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幕・98 悪魔・混沌
『よお、チビ』
聴覚を震わせたのは、濁った声。
湖の真ん中でしどけなく座していた女は、どこを見ているとも知れなかった紺碧の瞳の焦点を、ゆっくりと合わせた。
月のように豊麗な面差しに影が差す。
伏せた睫毛がゆっくりと持ち上がった。
しょうがない、と何かを諦めた態度で立ち上がれば、さらり、青銀の髪が肩から滑り落ちる。
背を真っ直ぐ伸ばし、夢のようにうつくしい姿で、水面の上、彼女は振り向いた。
『…何用でしょうか、混沌の御方』
『何用でしょうか~、じゃ、ねえよっ、すました面晒すな、本気で腹立つ。お前、…会ったんだろぉ?』
色々とすっ飛ばした相手の物言いに、つい、彼女は顔をしかめる。
『わたしは、チビやお前ではありません。ソラという名前があります』
『知ったことかよ、誤魔化すんじゃねえ』
苛立つ混沌の気配に、結界内の生物たちが震えあがるのが分かった。
ソラは深いため息をつく。
彼女は特に何かを誤魔化しているつもりはない。
混沌の呼び方が本当に不快なだけだ。
思えばこの悪魔は、最初からこうだった。
これが、混沌という上位の悪魔。
きちんと理解しているとはいえ、嫌なものは嫌なのだ。
なぜ父が、ずっとこの悪魔と付き合いを続けているのか、本音で理解できない。
『仰る通り、お父さんと会いました。それが何か』
『何か、だあ?』
混沌の声が、いっきに低くなる。
不穏当な気配が嵐のように渦巻いた。
ソラは平然と向き合ったが、地獄において、ふしぎと聖域と呼んで差し支えない魔竜の結界の中で過ごす一族たちが一斉に怯えて身を伏せたのが分かる。
『大概にしとけよ、塵芥が』
混沌は声を荒げたわけではない。
だが一時、ソラは死ぬもしれないという心地に陥った。
まして、いつものような恫喝の響きは、その声には全くこもっていなかった。
精霊王と称しても大げさではない存在のソラに対して、塵芥など暴言を吐けるのはそう多くない。
だが確かに混沌は、それに値するのだ。
『おい、簡単に死ぬなよ、きさまは一応、あのバカの娘だ。死んだりしたらまたアレは長年泣き喚く』
混沌自身、思わぬ力の発露だったか、バツが悪そうに威圧を引っ込めた。
『まだ死んでないな? よーしよし、ふぅ、焦ったぜ』
混沌の自分勝手な声を聞きながら、ソラのかりそめの肉体がよろめく。
肩で息をする彼女の視界の端に、何かが映った。
『…ああ』
ふらつき、存在の核を圧し潰そうとするような感覚に、乗り物酔いに似ためまいを覚えながらソラは呟く。
『招き入れたのは、貴方でしたか』
混沌は、魔竜の結界内へは入れない。
魔竜がそのように定めた。
ソラが誕生したばかりの日、混沌が彼女を泣かせたからだ。
ただし。
中から招き入れる者がいれば、別。
樹齢千年は越す大木の根元に、彼はひそりと立っていた。
混沌の威圧をものともせずに。
いや、もし彼が、身に何も纏っていなければ、いくらなんでも無事では済まなかっただろう。
ただ彼はずっと身に着けているはずだ。
幼子の頃、あやしてもらっている最中に、夢中になって剥いでしまった魔竜の鱗を。
彼こそが、凶悪狂暴で知られる悪魔たちですら避けて通る、魔竜の一族と呼ばれる存在の長。
『御方』
彼は眉をひそめ、混沌に言った。
『ソラさまを傷つければ、もう二度と我ら一族はあなたの言葉に耳を傾けません』
『まあそう怒るな。ちょっとした事故だ、事故』
混沌は彼に苦い態度で応じた。
あの混沌も、彼のことは苦手らしい。
彼がこの場へ混沌を招き入れた理由を察し、ソラは諦念の中目を閉じる。
彼の姿は、悪魔と言うより、人間に近い。
いや、人間そのものだ。
しかもとびきりうつくしい。
ただ、人間に比べて、耳が長く、笹のようで、肌のところどころに岩のような鱗が生えている。
その鱗すらうつくしいのだと、魔竜は彼らの美を愛でた。
とはいえ。
最初は美しいと言うより、やせ細り、がりがりで、暗く陰気な一族だった。
ボロボロで汚く醜悪だった彼らを魔竜が結界内へ匿ったのは、哀れだったからだろう。
それが。
魔竜が守護し、自身のものを惜しげもなく与えていくうちに。
彼らは変化した。
生き残るのに必死で、ずるがしこいばかりだった知能が、聡明と呼べるほどのものになり。
互いを思い合い、守り合い、一丸となって戦う、個の力を重んじる悪魔にしては珍しい、集団として力を発揮する一族が誕生した。
家畜化した悪魔を駆って彼らは戦闘の場に立つが、その上で、互いの魔力を増幅し合って魔法をふるう。
そういった過程を経て行くうちに、彼らは<均衡>というものを重視するようになっていった。
心身が整えば整うほどに、魔力は高まる。
容姿が整っていることもその一助と考えたようで、彼らの中では最上の<均衡>は美に通ずるとされていた。
一族としての歴史が深まるほどに、彼らの美はその魔力と共に粋を極めて行くようだ。
それは、誘惑のためというよりも、地獄で生き残るためというのだから、徹底している。
彼らにとって、美とは、力なのだ。
『な、ソラ。わかるだろ? オレさまは単に魔竜が心配なんだよ。コイツだってそうだ』
一族の長を示し、混沌は哀れっぽい声で続けた。
『お前はいいさ。会えたんだからな。けどよ、会えないまま、噂だけ聞いてりゃ落ち着かねえのは当たり前だと思わないか』
曰く、魔竜は神聖力の鎖でがんじがらめ。
曰く、魔竜は人間から奴隷扱い。
曰く、魔竜は今にも死にそうな状態。
ソラは姿勢を立て直し、半眼で混沌を見遣った。
『とても楽しそうに仰いますね』
ぷぷぷっ、と、とたんに混沌は楽し気に笑う。
『分かるか? だってそうだろ? あの魔竜が! 一回見物してこなきゃなあ? もし噂が本当だったら』
混沌は、漆黒の翼を広げ、高く飛翔。
『オレさまの本体を出して帝国を潰す』
その一言だけ、いっさいの感情が抜けた声で告げ、
『いいから、チビ』
くるり、湖の上で混沌は旋回。
『中間界への道を開けろ』
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