64 / 215
幕・64 剣で勝負
リュクスに報告を、と思ったが、彼は国の宰相だ。
約束もないのだから、会うのも難しいだろう。
だめなら、あの部署の人間か、もしくはヒューゴに、連絡をしなければ。
エイダンは、扉の前でいっとき立ち止まった。外の様子を窺う。
だが、戦いと言う面では鍛えたことのないエイダンが、見えもしない外の様子を把握することは難しい。
しばらく、待って。
ままよ、と飛び出した、その腕を。
「…きさま」
騎士の外套が掠めた。
エイダンは聴こえなかったフリで、一目散に駆け抜ける。
声で分かった。さきほど、貴族たちを殺したあの騎士だ。
一緒にいた貴族の青年と、最初にいた見張りの騎士はいない。
どこに行ったかは知らない。
が、外にいたのが一人だけだったことは、運がいい。
誰もいないのが一番よかったけれど、そこまで望むのは贅沢だろう。
「待て!」
鋭い声に、エイダンの身体が、びくっと跳ねた。
だが、間違いない、足を止めれば殺される。
エイダンは、背負っていた籠を投げ出した。証拠品が入っているが、背負ったままではエイダンが死んでしまう。仕方がなかった。
宴の人込みに隠れられたら最適なのだが、ここは皇宮内でも、きらびやかな場所からは程遠い北の外れだ。それなら。
(騎士の棟が一番近い…!)
とはいえ、それで、誰かが助けてくれる可能性は低い。むしろ、エイダンが殺される可能性だってある。
ただ、将軍のリカルドとは幸い、ヒューゴを通して顔見知りだ。しかし、おそらく彼は、戦勝の宴に参席する。
代わりにリカルドの部下が、騎士の棟に居残っているはずだ。誰か、エイダンを覚えている者がいてくれたらいいのだが。
騎士たちが常駐している棟へ向かったのは、それでもエイダンにとっては、ほとんど賭けだった。
地下牢から騎士の棟までの間は、木々で埋め尽くされている。
「く…っ」
背後で、苛立った声が上がった。
木が邪魔をして、剣を振り回すことができないからだろう。
捕まることだけはないように、できる限り予測できない動きで逃げることにエイダンは注力した。
追ってくる気配に泣きたいくらい怯えながら、震える足を叱咤して、必死に騎士の棟へ向かう。
やがて肩で息をし始めた頃、
「あ…っ」
木が、途切れた。
夕暮れ時、茜色の光の中を、濃い影を引き連れながらエイダンは全力で駆け抜ける。
騎士の棟は目の前だ。
だが、木々の間から追手が出てくる前に、隠れなければ。
こんな何もないところで追いつかれてしまえば、抵抗のしようもない。
塀と塀の間に身体を押し込みながら、エイダンは泣きそうな心地で思う。―――――すぐ目の前なのに、飛び込めない。その距離がもどかしかった。
「くそ、どこに行った…!」
離れた場所から、あの騎士が、悪態をつくのが聴こえた。
(どうか、こっちに来ませんように…っ)
いくら隠れたと言っても、目の前を通られては一巻の終わりだ。
エイダンがいる場所から、追手の影が見えた。今、伸びたその影は、エイダンからは、頭の部分が見えている。
それが、首、肩、と進んでいくにつれ、悲鳴を上げそうになり、エイダンは口を両手で覆った。冷や汗が顎を伝った、その時。
目の前に見える騎士の棟から、ひょいと誰かが出てきたのが見えた。
ろくに息も吸えず、霞みそうになる視界と意識の中、震えながらエイダンが認めたその姿は。
どうしても本能的に恐怖してしまう―――――だが、誰よりも頼れる姿。
とたん、エイダンの鳶色の目が輝いた。だが。
追手の騎士は、すぐそばにいる。新たに現れた騎士は、遠い。
今から駆け出してもきっと、間に合わない。
―――――だが、声なら!
思うと同時に、エイダンは叫んだ。
「ヒューゴさん、助けて!!」
「そこか!」
追手の騎士は、その時、もう目の前にいた。怯え切った顔を上げると同時に。
エイダンは、自分に振り下ろされた剣を見た。
目を固く閉じ、頭を庇って小さく縮こまって衝撃を待ち―――――、
「おぅ」
目前になった死に、敏感になった意識の端っこに、飄然とした声が届く。刹那。
―――――ギィンッ!
鋼同士がぶつかる音。衝撃に、鋭く火花が散った。
へたりこんだエイダンが、咄嗟に顔を上げた先に見えたのは。
真新しい騎士服に包まれた、頼もしい、背中。
「あぁ? …なんだ?」
振り下ろされた剣を、掻い潜るように低い姿勢で受け止めたヒューゴは、相手を見上げてせせら笑った。
「また奴隷虐めかよ、クライヴくん?」
「きさま…っ」
クライヴ・ハウエル。皇后直属の第一騎士団所属の騎士。
彼がたった今、エイダンに剣を振り下ろした男だ。
(なるほど、それなりに使える。だが)
目を合わせ、ヒューゴは手首の動き一つで、合わせていた相手の剣を斜め下へ流した。
唐突にバランスを失ったところへ、
「…く!」
腹へ膝をたたき込もうとしたのだが、相手もさるもの、後ろへ跳んで避ける。
「…野蛮だな!」
剣でなく、足を使ったことを言っているようだ。
ヒューゴはつい、鼻で笑う。命懸けの戦いにおいて、野蛮も何もない。勝てば正義だ。
「野蛮な相手だと勝てないか?」
不敵に返せば、ひやりとした表情で、クライヴが剣を構えながら肩を引いた。
「…なんだ? お前…」
まるで始めて見る相手を前にした態度で、彼は蒼白になる。
「お前が、本当にあの奴隷、なのか…? 剣は苦手、だと」
言いさして、語尾を飲んだ。
死神でも見た様子に、自分が剣を握っていることをヒューゴは思い出した。
からかう態度で返す。
「苦手だが、使えないわけじゃない」
エイダンを背に庇ってまっすぐ立ち、剣を構えた。
隙だらけに見えて、まるで攻めどころがない。どころか。
うっかり攻め込めば、攻撃すべてが命の喪失につながる、そんな切羽詰まった危機感に、クライヴはドッと全身に冷や汗をかいた。
「剣で勝負しろってあの時言わなかったか? いいぞ、今してやるよ」
ヒューゴはあくまで自然体。だが。
既にクライヴの目には、ヒューゴが人間の姿として映っていない。
巨大な岩の壁―――――もしくは飛び込んだら戻って来られない死の淵に見えた。
構えた剣先が揺れる。
その時。
「…ん?」
ヒューゴが顔をしかめた。クライヴから視線を外す。とたん。
彼は弾かれたように踵を返し、駆けだした。やってきた方向へ脱兎の勢いで駆け戻っていく彼の姿は、もうヒューゴの目に入っていない。
向き合うなり、戦意を喪失したクライヴはとっくにヒューゴの敵ではなかった。
それより。
構えを解き、剣を鞘に納める。
「変な気配がする…なんだこれ」
ここのところ、こんなの続きだな、とクライヴが消えた方へ顔を向ければ。
「ヒューゴさん、変な気配って…向こう、ですか?」
「ああ。あっちにあるとしたら、捕虜を収容してる地下牢、だよな。それ以外は特に」
「―――――ヒューゴさん!」
腰を抜かしたか、座り込んだまま、いきなりエイダンはヒューゴの前へ這って回り込んできた。
「うお、どうしたっ?」
運んでやろうか、と両手を伸ばし、子供のように抱え上げようとすれば、エイダンは必死に首を横に振る。
「ぼ、ぼくのことより、すぐ、捕虜がいる地下牢を見てきてください。彼らが、変な薬物を飲んだ可能性があります。それがどんな変化を起こすか分かりませんが、嫌な感じがするんです」
ヒューゴは真剣にエイダンを見下ろし、次いで、クライヴが消えた方を見遣った。
すぐ、エイダンに顔を戻し、尋ねる。
「手短に、詳しく」
ともだちにシェアしよう!