていったのに対し、マンセルの魔力はクルトが学院へ入学したころ急速に伸長した。
魔力の伸長する時期には個人差がある。十代に入って急速に魔力が伸びる場合、うまく制御できない者もいる。
マンセルが通常より早く王立学院に入学を許された理由はここにあるが、本人はそれをわかっていないのかもしれない。きっと父もわかっていないのだな、とクルトは内心ため息をついた。まあ、そんなものだ。クルトにしたって王立学院で学ぶまで、野放しにされた魔力の可能性――どちらかといえば悪い方へ転ぶ――のことなど知らなかったのだから。
加えてクルトの父の野心はまだそれなりに健在らしい。
クルトが「王宮出世コース」を勝手におりてから、父は以前ほどあからさまな政治的野心を示すことはなくなった。しかしマンセルについては、父の思考は透けてみえそうなくらいはっきりしていた。学院に早期入学を許されるほど魔力の強い者であれば、卒業後に精霊魔術師の白いローブを着て、クルトが断念した政策顧問になるのも不可能ではない。とすると早めにマンセルの顔を宮廷に見せ、社交界に慣れさせても損はない。
マンセルは見た目だって、悪くないどころか相当な美少年だ。今はクルトより頭ひとつ背が低いが、一、二年もすれば伸びて追いつくにちがいない。首も肩もしなやかで均整がとれ、金髪にかこまれた顔立ちは人形のように整っている。仮に精霊魔術師にならなくても、学院にいるあいだに顔を知られれば、ハスケルに有利な方向で他家と縁談をまとめることもできるかもしれない。
それにしても――とクルトは思う。マンセルは父よりはるかに魔力が強いのだから、クルトの父の下心くらいわかりそうなものである。いや、そんなこともないのか。クルトは少年の眼の輝きをもう一度みつめる。他人の感情の放射を感じることと、それを解釈して理解することは別物だ。
「クルト兄さんは王城では何を?」
マンセルの機嫌はすぐによくなった。隣を歩きながらたずねられても、クルト自身にも何といえばいいのかよくわからない。
「俺は治療師だからね。今回は能力を調べられているだけだ」
ひとまずそう答えるとマンセルは予想もしない言葉を吐いた。
「それって、クルト兄さんのローブが白になるっていう話ですか?」
「なんだって?」
クルトは立ちどまった。寄宿舎はすぐそこで、塀の内側に植えられた木の葉が舗道にもちらほらと舞い落ちている。つられたようにマンセルの足も止まる。
「え――あの……聞いてないんですか? 僕、今日王宮で……」
「それをどこで聞いた」
「あの、お父上に連れられて王宮の中を歩いていた時に白いローブの魔術師が何人か前から来て……思念が聞こえたんです。ほんとです! 僕はそんな気はなくて――ただちょっと、あの人たちが何を考えているかなって……そしたら」
「マンセル」
クルトは思わず道を見渡した。
「そういうのは――盗み聞きというんだ。たしかにおまえはすぐに学院で訓練を受ける必要がある。聞こえたから聞いていいというもんじゃない。聞かれていると悟られなかったのならよかった。よかったが……二度とするな。いや、父がなんといっても王宮に近づくな。訓練されていない魔力の持ち主がうろつくところじゃない。父の屋敷にも近づくな」
「ごめんなさい。だけど、従者のセリムは……」
「領地に帰せばいい。学院に入学したら年齢も身分もないんだ。従者を連れていけないのはご両親にもわかっていたはずだ」
「……はい」
マンセルは小さく返事をした。本気でしょげてしまったのでクルトはすこしあわてた。従者についてはいいすぎだったかもしれないと思いつつ、少年をうながして歩きはじめる。するとマンセルはまた顔をあげた。真剣な青い眸はクルトをしっかりとみつめている。
「でも、クルト兄さん、ローブが白になるというのは絶対に兄さんのことだったんです。だから僕は……」
「マンセル。俺のことだろうとなんだろうと、だめなものはだめだ。わかったな」
「でもクルト兄さんが白を着るのなら僕はすごく――すごく嬉しいです。もともとクルト兄さんはあのローブを着るべき人でしょう? あの人が一緒じゃなければ」
「マンセル」
自分でも思いがけないほど低い声が出た。
「それについておまえが意見できることは何もない」
隣で少年が凍りついたように足をとめた。クルトは意識せずに強い魔力を一瞬、ほんの一瞬だけだが、彼にむけて放ってしまったのだ。あわてて少年の両肩に手を回し、ゆるく抱きしめる。緊張した背中が元に戻るのを感じながら、他人のことはいえないなとクルトは反省していた。どんな理由があっても、未熟な者に向けてやるべきことではない。
寄宿舎の門前でマンセルは小さく頭をさげ、中に入っていった。たしかにこの寄宿舎にマンセルが慣れるのは大変だろう。それはクルトも理解したが、長い学院生活がはじまったばかりだと思うと甘いこともいえなかった。
ダーラムの部屋での幻影といい、妙に疲れる一日だったと思いながらクルトは商店街を抜けた。カリーの店の正面扉は閉まっていたから裏口の鍵をあけて中に入る。ソールは今日は学院に行くといったが、まだ戻っていないようだ。
せっかくなら外で夕食にすればよかったか――などと考えたとき、店の扉が勢いよく叩かれた。
「ソール・カリー?」
強い魔力によって扉の向こう側がわかるというのは、こういうときはしごく便利である。クルトは内側から鍵をあけた。緑の帽子に同色の外套――使者のしるしを着た若い男が立っている。
「ソールさん?」
「いや。急ぎなら代理で受け取ろう。どこの使いだ?」
質素な書状の表には緊急の赤札が貼られていた。使者は王都の南の地名を告げ、クルトは思わず眉を上げた。
ソールの故郷だ。
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