7 / 40

ひとりの夜

高岡さんが短期の深夜アルバイトを始めた。 「なんの仕事なんですか?」 「交通整備みたいなやつ。紹介してもらった。ファミレスとかカラオケに比べたら楽そうだし、深夜だから時給いいかなって」 「何時から何時ですか?」 「10時から5時」 「でも朝帰ってきてそっから授業行くのつらくないですか?」 「まあ、なんとかなるでしょ」 結論から言うと、「なんとか」ならなかったのだ。高岡さんは明け方帰ってきて、それから活動を始める。シャワーを浴び、メシを食い、課題に取り掛かる。そして俺が起きる頃には、大体熟睡している。声をかけてもデコピンしても馬乗りになっても起きない。 「高岡さーん、授業いきましょー!」と耳元で叫ぶと「うるせぇ……」と乱暴に振り払われる。こちらとしてもあまり愉快でないので、お先に学校へ向かう。そして帰ってくると、不機嫌そうな寝ぼけ眼の高岡さんに迎えられる。 「……なんで起こしてくんないの……もう夜じゃん……」 「いや起こしましたから。今日も昨日もその前もちゃんと起こしてますよ」 「起きるまで起こしてよ……」 「知りませんよ。アラームでもなんでもかけて自力で起きてくださいよ」 「…………バイト行かなきゃ」 そして高岡さんは家を出て行く。朝帰ってくる。寝る。起きない。それの繰り返し。もう延々延々頭おかしくなるくらい。起こしてよ起こしたよのやりとりは、三日も続けると細胞を壊すくらい悪質なものであると分かる。 バイトはたぶん二週間くらいで満期になる、と随分曖昧なことを言っていた。とっくに三週間目に突入しているが、今日も高岡さんはすれ違いで出掛けて行った。いつもは狭くて仕方ないと感じるワンルームが、実は広すぎることに気がつく。 「……なんなんだよあの人……」 テーブルには、俺が学校に行っている間に食べたのか、カップ麺の空き容器と汚れた箸とコップが残されたままだった。この程度の片付けくらい、自分でこなしてほしい。生活を共にする中で浮き彫りになっただらしなさが、すれ違った三週目には膨張してちょっと痛い。 「……はあ……」 箸とコップを洗いながら、息の詰まるこの期間のことを改めて思った。きちんとした会話もない。二人で食事をすることもない。少しの時間に伸びてきた手が、ない。 (こないだまであんなにがっついてたくせに) 高岡さんのスイッチは本当によく分からない。哲学の話をした直後や、悲しい映画を見に行った後でも平気で身体を求めてくる。あの人にはムードとかそんなもんまるでなく、自分が「あ、したい」と思えばそれが立派な動機、それだけで始まってしまうのだ。 (……でも最近、全然してないなあ……) 水道を止め、手を拭いて部屋に戻った。布団の上に寝転ぶとき、なにかを蹴った。脱ぎ散らかした高岡さんの寝巻だった。拾い上げなんとなく顔を埋めると、知った匂いが脳内を揺さぶる。 「……はあ……」 それは溜息のはずなのに、独りの密室を甘く着色した。ジーンズをゆるめたのは着替えるためだったはずなのに、右手はパンツの内側へ伸びていた。 「っ、はあ……」 扱きながら、高岡さんのやり方を思い出す。はじめのうちさらさらと撫でるような、シンプルなやり方で、こちらの変化を見て途中から先端を責める。 「ぅ……」 ああ、違う。なにか違う。高岡さんはこんなやり方じゃない。指先も手首もあの人にはあの人の動き方があり、俺も知らない俺の性感帯を導き出すのだ。 「くっ……」 布団に横になり、左手で高岡さんの服を抱え、右手で扱く。けれど高岡さんのやり方を覚えてしまった身体には、その刺激は半端なものでしかなかった。限界は遠いところに鎮座し、動きもしない。 あの人のせいで、オナニーさえ楽しめなくなってしまった。そう思うと、顔が熱くなるくらい悔しかった。 「くそっ……」 乱暴にジーンズと下着を脱ぎ、うつ伏せるように顔を服に埋めたまま膝を立てる。左手は緊張していた。しかしそれを押し切って、高く持ち上げた尻に指先を持って行き、奥まった箇所に埋めた。 「んぁ……」 自慰で、ここまでするのは初めてだった。初めて触れた箇所は熱く、内側のざらついた壁の感触も慣れず、戸惑った唇からは声が漏れた。怯えつつどうにか捕まえた快感の端を掴む声だった。 「っあ……、たか、おかさっ……!」 震える唇から、よく知った名前が漏れた。顔中その人の匂いに包まれ、後ろを責めると居ない人の存在を間近に感じられた。声を出せば出すほどきもちよく、なった。 「たか、たかおかさっ……んっ、あっ!」 外では雨が降っている。あの人は雨にさらされながら、車を誘導しているのだろう。俺がこんな風になっていることも知らず。 「っあん、あ、高岡さぁん……!」 カタン、と何かが倒れる音がした。外を通る誰かがなにかを倒したのだろうと思ったが、なんとなく音が近い気がしたので振り返る。 部屋の入り口には、高岡さんが立っていた。 「あ、やべ、倒しちゃった」 高岡さんは半分だけ開いたドアの隙間から、にやついた口もとを手で覆い俺を見ている。足元では、置きっぱなしになっていたペットボトルが倒れていた。 何も分からなくなる一瞬のあと、すべてを理解すると耳から首まで膨張するように熱を持ち始めたのが分かった。血液が巡る音さえ聞こえる気がした。心臓は聞いたことのない音を立てていた。俺は慌てて布団を引き寄せ下半身を覆った。 「っな、な、なにしてるんですかっ!」 「ただいまー」 「バイトは!?」 「あー言ってなかったっけ。今日で終わりだからいつもより早かったの。雨降り出したし」 「き、聞いてないです!」 「ごめんごめん、タイミング逃して言い忘れちゃってた」 「い、いつ、いつから居るんですか……!」 「ん? いつだろ。ちょっと前?」 何も分からないし何を言っているのか分からないし、きっと分からないまたでいるのが自分のためだとも知っていた。高岡さんは荷物を置くとごく自然に近付いてきて、抵抗するより先に布団を払われた。 「っ……!」 「ね、伊勢ちゃん」 「……な、なんですか、返してください布団」 「布団はいらない。ねぇ伊勢ちゃん」 「なんですかっ……」 「伊勢ちゃんって俺がいない時いっつもこういうオナニーしてるの?」 「っ……!」 電球の下、布団という唯一の防具を奪われ、剥き出しの下半身があらわになる。必死に手で隠そうとしても、濡れた内ももや今なお半端にたちあがっている性器は隠しきれず、もう言い逃れもできない。 「俺の服の匂い嗅ぎながら? 俺の名前呼びながら?」 「ち、ちがっ……」 そのとき、にやりと意地悪な目が光るのを見た。抵抗する間もなく押し倒され、次の瞬間には先ほどまで自分で解していた箇所に指が押し込まれていた。 「んぁっ!」 「あー……ここ、もうこんなにやわらかいんだ。ねえ伊勢ちゃん、俺がいないとき、いっつもこうやって俺のこと考えてるの? そんで俺のこと考えてると我慢できなくなっちゃうの?」 「ひゃ、あ、ちがっ……!」 動く指が耐え難い刺激を生む。自分の指とは比べ物にもならず、口から漏れる声を我慢できないまま、せめてもの否定にと激しく首を振る。高岡さんはその様子を見下ろし鼻で笑う。 「違わないだろ? 俺にされてる時のこと思い出しながら今みたいにオナニーしてんだろ?」 「んあ、あっ……!」 「ふつうのオナニーじゃ物足りなくなってんだろ」 「あぁっ、ん、ぃやっ……っあ!」 「恥ずかしいな、お前」 羞恥と悔しさに流される一方、込み上げる快感にも抗えず、複雑に絡み合う感情を抑えるあまりついに涙が零れた。こめかみに流れていった涙の行き先は追えなかった。高岡さんはぐずぐずになった俺の顔を見て微笑みながら、俺の足を抱えた。よく解されたその部分は、まるで待ち望んでいたかのように、普段よりもずいぶんスムーズに高岡さんの性器を飲みこんだ。 「ひあっ……!」 「っは、」 「あ、んあ、っ……!」 「……ねえ、伊勢ちゃん。早くこうして欲しかった?」 「や、……ちが、んっ……あぁ!」 首を振り、絞り出した言葉で否定しながらも、腰が動きはじめると声を留めることができなかった。数日ぶりの行為がもたらす快感は恐ろしいほどであった。俺はすぐに否定することを忘れ、高岡さんの首に腕を回し、腰に足を絡めた。 「っあ! あ、ひゃあ!」 「っ……ふは、……伊勢ちゃんやらし……」 「あっん、はぁん、あっ!」 毎日まいにち身体触られたかと思えば、訳のわかんないバイトを勝手にはじめて、二週間以上放置されて、欲求不満になんのも当たり前だろ。それを俺がいやらしいみたいな言い方してんじゃねえ。 と、確かに考えていたはずだけれど、途中から意識が霞みはじめ、争うすべもなかった。とにかく俺は手足をからめ、高岡さんの身体にしがみついていた。 「っあ、あ! やあ、もっ、……っああ!」 自慰のあとの身体はすぐに限界を訴え、俺は呆気なく果ててしまった。少し遅れて、高岡さんも欲を吐きだした。理性が戻ってきたのは、ものを引き抜かれた少しあとだった。 「あーっ! もうまじ最悪最悪さいあく! なんで帰ってくるときに連絡のひとつもしないんですか!?」 「あ、ごめん。もう寝てるかと思って、起こしたら悪いから」 「なんであんなそっと帰ってきたんですか!? いつもただいまーとかクソうるさい声で言うくせに!」 「いやだから、寝てると思ってたから……」 「電気ついてんの見えたでしょ!? 見りゃ分かるでしょ!?」 「伊勢ちゃんよく電気つけっぱで寝ちゃうじゃん」 大声で捲し立てる俺の前で、高岡さんは怒り返すわけでもなく不機嫌になるわけでもなく、終始にやにやと状況を楽しんでいる。それがまた腹立たしさを生む。 「…………正直に言ってください」 「はい」 「……こっそり見てたんでしょ?」 「うん、ごめん、正直。ドア開けたら伊勢ちゃんが喘いでるの聞こえて、ごめん、貴重だなと思ったからついそっと入って見ちゃった」 「…………まじで性格悪いですからね」 「いやでもすんげぇ可愛かった」 「知るかよバカ」 「まじで死ぬほど興奮した……伊勢ちゃんって俺のことほんとに好きなんだなって」 羞恥は限界値を超えると、蒸発してしまうものらしい。にやにやとにこにこと、本当に楽しそうに人の自慰に感想を述べる男を前に、俺はもう抵抗の言葉を忘れてしまった。 「オナニーでも声出ちゃうんだね、ほんとかわいいね」 「……」 「今度は盗み見しないから、また見せてね」 高岡さんは今も、余裕の顔で笑い続けている。

ともだちにシェアしよう!