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幕・71 漆黒の刃

(まさか、一人で来たのか? 普通、聖女ともなれば、誰かがついてるもんだろ…!) とはいえ、違和感がある。 聖女エミリアは賢い。 くるくる変わる周りの状況を過たず判断し、正しく対応できる人物のはず。 それが、なぜ―――――前線近くにいるのか。 残すは掃討のみとはいえ、軽率な行動だ。 ふらふらと意味もなく出てくる女性とは思えない以上、彼女がいた場所で何かが起きたと考えるのが自然だが。 まさか、彼女が控えていた場所にも、異形が現れたのだろうか? 当たり前だが、戦場で紳士など存在しない。弱者は餌食になるのみだ。 騎士の包囲からこぼれ落ちた異形が、荒い息を吐きながら、複数、エミリアへ殺到。近くに騎士はいる。が、間に合わない。 痛みを予測してか、小さく身を縮める彼女の眼前。 ―――――ぎりぎり、ヒューゴが間に合った。 獣のように四つ足で、声なく迫る異形たち。 彼らに後ろから追いすがる形で、ヒューゴは踏み込んだ。 蜘蛛の足のように不自然に折れ曲がった手足を、駆け抜けざまに草でも刈るように剣で薙ぎ払う。 手足をなくし、胴体のみでつんのめる異形たち。 その間をすり抜け、ヒューゴは聖女の身体を掬い上げるようにして抱き上げる。 (あとで罵倒されるんだろうなあ!) 聖女は万人にお優しいが、ヒューゴにだけは別だ。 彼が悪魔であるゆえに、その魔力の波動が彼女には受け入れがたいらしい。 エミリアのドレスの裾が、日が落ちた夜の闇に、白くたなびく。 土の上、駆け抜けた勢いを消すように滑り、ヒューゴは振り向きながら、倒れた異形たちと向き直る。 聖女をその場にそっと下ろして、 「…どうなってんだ?」 異形を見つめ、呟いた。 異形と向き直った刹那、気付いたからだ。 彼らの、顔らしきところが濡れている。 それが眼球のある位置から流れた体液のせいだと気付いた時には、ヒューゴは彼らに肉薄していた。斬りこむような声で、告げる。 「泣くなよ。自業自得だろ」 そう、異形たちはあろうことか、泣いていたのだ。 (やっぱりこれ…、人間だよなぁ) できれば殺したくはなかったが、殺さなければ、ヒューゴは無事でも他の誰かが死んでいた。 ただの人間であったなら、生かして捕らえられたが、今回ばかりは相手が悪かった。 宴の場へ近寄らせるわけにはいかない。 ヒューゴの腕の先で、肉体の一部のように、剣が躍った。 それに合わせて、異形たちの首が飛んだ。 目の端にそれを映しながら、剣で心臓を貫く。ぽつり、呟いた。 「…無念だろう、ね」 こんな訳の分からない死に方をして。それとも、憎い帝国へせめて一矢報いることができたと、歓喜するだろうか。…もしくは。 (―――――ここで阻まれると思わなかったから、無念なのかな) ばた、―――――…ぼたぼたぼた…っ。 血の雨が降り、鈍い音を立てて、首が落ちた。 こういう一方的な戦いは、ヒューゴの好みではない。 対等の、力と力。 それらを全力で振るい、頭を使いながら、いかにして相手の能力を暴き、削いでいくか。 鎬を削り合う勝負以外は、戦いなどと呼べるものではない。 その、気に食わない戦いが、そろそろ終盤に差し掛かっている。 顔を巡らせたヒューゴが、小さく息を吐いた、その時。 ―――――とんっ。 背中に、軽い衝撃があった。 進行方向を間違った小動物にぶつかられた程度の、感覚。しかし、それを感じると同時に。 「…え?」 下を向いたヒューゴの目に―――――彼の胸の真ん中から、刃が生えているのが映った。 闇の中でも、ヒューゴの濃紺の目は、しっかりと周囲の光景を捕らえる。 その刃も、はっきり見えた。 刃先は、漆黒。 視界の中、それが、ヒューゴの血に濡れ、輝く。 痛みが、鼓動に合わせて、ヒューゴの全身に広がった。 そのくせ、頭は変に冷静になり―――――記憶の底から、ふっと囁く声が湧き上がる。 ―――――この命で封印する他ない。 閃くように、確信が、ヒューゴの胸を貫いた。 刃の、この漆黒。 これを、ヒューゴは知っている。 一瞬、思考が空白になる。その間隙に、 (刺された) 何が起こったかを理解。見えた刃に対する衝撃に気を取られながら、ヒューゴの肉体は、反射で動く。 刃もそのままに、跳んだ。前方へ。 咄嗟に距離を取る。自身を刺した相手と。 そこで、ようやく振り向いた視線の先。 そこに、いたのは。 「―――――…聖女…っ」 ヒューゴの声に殴られたかのように、びくり、彼女の身が震える。足元がふらついた。 その彼女を、咄嗟に、そばにいた青年が支える。 彼が着た外套の端からこぼれたのは、輝くような白金の髪。 翠玉の瞳が、最大限の警戒を宿し、視線でヒューゴを射抜いた。 言われなくとも、その青年が『何』か、ヒューゴにはわかる。 「御使いか…!」 思わず、ヒューゴは唸るような声をこぼした。 それだけで、空間が歪むような、猛烈な魔力が放たれる。また、聖女が悲鳴を上げた。 薄いガラスでも砕けるように、彼女が張った魔力封じの結界が粉々に弾けたからだ。 それは、すなわち。  ―――――魔竜にとって、聖女程度の神聖力は脅威にもならないと言うこと。 蒼白な顔で蹲った彼女を守るように、御使いの青年が聖女のそばに跪いた。 御使いの青年を見るなり、猛烈な怒りが、ヒューゴの腹の底から沸き上がる。 冷静さをなくしたせいで、力の制御に穴ができるが、それよりも。 伝えなければならないことがあった。 胸を貫いた刃。 そこから、じわりと血が染みていく。 痛みがないわけではない。 だが、仁王立ちになったヒューゴは思わず、古代語で怒鳴りつけだ。 『御使いがついていながら、なんという体たらくか…!』 状況は酷く悪かった。 ヒューゴから見れば、最悪だ。 己が刺されたことなど、問題にもならない。聖女が刺したということもだ。 問題は一つ。 聖女が使用した刃だ。この、刀身は。

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