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幕・48 もうしょうがない

「そこはあんまり意識したことなかったな…」 ソラから指摘されて、わかったこともある。 これが見えていた人間たちが目を逸らしていた理由だ。 つまり、ソラのように彼らは感じていたのだ。 身体の方に目は向けられない、もう顔しか見るところがない、と言った態度だった。 なるほど、新しい発見だ。 目を逸らしたまま、改まって、ソラ。 『…提案ですが、お父さん』 「ん、なんだ?」 『気を悪くしないでくださいませね』 慎重に前置きし、きょとんとしたヒューゴを前に、ソラは恐る恐る口を開いた。 『もし、地獄へ帰りたい、と自由を望まれるのであれば』 叱られるのを恐れる子供のように、声はだんだん小さくなる。 『契約者の記憶から、お父さんを消してしまえば、よいのではありませんか』 とうとうソラは俯いてしまった。 『…契約者の人間にはひどいことを言っているかもしれません。ですが、それが一番優しい方法なのではないかと思うのです』 小さくなったソラに、ヒューゴは真面目な顔を向ける。 『そうすれば、お父さんは自由になれます。記憶はなくとも契約は残るかもしれませんが』 不完全となった契約など、魔竜ならばなんとでもできるだろう。 か細い声で、ソラは提案。ヒューゴの目には、怒りも戸惑いも喜びもない。 「―――――俺は悪魔だよ、ソラ」 『はい』 俯いたソラは、上目遣いにヒューゴを見遣った。 果たして、彼は言った。 「それを試さなかったわけがないだろ」 『――――――はい?』 思わずソラは顔を上げ、身を乗り出す。 『まさか、契約者から、お父さんに関わる記憶を消したことが、あるのですか?』 「決まってんだろ。やった、やったよ、三回試した。三回もだ」 なぜか、やりきれない、と憤然としたような、気落ちしたような、複雑な態度で、ヒューゴは強く訴えた。 『…三回…』 ソラは口元を押さえる。すぐには何とも言えない。 まず、思ったことは、―――――なぜ、三回なのだろう? 魔竜が魔法に失敗するなど想像もつかないのだが。 『失敗、したんですの?』 ソラは、真っ先に浮かんだ疑問を不思議そうに口にする。まさか、そんなわけがない。 返事は、当たり前のように、ソラの気持ちを肯定するものだった。 「成功したに決まってんだろ、誰に言ってんだ」 ふんぞり返るヒューゴ。なのにやはり、表情は晴れない。 『申し訳ございません。ならば』 ―――――それでもヒューゴの契約者は記憶を保ち、未だヒューゴは彼のそばにいる。 その、理由はいったい何なのか。 熱心に理由を尋ねるソラの眼差しに、ヒューゴはやりにくそうに頭を掻いた。 「どこからどう何を言えばいいのか…そうだな、俺が契約者から俺の記憶を消したのは」 ヒューゴは深く嘆息しながら、指を三本立てて見せた。 「一回目は、地獄から外へ出ることができた時。はじめて神聖力の鎖で縛られた時だ」 立っていた指の内、一本が折れ、二本残る。 「二回目は、アイツが結婚した時。三回目は、アイツの子供が生まれた時」 ヒューゴの指が、一本また一本と折れた。 それを見つめながら、ソラは首を傾げる。 『一度目の理由は分かりますけれども…』 衝動に、決まっていた。いきなり自由を奪われたのだ。 相手を殺せば済む話だが、子供に甘い魔竜が、当時幼子だった契約者を殺せるわけがない。 ならば契約を交わしたところで、油断を誘い、まだ出会って間もない内に記憶を消した方が傷は浅いと早々に行動したはず。 そして、おそらく。 記憶はきれいに契約者の中から消えたのだ。間違いない。 ―――――ソラの父たる魔竜が操る魔法に、失敗などあり得ない。 完璧な成功しか残らない。 にもかかわらず、結果として、ヒューゴは契約者の記憶を消すことは選ばなかった。つまりは、そういうことだ。 理由は分からないが、彼は、契約者と共にいることをその時は選択したのだ。 きっと、契約者の中から奪った記憶はきれいに戻して。 その上で、―――――再度行動に出た。 『二回目と三回目のタイミング、その時に行動した理由はいったい…あ』 言っている途中で、ソラは気付く。 ―――――だいじな相手ができるタイミングだ。 人間にとって、伴侶や子供は大切な存在だと書物で読んだ。 悪魔とは違う。 魔竜は、契約者の記憶を消すことを、一度は諦めた。 一度諦めたことを、ある時まで待って、改めて実行した、と言うことは。 おそらく問題は、契約者にある。それも、魔竜に関する記憶を失った契約者に。…記憶を戻さなければならないような問題が、起きたのだ。 魔竜に関わる記憶を失った時、果たして、彼の契約者はどうなったのか? 『…お父さんの記憶をなくした契約者は、いったい、どうなったんですの?』 ―――――彼に何が起きたのか? 「察しがいいな」 そこなんだよ、と言いたげな顔で、ヒューゴは嘆息。次いで、言いにくそうに告げる。 「壊れた」 『?』 ソラは首を傾げた。ヒューゴは苦笑い。 「壊れたんだよ」 はあ、とひとつ息をつき、彼は言葉を継いだ。 「よく分からねえが、俺と出会う寸前、アイツはきっとぎりぎりだったんだ。心が崖っぷちに立ってた」 分からないなりに、ソラはヒューゴの言葉に真剣に耳を傾けた。 いいや、誰であろうと、特に地獄で魔竜の結界内にいる悪魔たちは、一体たりとて、魔竜の言葉を一言も聞き漏らしたりはしない。 「限界のところで、俺がかろうじで間に合った。俺とアイツの出会いは、そういう、状態で起こったんだと思う。俺をすっかり忘れたアイツは、言葉を話さなくなった。食事をとらなくなった。何もかもに興味を失って、…なあ?」 ヒューゴは悲し気な表情になった。反面、強く握り締めた拳は、怒りを圧し潰すかのようで。 「神聖力の鎖の縛りは弱くなったけど、あれで、放っとけるわけねえだろ。二度目も三度目も同じだった。慌てて記憶を戻してやってさ…こうなっちまったら、もうしょうがねえよ。アイツには怒れない。俺が腹が立ったのは、子供をそこまで追い込んだ大人たちに対してだ」 ソラは何も言えなかった。事情を聞けば、彼女も魔竜の契約者が気の毒にも思う。 ―――――それでも。 やはり、大切な魔竜を奪われた心地が強く、魔竜の契約者が恨めしい。 それに、何やら嫌な予感がするのだ。 (このまま、お父さんを中間界に残しておいて、いいのかしら)

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