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幕・112 百点満点の答え
「裏って言うのか」
ヒューゴはまたディランの頭を撫でた。ディランが顔を上げる。その目を覗き込み、
「今回のディランの話がなければ―――――本当は、リヒトが皇都へ視察に出る流れができてたみたいだよ」
ディランは不思議そうに目を瞬かせた。
「それって」
フィオナは眉をひそめる。
「…オリエス皇室の力が…神聖力が必要になる場面があるってこと? 皇都内で」
リヒトとディラン、二人の共通点は、神聖力の高さにある。
リヒトの子供たちの中で、ディランが一番、神聖力が高い。
無論、まだ幼いこともあり、それでなくとも歴代随一とされるリヒトと比べれば海と雨粒一滴ほどの差があるが、ディランの神聖力も別格だ。
「俺も今気づいたけど」
ヒューゴは外を指さした。
「原因はこれだ―――――呪詛の気配がする」
「なんですって?」
普通の人間には感じにくいだろうが、ヒューゴにははっきり感じ取れる。なにせ。
人間にとっては毒にしか過ぎない呪詛は、悪魔にとっては、
(栄養剤なんだよなぁ)
消すのは惜しい。
なかなか華々しい術式が、完成間近である感覚に、勿体ない気がしてならなかった。
できるなら、発動しようとしているこれ全部、ヒューゴにくれないだろうか。全部が無理なら、少しだけでも。
しかし、このまま放っておけば、皇都の民が危険にさらされる。
ヒューゴに選択肢はない。仕方がなかった。
「正確に術式を組んでる。編み物みたいに、一目一目丁寧に。完成間近ってところかな」
行けばわかる、とリヒトは言った。こういう状況だとは。
そしてすべてをあの場で話さなかった理由にも密かに納得がいく。
フィオナを見遣る。彼女は厳しい目で外を見ていた。
「呪詛が目的なのかしら、それとも―――――皇帝を皇宮の結界から引きずり出すのが目的の術式かしら」
「俺もそこまでは分からないよ。リュクスあたりは見当がついてるだろうと思うけど」
フィオナはヒューゴを一瞥。
「何も聞いてないの?」
「仲間外れはよくあるんだ。なのに巻き込まれる」
実際、情報を共有していないのに、渦中へ放り込まれた経験は何度もある。
正直なところを言えば、ヒューゴに嘘がつけないからだ。
そのため、変に知っているより知らない方がうまく行くことが多かった。
今回とてそうだ。
ヒューゴが情報をほとんど得ていないことは事実で、ゆえに。
フィオナにとって、ヒューゴはリヒトたちの共犯者という認識にはならない。もしそうなれば、フィオナは頑なになったろう。
「けどおそらく、事情をだいたい察してるリュクスが、リヒトを外へ出すのを渋ったってことは」
「…陛下狙いの可能性が高いのね」
フィオナは、はかなげな印象の唇を、きゅっと引き結んだ。
「でもディランを代わりにするなんて」
「ああ、そこは」
ヒューゴは腹立たしさを湛えたフィオナの碧眼に微笑んだ後、ディランの顔を覗き込む。
「ディランはこの話を聞いて、どう思う?」
四歳の子が、どれだけ理解したかは分からなかったが、ディランは満面の笑みを浮かべ、意外と的を射た言葉で答えた。
「ぼくの力が皇都のひとたちの役に立てるなら嬉しいです」
優等生の回答である。
悪魔としては、もう一押し欲しいところだ。
「で、本音は」
意地悪のつもりではなく、子供らしい言葉がほしくて突っ込んでしまったのだが。
「えっと」
自分の膝をさすり、ディランははにかんだ。
「母上と一緒にお出かけできるのが嬉しいです」
―――――百点満点の答えだった。
フィオナを見遣れば、口元をおさえて潤んだ目をしている。可愛かろう。
「お母さんは息子が可愛すぎて毎日死にそうだってさ」
「か、勝手なこと言わないでっ」
「死んじゃダメです、母上っ」
噛みついてくるフィオナと、狼狽えるディラン。
ヒューゴは思わず笑い声を立てた。
馬車の中が、ひとしきり賑やかになる。
昔聞いた話では。
フィオナは自分が可愛くないと思っている。
だから、ディランの可愛さはリヒトの遺伝子によるものだと考えているようだ。
リヒトも大概可愛さとは無縁と思うのだが。
―――――あるひとに対してだけは、あの方、本当、別人みたいな態度だから。
そんなことを真剣に言った頃から、フィオナはリヒトの暗殺を半分諦めた気がする。
もちろん、グロリアに対する反発もあっただろうが。
「とにかく、皇都に神聖力が必要な状況なのは分かったわ」
フィオナは咳払い。
「なのに、こんなにのんびりしてていいの」
「今日、ディランが出歩くことで、神聖力がばらまかれる。それで術式は乱れるから、焦ることもないよ。…だれがやったか、突きとめられたらなおいいけど」
フィオナは薄気味悪そうに外を見遣った。
「…ひとまず」
一度頭を振り、彼女は冷静に指示。
「『目』は潰して。覗き見される趣味はないわ」
呪詛の術式の痕跡を追っていた目を、ヒューゴはこの馬車を追ってくる『目』に向けた。
「公務の状況を見せつける必要もないってことだね」
「意味はないと思うのよ」
「分かった」
相手に何かを見せたくて、『目』を残しておくこともあるのだが、フィオナの目的は、それではないようだ。
返事と同時に、ヒューゴは『目』を始末した。
「助かるわ。さすがに、その辺りのことはあたしじゃ分からないし、皇室は魔塔を重用していても魔法使いを遠ざけているからね、信頼のおける魔法使いを雇いたくても、難しいのよ。新規で雇うとなれば人柄が見えにくいし」
言い訳のように言葉を紡ぎ、フィオナは真面目な顔で呟く。
「…陛下が、あなたをつけてくれるなんて予想外だわ」
「そうかな。妥当じゃない? 気心も知れてるし」
フィオナは、身内に裏切られる事件もあり、先日の悪魔が起こした騒動も加え、初見の相手にはどうしても身構えてしまう傾向にある。
それはおそらく、知っている相手に対してもだ。
その点、ヒューゴなら、彼に成りすませる相手などどこにもいない上、フィオナとの相性もよく、リヒトから見ても、フィオナの精神のためにはヒューゴがつくのが一番と判断したに違いない。
「そうかもしれなけど、陛下だってあなたを傍から離したくないはずよ」
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