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第1話
しっとりと水を含んだ空気が肌に纏わりつく。濡れた草葉のにおいが青楼の中まで香る。石像鬼(シィーシャングイ)をちろちろと伝う水音も聴き逃さない。これらすべてが雨佳(ユジア)に「今日は雨だ」と教えてくれる。
雨の日は雨佳にとって特別の日だった。今夜も夜陰に紛れて彼は来るだろうか。「石像鬼」と名乗る彼を、雨佳は声でしか識別出来ない。
光もわからない雨佳は、しかし、雨の日にはずっと青楼の角部屋の窓から街道を見下ろしている。石像鬼の彼はどこから来るのだろう、といつも不思議だった。
豪奢な着物と丁寧に結い上げられた鴉の濡れ羽色の髪とは似合わぬ物憂げな表情に、「空が雨佳の代わりに泣いているのだろう」だとか「街道を通る身分違いの男に思いを寄せているのだろう」だとか、身も蓋もない噂話がどこからか湧き出てきた。
噂に引き寄せられるようにして雨の日の街道には、自身が濡れるのを厭わずに雨佳を一目見ようとする男共で溢れる。それで見物料を稼ぐ輩まで出てくるので面白い、と身の回りを世話する扈従は笑っていた。
雨佳は青楼に居るが、女ではない。けれど男の尊厳は捨ててしまった。客が喜ぶ小さな足では碌に室内も歩けない。
その上雨佳は盲目だ。この青楼に売られたとき、眼球をくり抜かれた。竹筒を眼窩に押し当て、ぽん、と押すとぽろりと零れ落ちるのだ。雨佳が最後に見たのは、雨佳と同じ年くらいの幼い少年が無表情で竹筒を握っている姿だった。
空っぽになった眼窩には眼球の代わりに、精巧な義眼が入れられた。どうもその瞳は美術品のようらしく、雨佳を目当てに青楼に訪れる客はみな、「黒翡翠より美しい瞳だ」「深淵を覗くようだ」と言う。生来の長い睫毛に縁取られて憂いを帯びた表情も、客の関心を惹くようで、彼らはこの青楼に大金を落としていった。
夜半、と言っても雨佳にとってはずっと暗闇だが、雨佳は客を満足させて送り出したあと、ふらふらと長椅子に凭れた。足は一歩歩くごとに痛んで、満足に歩くことも難しい。だが客たちはそれがいいと言う。
扈従を退かせて静寂の中にいると、ことり、と微かな物音がした。石像鬼の彼だ、と雨佳にはわかった。わかったけれど、無闇に口を開かない。気付いていない振りをする。
気配は段々と雨佳に近付いてきて、遂に「雨佳」と呼ばれた。その声には雨佳と同じ年くらいの張りがあり、雨佳の知る石像鬼の彼のものだとわかる。雨佳はゆっくりと長椅子からからだを起こした。
「石像鬼」
最近はよく晴れた日が続いたから、会うのは久方振りだった。ゆっくりと石像鬼の手のひらが雨佳の頬を撫でる。
「久し振り」
言葉数の少ない声のする方向と、撫でられた手の角度から、雨佳は石像鬼の彼のいる方向を推察する。そして正面から彼を見据えた。
「今日は何を教えてくれるの?」
眼球を失った痛みで、この青楼に来たばかりの頃の雨佳は毎日泣いていた。そんなある日、雨の日の夜、当時の雨佳と同じくらい幼い声で石像鬼の彼が声をかけてきた。「石像鬼のように醜いんだ」と声に似合わない自嘲をした。
「俺が、雨佳を、この青楼でいちばんにしてあげるから」
すすり泣く雨佳の背中を、幼い手のひらが何度も往復した。
「いちばん?」
雨佳が首を傾げる。
「そういちばん。いちばんきれいで、いちばん聡ければ、もう怖いことなんてないよ」
石像鬼の彼の声は優しかった。そして雨佳は彼に言われるがままに詩歌を覚えた。そんな過去があった。
「もう教えるものなんてないだろう?」
そうだ、もうとっくに詩歌も覚えた。自分で客の喜ぶ詩歌を作ることも出来る。それでも石像鬼はやってきた。やってきて、雨佳に小箱を握らせる。両の手のひらに収まるその箱は、しっとりとした質感で雨佳に懐かしいような気を起こさせる。
「早くこの箱が雨佳に渡せればいいのに」
残念そうな声音で、石像鬼が雨佳から箱を取り上げた。
「まだくれないの?」
最近はこんな遣り取りばかりする。「まだあげられないんだ」という応えを今日も聴く。
「いつくれるの?」
雨佳は正確に石像鬼の手の甲を撫でる。力仕事をする手だ。
「まだ先かな」「そう残念だね」そういう決まりきった応酬を経て、石像鬼の彼は部屋を後にした。
特別耳のいい雨佳は石像鬼の「ごめん」という言葉を聴き逃さなかった。今さら謝られてももう遅い。雨佳の眼玉は戻ってこない。本当は雨佳は小箱の中身を知っているのだ。石像鬼を名乗る彼の顔も知っているのだ。でも彼のために何も知らない振りをしている。知ってしまったら、もう彼は雨佳の元には来ないだろうから。きっともうからからに乾いた雨佳の眼玉も戻ってこないだろうから。
石像鬼と呼ばれている彼に、いつかあのときの苦痛を味合わせなければいけない。
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