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幕・133 レディ・ルシア

× × × 時間を少し遡る。 夕食の時間も間近という頃合いに、フィオナ皇妃は、思わぬ来客を玄関で出迎えていた。 侍女が慌ててやってきたときは、何事かと思ったが、今では納得だ。 ―――――今日の午前中、わたくしが、フィオナ殿下とディラン殿下にお約束したものですわ。 暗い色合いのドレスに身を包み、つつましやかにそう告げた女性が持参したもの。 それは。 ―――――アイス。 「箱を開けるまでは、保冷の魔法がかかっておりますが、開けると魔法の効果が切れて溶けてしまいますので、お早めにお召し上がりくださいな」 そう告げ、完璧な作法で礼をした彼女は、ため息が出るほど美しい女性だ。 だが―――――アイス。 それを帰ったら食べよう、と今日の午前中、約束したのは、誰だったか。 今日はあまりに多くのことが起きて、遠い出来事のようだが、フィオナはしっかり覚えていた。 目の前の女性は、何を隠すことなく、それが自分だと今、はっきりと告げたのだ。 では、この夢のような女性の正体は。 件のものが入れられた籠を受け取りはしたものの、その場でフィオナは固まってしまう。 落ち着け。 自身に言い聞かせつつ、目に中毒症状を起こさせる―――――即ち、彼女の姿を一目見たものは、その姿を見られない日があると彼女の姿に飢えてしまう―――――とまで世間に言わしめた美貌の、目の前の夫人にフィオナはぎこちなく微笑んだ。 「わざわざお越しいただき、感謝しますわ」 返された微笑も、それはそれは完璧だった。 この女性は、レディ・ルシア。 通称、黒の未亡人。もしくは、メレディス夫人。帝国一のレディ。 先々代皇帝の下、大富豪として名を馳せ、先代皇帝がその名を疎んじ、没落したメレディス家当主、幾人もの妻を持った、人間不信にしてへそ曲がりな男、その最後の後妻。 結婚生活はたった半年。 だが、メレディス家当主が他の妻との間にもうけた数多の子よりも年若いその娘は、遺言により、二つの店舗を手に入れた。 ひとつは、表通りの一等地に建つ、パンと菓子の店。 そして、もうひとつ。 帝国の、裏側。 スラム街の、さらに奥まった場所に位置する―――――裏社会の中にあるひとつの店。 空っぽで不安と暴力ばかりが横行し、秩序という名の圧政の締め付けに、表通りの人々が苦しむ中、逆に暗くとも華々しい発展を遂げた裏通りに住む人間たち。 その一等地に建つ廃屋、そのさらに地下。 魔法の明かりに照らされた偽りの輝きの世界で夜中に開店する、情報と欲望と死を売り買いする店。 光と影、それぞれの中で、一番の権勢を誇ったそれらふたつの店舗の女主人が、ルシア・メレディスだった。 彼女は、先代皇帝の治世の下、貴族も平民も無視できない権力を手にしたのだ。 その時、まだ十代だったと推測できる娘。 それが、レディ・ルシア。 ただの娘であったなら、欲望に満ちた大人たちの手で、無残に四肢を引き裂かれ、食い物にされていただろう。 にもかかわらず。 彼女は、賢明に店舗を守り、聡明に誘惑や破滅の手をやり過ごし、当時、一介の皇子に過ぎなかったリヒト・オリエスのただ一人の後見となった。 …それが夫の遺言である、という理由で。 後見人となるには若すぎる娘だったが、余裕の貫録をもって、他を牽制し、皇子を守ったという。 出生も分からぬとされたこの娘は―――――ただひたすら、美しかった。 艶やかな肌は白皙。 潤んだような眼差しは印象的な濃紺。 黒く長いまつ毛は、神秘的な印象を強く彼女にまとわせる。 肉厚の、ぽったりした唇は、吐き出される吐息すら、ひどく甘そうだ。たわわに実った瑞々しい果実のような豊満な胸。蜂のようにくびれた腰。 濃密な夜、そして官能の雰囲気を醸し出す彼女と二人きりになった時、理性を保てる男はどれだけいるだろうか。 慈母のような雰囲気をまとうかと思いきや、微笑む表情は、まるで年端もいかない童女のようで。 彼女がそこに立っているだけで、その場所は夢のような雰囲気に包まれると噂される。 (ただの冗談とか誇張と思っていたけど) 本当だった。 フィオナは内心、白旗を上げた。 しかも、そんなおそろしいほどの美を花開かせたレディ・ルシアの正体が。 (魔竜…だなんて…っっっっ) くらくらする思考に喝を入れながら、フィオナは改めて彼女を見遣った。 魔竜とレディ・ルシアは同一人物。 フィオナに対し、ルシアはそれをひとつも隠す気がないようだった。 …察していても、だめだ。これは、いけない。 好きにしてください、と身を投げ出したくなる。 喉を撫でて愛でてもらえたら、もう何でもして差し上げたくなる。 正体はヒューゴと知っていても、ルシアに対して、彼と同じように気安くなど、とてもではないができなかった。 肌の色が違うだけで、基本のつくりは同じなのに、別人として対応する他できそうにない。 「ありがたく、頂戴いたします」 丁寧に応じたフィオナを前に、ルシアはにこり。 その笑顔がもたらす威力に、フィオナはぐっと堪えた。 下手をすればすぐ口元が緩んで、舞い上がってしまいそうだ。 「できれば少しお話でもと思ったのですが、陛下や宰相閣下、財務と外務の大臣に呼ばれておりますので、残念ですが、これにて失礼致します」 折り目正しく優雅に礼をするルシアに、フィオナは本音で残念な気持ちになった。 ―――――実のところ。 フィオナは、次、ヒューゴと会ったら殴ろうと思っていた。 今日、街中で起きた魔獣騒動。仕掛け人は別にいたようだが、あの場であのような事態に陥ったのは、ヒューゴの行動がきっかけだと聞いた。 告げ口ではない。その場で、本人が真相を語ったのだ。 その時はフィオナも混乱して、ヒューゴの言葉の意味をよくよく理解できていなかったが。 つまるところ、フィオナたちが危険な目にさらされたのは、考えなしに行動したヒューゴのせいだったのだ。 フィオナだけならまだいいが、あの場にはディランがいた。 すべて分かっていて、ヒューゴはやったわけだ。 こういうとき、思い知る。 (やっぱり、悪魔なのね) かと思えば。 「ではまた会える日を、楽しみにしておりますわ」 心からの言葉のように告げるルシアに、フィオナはまた負けた。 変に馬鹿正直なヒューゴのことだ、次フィオナに会えば殴られると理解していただろう。 ゆえに、ルシアとして彼女の元を訪れることは本意ではなかったはず。 (何かあったのかしら…) おそらく、上層部で、ルシア・メレディスが必要になった。そんなところだろう。 ルシアはかつて、危うい政権の中、上手なかじ取りをしながら、リヒトを盛り立てた彼の第一の庇護者である。 とはいえ、今は一線から退き、危うい政権の中辛くも守った己の利権のいっさいを、年若い皇帝にすべて譲った。 そうして今、身体が弱い彼女は、地方で療養生活を送っている、と残念がる声は今も社交界で根強い。 人手不足の一時、外務大臣の仕事を、彼女が一時こなした時期があると聞いていたが、確かに外交ならば、問題ないどころか似合いの仕事だ。 ―――――ルシアの背が見えなくなるまでつい、見送ってしまったことに気付いたのは、一緒にいた女官が咳払いをした時だった。 その時になって、頭が正常に回り始める。 レディ・ルシア。彼女の姿でヒューゴがフィオナへ会いに来た理由。それは。 ―――――彼女とフィオナの関りをにおわせ、わずかなりとも周囲を牽制するためだったのだと。

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