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幕・64 剣で勝負

リュクスに報告を、と思ったが、彼は国の宰相だ。 約束もないのだから、会うのも難しいだろう。 だめなら、あの部署の人間か、もしくはヒューゴに、連絡をしなければ。 エイダンは、扉の前でいっとき立ち止まった。外の様子を窺う。 だが、戦いと言う面では鍛えたことのないエイダンが、見えもしない外の様子を把握することは難しい。 しばらく、待って。 ままよ、と飛び出した、その腕を。 「…きさま」 騎士の外套が掠めた。 エイダンは聴こえなかったフリで、一目散に駆け抜ける。 声で分かった。さきほど、貴族たちを殺したあの騎士だ。 一緒にいた貴族の青年と、最初にいた見張りの騎士はいない。 どこに行ったかは知らない。 が、外にいたのが一人だけだったことは、運がいい。 誰もいないのが一番よかったけれど、そこまで望むのは贅沢だろう。 「待て!」 鋭い声に、エイダンの身体が、びくっと跳ねた。 だが、間違いない、足を止めれば殺される。 エイダンは、背負っていた籠を投げ出した。証拠品が入っているが、背負ったままではエイダンが死んでしまう。仕方がなかった。 宴の人込みに隠れられたら最適なのだが、ここは皇宮内でも、きらびやかな場所からは程遠い北の外れだ。それなら。 (騎士の棟が一番近い…!) とはいえ、それで、誰かが助けてくれる可能性は低い。むしろ、エイダンが殺される可能性だってある。 ただ、将軍のリカルドとは幸い、ヒューゴを通して顔見知りだ。しかし、おそらく彼は、戦勝の宴に参席する。 代わりにリカルドの部下が、騎士の棟に居残っているはずだ。誰か、エイダンを覚えている者がいてくれたらいいのだが。 騎士たちが常駐している棟へ向かったのは、それでもエイダンにとっては、ほとんど賭けだった。 地下牢から騎士の棟までの間は、木々で埋め尽くされている。 「く…っ」 背後で、苛立った声が上がった。 木が邪魔をして、剣を振り回すことができないからだろう。 捕まることだけはないように、できる限り予測できない動きで逃げることにエイダンは注力した。 追ってくる気配に泣きたいくらい怯えながら、震える足を叱咤して、必死に騎士の棟へ向かう。 やがて肩で息をし始めた頃、 「あ…っ」 木が、途切れた。 夕暮れ時、茜色の光の中を、濃い影を引き連れながらエイダンは全力で駆け抜ける。 騎士の棟は目の前だ。 だが、木々の間から追手が出てくる前に、隠れなければ。 こんな何もないところで追いつかれてしまえば、抵抗のしようもない。 塀と塀の間に身体を押し込みながら、エイダンは泣きそうな心地で思う。―――――すぐ目の前なのに、飛び込めない。その距離がもどかしかった。 「くそ、どこに行った…!」 離れた場所から、あの騎士が、悪態をつくのが聴こえた。 (どうか、こっちに来ませんように…っ) いくら隠れたと言っても、目の前を通られては一巻の終わりだ。 エイダンがいる場所から、追手の影が見えた。今、伸びたその影は、エイダンからは、頭の部分が見えている。 それが、首、肩、と進んでいくにつれ、悲鳴を上げそうになり、エイダンは口を両手で覆った。冷や汗が顎を伝った、その時。 目の前に見える騎士の棟から、ひょいと誰かが出てきたのが見えた。 ろくに息も吸えず、霞みそうになる視界と意識の中、震えながらエイダンが認めたその姿は。 どうしても本能的に恐怖してしまう―――――だが、誰よりも頼れる姿。 とたん、エイダンの鳶色の目が輝いた。だが。 追手の騎士は、すぐそばにいる。新たに現れた騎士は、遠い。 今から駆け出してもきっと、間に合わない。 ―――――だが、声なら! 思うと同時に、エイダンは叫んだ。 「ヒューゴさん、助けて!!」 「そこか!」 追手の騎士は、その時、もう目の前にいた。怯え切った顔を上げると同時に。 エイダンは、自分に振り下ろされた剣を見た。 目を固く閉じ、頭を庇って小さく縮こまって衝撃を待ち―――――、 「おぅ」 目前になった死に、敏感になった意識の端っこに、飄然とした声が届く。刹那。 ―――――ギィンッ! 鋼同士がぶつかる音。衝撃に、鋭く火花が散った。 へたりこんだエイダンが、咄嗟に顔を上げた先に見えたのは。 真新しい騎士服に包まれた、頼もしい、背中。 「あぁ? …なんだ?」 振り下ろされた剣を、掻い潜るように低い姿勢で受け止めたヒューゴは、相手を見上げてせせら笑った。 「また奴隷虐めかよ、クライヴくん?」 「きさま…っ」 クライヴ・ハウエル。皇后直属の第一騎士団所属の騎士。 彼がたった今、エイダンに剣を振り下ろした男だ。 (なるほど、それなりに使える。だが) 目を合わせ、ヒューゴは手首の動き一つで、合わせていた相手の剣を斜め下へ流した。 唐突にバランスを失ったところへ、 「…く!」 腹へ膝をたたき込もうとしたのだが、相手もさるもの、後ろへ跳んで避ける。 「…野蛮だな!」 剣でなく、足を使ったことを言っているようだ。 ヒューゴはつい、鼻で笑う。命懸けの戦いにおいて、野蛮も何もない。勝てば正義だ。 「野蛮な相手だと勝てないか?」 不敵に返せば、ひやりとした表情で、クライヴが剣を構えながら肩を引いた。 「…なんだ? お前…」 まるで始めて見る相手を前にした態度で、彼は蒼白になる。 「お前が、本当にあの奴隷、なのか…? 剣は苦手、だと」 言いさして、語尾を飲んだ。 死神でも見た様子に、自分が剣を握っていることをヒューゴは思い出した。 からかう態度で返す。 「苦手だが、使えないわけじゃない」 エイダンを背に庇ってまっすぐ立ち、剣を構えた。 隙だらけに見えて、まるで攻めどころがない。どころか。 うっかり攻め込めば、攻撃すべてが命の喪失につながる、そんな切羽詰まった危機感に、クライヴはドッと全身に冷や汗をかいた。 「剣で勝負しろってあの時言わなかったか? いいぞ、今してやるよ」 ヒューゴはあくまで自然体。だが。 既にクライヴの目には、ヒューゴが人間の姿として映っていない。 巨大な岩の壁―――――もしくは飛び込んだら戻って来られない死の淵に見えた。 構えた剣先が揺れる。 その時。 「…ん?」 ヒューゴが顔をしかめた。クライヴから視線を外す。とたん。 彼は弾かれたように踵を返し、駆けだした。やってきた方向へ脱兎の勢いで駆け戻っていく彼の姿は、もうヒューゴの目に入っていない。 向き合うなり、戦意を喪失したクライヴはとっくにヒューゴの敵ではなかった。 それより。 構えを解き、剣を鞘に納める。 「変な気配がする…なんだこれ」 ここのところ、こんなの続きだな、とクライヴが消えた方へ顔を向ければ。 「ヒューゴさん、変な気配って…向こう、ですか?」 「ああ。あっちにあるとしたら、捕虜を収容してる地下牢、だよな。それ以外は特に」 「―――――ヒューゴさん!」 腰を抜かしたか、座り込んだまま、いきなりエイダンはヒューゴの前へ這って回り込んできた。 「うお、どうしたっ?」 運んでやろうか、と両手を伸ばし、子供のように抱え上げようとすれば、エイダンは必死に首を横に振る。 「ぼ、ぼくのことより、すぐ、捕虜がいる地下牢を見てきてください。彼らが、変な薬物を飲んだ可能性があります。それがどんな変化を起こすか分かりませんが、嫌な感じがするんです」 ヒューゴは真剣にエイダンを見下ろし、次いで、クライヴが消えた方を見遣った。 すぐ、エイダンに顔を戻し、尋ねる。 「手短に、詳しく」

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